夢現の少女
ジンは崖の下から上を仰いだ。
「よく助かったなぁ……。」
ジンは我が事ながら感心する。
崖に放り出された時、左脇にリグを抱え長剣を上からつき立てるように崖の側面に右手だけで刺した。当然刺さった深さは浅く、落下が止まるものではなかった。ジンは右脇を絞め崖に体を寄せると、両足を崖に付けデコボコとした側面に引っ掛けようと力を入れた。
「っっしょーめがあああぁぁっっ!!」
足裏はすぐに尖がった岩肌に血まみれにされた。長剣は何度も固い石にぶつかり、弾かれ、その度にジンは刺しなおした。 右の肩まで痺れが走った。小脇に抱えたリグは、いつの間にか気を失っていて腕に重みが増す。何度目かに弾かれたとき、ジンはとうとう痺れた手が堪えきれず、剣を宙へと放してしまった。
「しま……っっ!」
目で追い掛ける剣は手の届かないところを舞っていた。弾かれた拍子に、ジンの体も崖から離れてしまう。これ迄か、とリグの頭を抱えて地面を見た。茶色の地面はもう目の前に近付いていた。なんとか木の上に着地出来ないかと崖を蹴ってみたが落下速度に足の方が弾かれた。
「いっっ!」
万事急須と思われたときだった。蔦が物凄い勢いでスルスルと伸びてきた。その数は一本二本の数ではない。何十本という蔦が崖に這い、まるで網のように絡まっていた。ジンとリグはその上に落ちた。弾力のある蔦のネットは彼等をそれほどの衝撃を加えることなく包みこんだ。ぶわんぶわんと揺られながら、ジンは青い空を呆然と眺めた。
「は、は。はははは……。俺の苦労は一体………。」
底のなくなった靴の中で、足裏がズキズキと痛んでいた。彼等が蔦から降りると役目は終わったとでもいうように、蔦は枯れていった。
「何だったんだろな。あれは。」
隣で大粒の汗をかきながら苦しげに眠るリグの額に手をのせる。
「これって熱が出てるんだよな?」
ジンは物心ついてこのかた熱を出したことがない。
「どうすりゃ、いいってんだよ。」
茶色の髪をぐしゃぐしゃと乱暴に掻きむしる。昔、ギガンジールの家で修行していた時のことを必死で思い起こす。そこには女将さんと呼ばれる年配の女性が居て、ジンたちの世話をしてくれていた。ソウフィスが熱を出したとき、女将さんは何か色々とやっていた気がする。
「水をよく運ばされたよなー。」
ギガンジールは桶に汲まれた水をソウフィスの頭からかけようとして女将さんにしばかれていた。ギガンジールも看病のやり方をまったくしらなかったのだ。いや、あれは単なる嫌がらせだったかもしれない。
「そういやぁ、額に手拭い乗っけてたよな?」
ジンは乾いた手拭いを小さく畳むとリグの額に乗せた。
「水はどこで使うんだ?」
ジンは分からないながらも水筒を取り出した。竹でできた水筒は横に亀裂が入り水が溢れていた。
「マジかよ。」
「ジン?」
ひどくかすれて弱々しい声だった。
「リグ、起きたのか。」
ジンはほっとしてリグの顔を覗きこむ。目の焦点があっておらず、まぶたが重いのかうつらうつらしている。
「ああ、まだ寝るんじゃねぇぞ? お前、熱の時水をどうやって使うか知ってるか?」
リグは目を開けておけないようで、閉じたまま答えた。
「飲み水と手拭いを湿らす用だろ?」
「手拭いは濡らすのか……。」
乾いた手拭いを額から退け、壊れた水筒を傾けようとした。リグが非常に汗ばんでいるのが気になる。
「少ししかないから飲んどけ。」
リグの水筒はいつもシー・ルナが持っている。
「ったく、あいつは甘々なんだから。」
リグの体を起こし、水筒を持たせる。リグは三口くらいで飲んでしまった。
「しゃーねぇ、水場を探すか。ここを動くんじゃねぇぞ。剣を探して取り合えず戻ってくるから。」
立ち上がると、くんっと上衣を引っ張られる。
「あ?」
見ると、リグが泣きそうな顔で引っ張っている。捨てられた子犬のようだとはまさにこの事だろう。ジンは眉間にシワを寄せ、怒鳴りたいのを我慢する。
「あのなぁ、草むら探し回るから、お前邪魔なんだよ。見付けたらすぐ戻ってくるから。」
リグはぶんぶんと首を横に振る。
「一緒に行く。」
声を出すのも辛そうで、裾を握る反対側の手は喉に添えられている。
ジンはうんざりしたような顔をする。説得の類は苦手だ。結局、行くと言ってきかないリグを背にのせジンは森を歩く。
布を幾十にもきつく巻いた足は歩きにくい上に痛みが和らぐ事はない。背中にじっとりとした熱が伝わる。
「なあなあ、ジン。」
ガラガラなささやく声は少し楽しそうな色をはらんでいた。
「何だよ。」
足手まといを背中に張り付け、むっとした表情でジンは歩く。
そのことを気にした様子もなく、というよりまったくジンの感情など最初から気遣う様子もなく、リグは話を続ける。
「ジンって、マーシェのこと好きか?」
「ぶほっっ。」
盛大に噴き出したジンをそのままに、リグは先を続ける。
「俺は好きだなぁ、マーシェ。ずっと一緒に旅できたらいいのに。」
熱い吐息と共に出される言葉はいつものリグからは考えられないもの。ジンは熱がどういうものかイマイチ分かっていないが、徐々に心配が沸いてくる。空を仰ぐと、黒い雲がちらほら見えていた。雲の流れるスピードが早い。森の中は木に遮られ、無風といわないまでも緩やかな風だが、上空は激しい風が吹いているのだろう。
背中でこほっと小さな咳が首筋をなぜた。
「あー、まあ、嫌いじゃねぇな。モノをハッキリ言うし、度胸は良いし。少し馬鹿っぽいがな。」
熱い不快さを誤魔化すようにジンはリグの質問に答えてやる。この生暖かさを越えた熱さは、不安を煽る。だが、リグからの返事にしろ、感想にしろ、相づちにしろ、返ってこない。
「リグ? ……こんちくしょう。寝やがって。落として行ってやろうか。」
ぶつぶつと、苦手なことを一人で喋っていたという気不味さから、文句を垂れ流す。正確には、リグは本日二度目の失神なのだが、ジンは熱で気を失うなんて思ってもいない。ジンにとって、寝てれば治る、くらいの認識だからしかたがない。
「この辺に落ちていったんだがな。」
しっかりと剣を落とした場所は目に焼き付けていた。だが、落下中であったため、それはおおよその域を出ない。探すのには時間がかかりそうだった。
場所は背の高い草が生える陽当たりの良い一画。
「めんどくせぇなぁ。」
リグを乾燥した地面に下ろして草を掻き分け始めた。一心不乱に草を掻き分け、探していると、突然辺りが陰った。見上げると、いつの間にか黒々とした雨雲が所狭しと空を埋め尽していた。
「参ったな。」
空気に雨の臭いがうっすらと漂う。頭をがしがし掻きながら作業を再会しようと、下を向いたとき、何かが目の端に止まった。
「ん~?」
それは細く高い木。その枝に乗っかっているジンの剣。
「んな所にあったのかよ……。」
木の幹をガンガンと殴りだしたが、うまく枝に固定されているようで落ちてこない。
「登れってか? 面倒臭ぇなぁ。」
細いとはいっても大地に根を張り巡らせ、ジンが枝に飛び付いても倒れる気配は無い。ひょいひょいと猿のように腕の力のみで登り終えると、目的物を鞘に納めた。
「なーんか、今日は無駄な努力が多いような……。」
木の上で黒い曇天を見上げ、そのまま首を鳴らす。
「損した気分だ。あー、疲れた。」
齢、二十歳にしてすでにオヤジくさい。
「あ、リグの事、忘れてた。大丈夫だよな?」
辺りをぐるりと見回す。視線が止まった先にはリグがいたわけではなく、先ほどの兵士落ちがいた。こちらに向かっている。相手はこちらに気が付いているわけでは無さそうだった。木と木の間に見え隠れする陰。リグが本調子ならこの距離の気配も、もっと遠くから察知してくれただろうと悔やまれた。そうすればリグを早めに移動出来たのに、と支離滅裂なことをジンは苦々しい表情で考える。
相手は四人。ジンも剣の腕前はそこそこあると自負しているが、相手が兵士落ちとなると四人は厳しい。しかも、今は足の裏が痛む。せいぜい二人いけるか、疑問だろう。
「ったく、しゃーねぇなぁ。」
ジンは足の痛みを堪えて一気に細木を降りると、リグを寝かせた場所から遠ざかるように走り出した。わざと側に生えている低木の葉音を立てる事を忘れない。殺気が四つ付いてくる。ジンは必死に走りながら考える。
さて、これからどうしよう。とりあえず、リグから敵の目を逸らすことで万策尽きていた。
***
リグが目を覚ますと辺りはやけに薄暗くぼやけてふわふわとしていた。薄暗いのはこの今にも雨が降りそうな雨雲のせいで、ぼやけてふわふわしているのは高熱のため目には涙が溜り頭はフラフラと浮かされている状態のせいだ。ぞくりと背筋に悪寒が走る。これも熱のせいといっていいのかもしれなかったが、リグはこの張り付くような空気を知っていた。昔、感じた事のある、吐気がするような空気の臭い。
「ジ、ジン?」
立ち上がるとふらりと地面が揺れる。だが、不安からそんなことはお構い無しに辺りを見回した。
「ジン! ジン!?」
気を失っていたリグには時間の感覚がない。先ほどまで側にいたジンがいなくなっていることに強い焦燥を覚える。リグは少し離れた場所に殺気を感じて、側に置いてあった剣を取り駆け出そうとした。
重い。普段からでも重いリグの剣は体力の落ちた体にはきつかった。心だけは焦る。剣とジンがいるであろう方向を見比べ、震える手で剣を木に立掛けた。
「ごめん。ごめん。」
膝まついて剣に向かい頭を垂れる。
「忘れたわけじゃない。忘れるわけじゃない。」
顔をあげた藤色の瞳からは涙が静かに溢れていた。
「だけど、ごめん。放ってもおけない………。」
立掛けた剣は何も語らない。時間がないことは空気の臭いで分かっていた。