お泊り3
「はぁぁぁぁ………」
湯船に浸かると、思わず溜息が出た。
“風呂は命の洗濯よ!”と、誰かが言っていたが、今日の様に散々疲れた後のお風呂はやはり格別だ。
身体中の力が抜けて行く感覚がする。
「ふぅぅぅ………」
僕は2回目の溜息をつきながら、先程の会話を思い出した。
**
「準備があるから、拓海は先に入って!」
「準備?」
「そう!だから早く!」
「え?ちょっ、押すなよ……」
「ほら、さっさと入る!」
「わ、分かったよ。入ればいいんだろ。」
**
”準備”とは一体なんの準備なのだろうか。
熱いお湯の中で僕は考える。
…当然ながら、全くヒントがない中で考えても、答えは出てこない。
「……まぁ、いっか。」
考えることが面倒臭くなった僕は、思考を放棄した。
だら〜っと、手足の力を完全に抜く。
自然と目線が上に行き、真っ白な湯気に包まれた天井が目に入る。
その湯気の粒子の行き先をぼうっと眺めていると、1つの名前が頭に浮かんできた。
「ユキナ………」
今日僕が見た、雪菜の部屋のドアに書かれていた名前だ。
「聞いた事があるような……無いような……」
僕が小さかった頃、そんな名前の子がいた様な気もするが、僕に小さな頃の記憶はほぼ無い。
忘れたのだ。意図的に。
……母が僕を捨てた後、僕が必死にその頃の事を忘れる様に努力したおかげで、母親に関する事以外は殆ど忘れてしまった。
だから、僕に”ユキナ”という知り合いが居たとしても、もう思い出せないし、その人が雪菜のお姉さんである可能性は限りなく低い。
結局は、考えるだけ無駄なのだ。
僕はそう締めくくり、立ち上がった。
バスタオルを手早く腰に巻く。
「……上がるか。」
そう呟き、僕は脱衣所のドアに手をかけた。
そして、ドアを開けた。
開けたのだが……
「…………へ?」
「………あ。」
ドアの向こうには、雪菜が立っていた。
こちらを見て呆然としている。
そして………
「きゃぁぁぁぁっ!!」
「うわぁぁぁぁっ!!」
お互いに悲鳴をあげてしまった。
ドタドタと足音が聞こえて、脱衣所から廊下に繋がるドアが勢いよく開いた。
そこには月城さんが居て、瞬時に状況を判断したみたいだった。
「た、拓海くんは早く風呂場に戻って!雪菜もいつまで固まってるの!
拓海くんタオル巻いてるでしょ!」
「だってぇ!」
パニックから回復しない雪菜。
「ああ!もう!いいからこっちに来なさい!」
月城さんは雪菜の腕を引っ張って連行してしまった。
ポツンと取り残される僕。
「……………」
無言で僕は着替え始めた。
*
僕が着替えてドライヤーを使わせてもらっていると、再び脱衣所のドアが小さく開いた。
「………拓海?」
ひょっこり顔を覗かせているのは雪菜だ。
僕は怒っていないことを教えるために、出来るだけ優しく返事をする。
「…どうした?」
僕の声色を聞いて安心したのか、雪菜は中に入ってきた。
「…さっきはごめん……」
本当に申し訳無さそうにしている雪菜に、僕は少し笑いながら言った。
「…大丈夫。見られたのは上半身だけだし。」
それを言うと雪菜は顔を真っ赤にして、慌てながら言った。
「じょっ、上半身でもダメなの!」
「…プールとかで見るのに、ダメなのか?」
「ダメ!」
「そうか……」
よく分からないが、雪菜の前では着替える事は避ける方が良さそうだ。また叫ばれたらたまったものでは無い。
僕がそう心の中で思い、再び雪菜の方を見たのだが、雪菜は僕の右手をじっと見つめたまま動かない。
……それにしても……雪菜って小動物のイメージがあるんだよなぁ………
今みたいにじっと見つめるのもそうだし、寝てる時に撫でたらフニャッと笑う所とかが……
ナデナデ………
「ふぁっ!?」
何というか……ウサギみたいな?
「うぅ…………」
庇護欲を掻き立てられるよな………
「……………」
この前頭を撫でた時も、笑ってたし……
「……えへへぇ………」
そうそう、こんな風に…………
………………………あ。
「ごっ、ごめん!」
慌てて雪菜から飛び退く。
どうやら、知らぬ間に手が伸びてしまったようだ。
雪菜の魅力、恐るべし……じゃなくて、謝らないと!
「本当にごめん!無意識に撫でてしまった!」
僕は必死に頭を下げる。
雪菜は…………あれ?
「えへへ…………」
「せ、雪菜?」
返事はない。
どうやらトリップしてしまっているみたいだ。
「雪菜さん?」
顔の前でフリフリと掌を振ってみる。
「………あれ?」
あ、瞳に光が戻った。
雪菜はキョロキョロと辺りを見回して、最後に僕を見た。
すると………
「っ!!」
ボン!という効果音が鳴りそうなくらいに顔を真っ赤にしてしまった。
まずい………
でも、今はとにかく謝罪をしなければ。
「雪菜、ごめん。つい撫でちゃったんだ……」
僕がそう言うと、雪菜は赤い顔のまま、驚いた事にコクリと頷き、
「ん。」
とだけ言った。
僕はまだ不安だったので、確認を取った。
「…許してくれるの?」
「……うん。」
「い、嫌じゃなかったのか?」
「………嫌、じゃない……」
「…そ、そうか……」
「…うん……」
……許してはくれたみたいだ。
そして、嫌ではないと………
…いやいや、嘘だろう。
うん。きっとそうだ。
僕はサッと煩悩を振り払い、この場の居た堪れない空気をどうにかしようとした。
「り、リビングに戻ろうか。」
「うん。」
顔の赤みが引いた雪菜は、どこか幸せそうな表情を浮かべていた。
雪菜かわゆいと思いまする。