3.巻き込むな
五時間目は体育だった。
体育祭前ということもあってか、男女とも陸上競技で、校庭の中で別種目をやっている。
愛里は、幅跳びの順番待ちをしていた。そこからは、ちょうど男子が走り高飛びをしているところがよく見えた。やはり愛里の目は、知らない間に冬馬を追っていた。
見事な背面飛びで彼が飛んだ瞬間は、青い空が一段と高くなったような気がした。
「……きれい」
思わずつぶやいた愛里の隣で、まなかが一人うんうんとうなずいていた。
「やっぱり、緒方くんじゃないとダメだよね」
愛里が言うと、
「せっかく勝てる駒があるのに、使わないなんてもったいないでしょ?」
まなかは、違う角度で後押しする。
あと何人かで、愛里の飛ぶ順番が回ってくる。正直言って体育も、幅跳びも、そんなに得意なほうじゃない。愛里は、立ち上がって屈伸してみた。
「でも、ただ頼むだけじゃ、無理だよね?」
小声でまなかに言いながら。
「そうね。正攻法じゃ、厳しいかな?」
「……敵を知らなきゃ、策もなし、か」
「そんな言葉あったっけ?」
「さあ?」
笛が鳴った。愛里は、おしゃべりをやめて、スタートラインに向かった。
下校途中の冬馬を待ち伏せしようと、終業後大慌てで校舎を出た愛里は、自転車置き場にやってきた。走ってきたかいあってか、まだ本人は姿を見せない。
所在なく冬馬を待つ愛里は、初めて彼と話した時のことを思い出していた。
冬馬を認識したのは、入学してすぐのことだった。クラス分けの時、すでに周りの女子たちが騒いでいた。彼の抜群の容姿に、騒がれるのも無理はない、こんな人が本当にいるんだ、と思ったものだ。
だが、入学直後に行われた春休みの課題テストで、愛里が人生初の再試にショックを受けていた時、たまたま近くにいて、
「入学早々赤点か」
と、追い打ちをかけるように冷たく言ったのが冬馬だった。
「とりたくてとったわけじゃ……」
「公式、覚えてりゃ解ける。やらなかったことを、言い訳するな」
さらに厳しく切り返され、愛里は何も言えなかった。
確かに、高校入試をクリアしたことに浮かれて、課題にはほとんど手を付けなかった。課題として示されていたのは渡された教科書の第一章分だったから、どうせ後で授業でするのに、と思ったのだ。甘かった。授業なんてなかった。課題テストがあって、平均点以下は再試。授業は、一章は済んだものとして第二章から始まった。
話したのはそれだけだったが、そこまで冷たく言わなくても、と思ったものだ。
冬馬は、いつでもそんなふうだった。ついたあだ名が、氷王子。遠目で見る分にはいいが、近づくと怖い。誰か、あの氷を溶かしてくれ、と思ったことも何度かある。だが、誰かでなくて、愛里がやらないといけない状況になってしまった。
やっぱり貧乏くじだ。そう思った時、冬馬が校舎の角を曲がって、歩いて来るのが見えた。
冬馬は、愛里を無視してさっさと自分の自転車に向かう。
「緒方くん」
愛里が声をかけると、心底嫌そうに、
「またお前か」
と、にらみつけられた。これくらいで怯んではだめだと自分を叱咤して、
「玉三郎コンテストのことだけど」
愛里は一気に言った。
「だから、断ったって」
「でも、緒方くんを、ってみんなが」
「お前、頭、悪い?」
あまりの言われように、愛里は驚いて言葉を継げなかった。
「本人が嫌だって言ってんの。『みんな』は関係ない」
冬馬は、自転車の鍵を外し、自転車置き場につないでいた盗難防止ロックも外す。
「でも、なんで? うちの高校の大事なイベントだし、みんなで参加して、勝ちたいって思わない?」
「思わないね」
冬馬はサドルにまたがり、そのまま漕ぎだそうとする。
「待って」
自転車の前に立ちふさがって、愛里は食い下がった。
「なんで嫌なの?」
「誰が女装したい?」
「女装くらい……」
「ならお前がやれば?」
「私がやったって意味がないもの」
「……お祭りがしたきゃ、やりたい奴だけでやってくれ。わかってると思うけど、俺に協調性を期待するな」
冬馬にしてはえらく饒舌だったが、必死な愛里は気がつかない。
「俺を巻き込むな」
言い捨てて、愛里の脇を自転車の風が走り抜けた。