5.どうせ出るなら
部室棟は、体育館に続く坂道を背に建っていた。主に文科系のこじんまりした部が使用しているところで、体育会系の部室は体育館やグラウンドの近くにある新部室棟に集まっている。
坂道と部室棟の間は、細長い小さな庭になっていて、昼休みや放課後の遅い時間にはあまり人気もない。いわゆる、二人きりになれる格好のスペースで、告白などによく使用されていることは、愛里も知っていた。
けれど、冬馬の呼び出しが、そんな色めいたものであるはずがない。心当たりのない愛里は、萎えそうになる気持ちを抑え、校舎を出て、部室棟の裏に回った。
冬馬は、やはり先に着いていた。待たせすぎただろうかと、愛里は不安になった。坂道に並ぶ木々のおかげで、ちょうど日陰になっていて、残暑厳しい九月のまっ昼間でも過ごしやすそうな場所なのが幸いだった。
ところが、愛里が近づいて行っても、冬馬はこっちを見ない。
「だから、俺に憑くのはやめろって」
「引き受けるまでは離れん」
「やらないって断っただろ」
「あの子は、それくらいで挫けたりしないっ」
誰かと話をしているようだが、……誰もいない。
「あの、緒方くん?」
恐る恐る愛里が声をかけると、
「こいつを何とかしろ」
振り向いた冬馬が、また隣を指さしながら言う。愛里が、冬馬の隣に視線を向けると、
「愛里、大丈夫だ。パパがついてる。玉三郎は、なんとしてでも、引き受けさせるっ」
意気込みが伝わってくるほど熱い声がした。
昨日、自転車置き場で聞いた空耳と同じような気がする。
「まさか……ね」
愛里は、冬馬を見つめた。
「まさかじゃない、昨日から、俺に憑いて離れないんだ。この暑苦しい親父が」
「はあ? 暑苦しいとはよく言った。かわいい愛里の頼みごとを散々冷たく断ったのは誰だ? 父として、困っている娘を何とか助けたいと思うのは当然だろう」
「ただの親ばかだろう。死んだ親父が子供のことに口を出すな」
「手を出せないんだから口を出して何が悪いっ」
冬馬と声の応酬は、際限なく続きそうだった。
「……ほんと、に、パパ?」
愛里が、ようやく絞り出した声で言った。
「そうだよ、愛里。すっかり大きくなって。ママに似てきたな。あんまりかわいいんで見違えたぞ」
心底嬉しそうな、はしゃいだ声。
「だってパパは、十三年前に……」
「伊藤、信じられないかもしれないけど、幽霊だ」
「ゆうれい?」
「ああ。年齢は、三十歳前後。黒の短髪で、かなり鍛えてそうな体をしてる。着ているのは、濃い青のつなぎみたいな作業着。よく、レスキューなんかが着ているような。背中に、白抜きのアルファベットで桜橋ファイヤーステーションって書いてある」
冬馬は、自分の見えているものを説明した。
「……緒方くん、見える、の?」
「残念ながらこれ以上ないくらいはっきりとな。親父ってのは、嘘じゃなさそうだ。……伊藤に、ちょっと似てる」
冬馬は、静かに言った。いつもの、突き刺すような冷たさは影を潜めていた。
「パパ……」
声を詰まらせて、半信半疑だった愛里の目に確信が宿ると、見る見る間にあたたかいものが溢れてきた。
「あ、愛里、な、泣くな、パパが悪かった」
娘の涙にうろたえ、なぜか謝る幽霊。愛里はうつむいてしまい、ぽたぽたと地面に涙が落ちた。
「愛里?」
愛里の肩が震えている。
「……どうせ出るなら」
愛里の声も震えていた。見えない父親に向かってつぶやく。そして、
「なんでもっと早く、ママのところに出ないのよ、パパのバカっ」
震えながらも、愛里は叫んだ。本気で怒っている。
「……」
「……」
「……くっ」
ぶあっはっはっは……爆笑。こらえきれないといった様子で、冬馬が腰を折って大笑いし始めた。目尻に、うっすら涙さえ溜めている。
「……霊を、怒鳴りつけるやつって、初めて見た」
どうやら冬馬のツボに入ったらしい。
笑う冬馬を初めて見た愛里は、驚いて涙も怒りも引っ込んでしまった。