プロローグ
前に投稿したのを書き直しました。
よろしくお願いします。
http://ncode.syosetu.com/n2337cb/1/
こちらがもう一人のヒロインのお話です。
病気というものは、カーペットに染み渡っていく水滴のように静かに、そして着実に深まっていく。最初の一滴はそう気にするほどでもない。乾くのを待てばいい。
でもやがて気づく。
一滴、一滴と耐えているうちに取り返しのつかないほどに布が傷んでいくことに。カビが生えたり腐ったりしたなら交換しなければならない。見苦しいし、何より放っていたら下にある床まで傷んでしまう。
病院に長く居てわかることといえば、その”換え”が利くかどうかという見極めがつくことだ。「ずいぶん傷んでしまったね」で済む人もいれば、到底乾くはずのない傷みを抱えてしまった人もいる。そういう人たちのしている顔つきはだいたいが一緒だ。湿気った胸の感覚に息を詰まらせ、腐った床がいつ抜けるのか今か今かと恐怖に身をよじらせている。抜けた床には底の知れぬ深い闇が広がっていて、一度そこに落ちれば二度と這い上がることができないことを彼らは知っている。
だから彼らは湿った感覚を癒そう懸命に光を探すのだけれど、それとは逆にその体はあらゆる色素が抜けてしまったように青白くなっていく。ここまでくれば終わりが近い。喚く気力もなくなり、やがて彼らは植物と見分けがつかないほどに動かなくなり、言葉を失う。
そういった過程をふまえて、生き物がただの”モノ”になる。体は空っぽになり、放っておけば廃墟のように朽ちていく。雨風に晒されたカーペットのように。萎んで、霞んでいきーーやがて存在は完全に落ちくぼんだ闇にとけ込んでいくのである。
サナトリウム。この終末医療を提供する、全国でも数少ない環境が彼女の居場所だ。
この施設はまもなくその人生を終える人々が集められ、共同生活を送る。特に身よりのない人や、家族に見放されてしまった人たちが集められ、その人生の終末を過ごすのだ。政府の慈善事業の一環で作られたらしいのだが、その後政権が変わると撤退、今は民間企業がそのまま施設を買い取って運営している。だがそんなことは彼女たちには些事に過ぎずいずれこの世から去るという事実には何も変わりはなかった。皆も同じだ。国から捨てられたことは何も堪えなかった。家族に捨てられた人にとって、もう怖いものなど何もなかったのだ。死以外には。
彼女はその一人で、気づいた時には家族は周りにはいなかった。それでもさみしさはなかった。だから彼女はその小さな小さなコミュニティの中で”家族”を作った。男がいて、女がいて、やがて二人は傷を舐めあうように寄り添い、夫婦になった。もちろんそんなものはただの”役”であって実際に籍を入れたわけじゃない。でもたぶん彼らは本気で愛し合っていただろう。そんな二人組が何組もできて、年の若い子供たちはーーまあ施設には子供なんてほんの数人しかいなかったけれどーー本当の子供のように”夫婦”に慈しまれるようになった。本当に子供を設けるには彼らはあまりにも病弱だったのだ。
こういったことが、何度も繰り返されて、”家族”ができては誰かの死によって崩れ、そして誰かの入院によってまた”家族”ができた。
きっと、彼女たちは施設の中の最年少の”夫婦”だった。彼女の薬指に光るこの指輪は彼からもらったものだ。
彼。
新田笑里という存在にとって何よりも大切な存在だ。
その彼が、ある日彼女に不思議な話を聞かせた。
「もし明日自分が死ぬとして」
彼は本をぱたんと閉じて、窓の外の光景に目を向けた。この施設は岬の上にあるから元々景色はいい。その上彼の病室は施設のもっとも日当たりのいい場所にあるから、こうして景色に臨むには最高の場所だった。
ガラス一枚隔てただけで、暖かい陽光に照らされた世界は本当に祝福に満ちているように見える。木々は風に撫でられるようにしてさらさら揺れているし、あくせく働いている人々はここからだとただの黒い点にしか見えない。
ここは天国にもっとも近い場所なのだろう。
彼はさきほど出した自分の言葉の重さに少し逡巡しているようで、吐き出せないようだった。つっかえたように黙り込み、息苦しそうに青白い顔をゆがめた。そんなときいつもしているように、彼女は待った。体の痛みは察してあげることができる。彼女自身が病気持ちだし、そういったときの胸の気持ち悪さや体の疼きはよくわかるからだ。
だけど心の痛みはどうしようもない。
抱えている痛みは全く察することなんてできない。だから待つ。どんなに時間がかかろうとも彼女は待つ。優しい言葉など意味を持たなかったし、何か彼にできることなんて何もない。だから自分の時間を彼のために使うことしか、彼のためにできることはなかった。
「もし明日自分が死ぬとしてーーそれまで一緒に生きようと言ってくれる人と、一緒に死んであげると言ってくれる人とどっちがいい?」
彼は、窓から差し込む陽光に眩しそうに目を瞬かせる。
その質問の意味はよくわかっていた。
彼はいずれ死ぬのだ。それを彼自身よくわかっている。
彼女は答える。
そのあとの彼は呆れたような、納得したような妙に穏やかな表情をしていた。
少し迷った後口にした答えだったが、間違いじゃなかった。そう思った。
数日後、彼は危篤状態となった。
彼女は自分の病室で待った。このときも私は待っていた。待つことしかできなかったからだ。
何時間もしたあと、彼が手術室から出てきた。ずっと待っていた少女に、憐憫の視線が向けられた。
山場は超えた、と担当の医師がこっそり教えてくれた。しかしその表情は凝り固まったままだった。
「次の発作に持ちこたえるのは無理だろう。覚悟した方がいい」
喜びの次に、底のない絶望が押し寄せた。
そのまま床に座り込んでしまう。一歩も動ける気がしなかった。彼なしでは新田笑里という存在は意味をなくしてしまうのだ。彼にとって笑里がかけがえのない存在であるのと同様、笑里にとっても彼は唯一無二の存在だった。
二人は一心同体だった。
彼が死ぬなら、と笑里は思った。
そんな果てなき絶望のどん底のとき、ソレは現れた。
続く……