4.ありえないって
愛里と冬馬の攻防など誰もが知らん顔で、次々と自転車通学組が帰っていく。
「けっこう頑張ったんだけど、な」
冬馬の後ろ姿を見送った愛里が、ぽつりとこぼした。
部活動なしで帰宅する生徒たちの波が引き、やがて間引かれた自転車の列と愛里だけが残った。
愛里もそろそろ帰ろうかと踵を返した、その時。
「あきらめるな、愛里」
頭上から、声が降ってきた。
自転車置き場の屋根は、波板の簡単なもの。誰かがその上に上ったとしたら、ずいぶん危ない行為だ。その相手を見ようと、愛里は顔を上げた。
半透明な波板の上には、誰もいない。
愛里は辺りを見回してみたが、人が隠れられそうなところはなかった。
「ああ、見えないんだな、愛里には」
再び降ってきた声は、ものすごく残念そうだった。
「せっかく、パパが応援してやろうと帰って来たのに……」
「……パパ?」
「そうだよ、愛里」
「……ありえないって」
愛里は、ぶんぶん首を振ると、空耳そらみみ……と何度もつぶやきながら、自転車置き場から逃げ出した。
「ま、待ってくれ、あいりっ!」
追いすがる声は、さらに愛里あいりと連呼していたが、愛里は耳をふさいでいて、届かない。
「……それなら、あっちか」
やがて声は一人で何かを決めたようで、消えてしまった。
翌日、愛里が登校すると、冬馬が例になく早く教室に入ってきて、
「伊藤」
おはようの挨拶もなく、いきなり呼びつけられた。
いつもに増して、怖い。取り巻くオーラが、猛吹雪である。
愛里が、そこまで冬馬の気に障るようなことをしただろうか。昨日の自転車置き場でのやり取りは、一方的に愛里の申し出が断られただけで、むしろ愛里の方が気分を害してもおかしくない。
「なんだ、あれは」
冬馬が言った。
「あれ、って?」
あれと言われても、愛里は、さっぱり訳がわからない。
「だから」
冬馬は、自分の頭上を指さした。
愛里は、冬馬の指さす辺りを見てみたが、特に変わったものがあるわけでもなかった。愛里が首をかしげていると、
「……見えないのか?」
「?」
冬馬は、愛里が本当に見えていないと悟ると、ほんの少し肩を下げた。
「……とにかく、お前に何とかしてもらうしかなさそうだから。昼休み、弁当が済んだら、部室棟の裏に来てくれ」
彼特有の突き放すような口調にもかかわらず、そう言った冬馬は、なんだか頭が痛そうだった。愛里は、冬馬が気の毒になって、うなずいた。
冬馬はそれきり自分の席に戻ったが、愛里には周りの目が痛かった。氷王子が挨拶もせず、いきなり愛里にまっしぐら、である。何が起こっているのかと、クラスメイトたちは興味津々だった。
それから愛里は休み時間ごとに、「何かあったの?」などと聞かれたが、むしろこっちが教えてほしいくらいだった。昨日、玉三郎の件でお願いしてみて断られただけなんだけど、と、愛里はいちいち説明しなくてはならなかった。
そして昼休み。
「さっさと食べたほうがいいよ」
まなかが、忠告する。なんだか食べ終わりたくなくて、今日は愛里の箸が進まない。
「王子、とっくに出てったから」
知っている。冬馬は、教室を出る前に、愛里に氷のような視線を投げていった。
「なんだか、わからないけど。行くしかないでしょ?」
確かに、それはそうなのだ。愛里は、冬馬に玉三郎を受けてほしい。それなら、当の本人が来いと言っているものを無視するわけにはいかないだろう。
愛里は、最後までとっておいた母特製の卵焼きを頬張った。やさしい味が少し勇気をくれる。ごちそうさまと弁当箱を片付け、愛里は立ち上がった。
「行ってくるね」
「……ついてきて、とか言わないあんたが好きよ?」
まなかがそう言って、ひらひら手を振ってくれた。