2.一言返し
冗談であってほしいと思う愛里の背中に、クラス中の雰囲気がピシッと一瞬で氷つく気配が感じられた。
振り向かずとも、わかる。氷王子こと緒方冬馬その人が、開けっ放しの扉をくぐり、教室に入ってきたのだった。
相変わらず厳しい冷気のような雰囲気をまといながらも、淡々と挨拶を返す。しゃべらないわけではないのだ。
入学してしばらくしたころ、他人を突き放すイメージとは裏腹に挨拶を返す彼を見て、思わず愛里は、
「へえ、緒方くんって挨拶するんだ」
と口に出してしまった。それが当人に聞こえたらしく、
「礼儀だろう」
と、冷たく一蹴されてしまったことがあった。
まだ残暑厳しい9月というのに、彼の周りは涼しいを通り越してブリザードだ。
けれど、まなかが愛里に目線で「行け」と合図するので、もう仕方なく、愛里は彼を追った。
冬馬は、ちょうど席に着くところだった。愛里は、
「緒方くん」
何とか勇気を出して声をかけてみる。さらりとした前髪越しに投げつけられた視線が冷たい。薄い茶色に、光の加減によっては青い虹彩が、愛里を見ていた。
「お、おはよう」
「おはよう」
冷たいけれど、柔らかなバリトンの声。
「あの、玉三郎コンテストの……」
愛里が話そうとするのを遮って、
「もう始業だ。後にして」
と、会話は終了してしまった。
同時にベルが鳴る。ばたばたと、クラスメイトたちが席に着く。愛里も席に戻った。
入室、挨拶を交わしつつ着席、始業。冬馬の時間には、まるきり無駄がない。いつものことではあった。
だから、やっぱり行くだけ無駄だったじゃない、と愛里は、斜め後ろの席のまなかに恨みがましい視線を送った。まなかの方は、知らん顔をしていたが。
昼休み。愛里は、急いで弁当を食べ終えた。
冬馬は教室で弁当を食べ、その後はいつも消えてしまって、五時間目開始間際にしか戻らないのだ。彼と話すには、冬馬が教室から出るまでに捕まえなくてはならない。
愛里が慌てて窓際の冬馬の席まで行くと、彼はもう弁当を片付け始めていた。
「緒方くん」
声をかけると、またお前かという冷たい空気が漂い、
「断ったから」
と一言返された。
「私まだ、何も言って……」
「今朝、言いかけただろ」
「あ、うん、でも……」
「やらない」
ぴしりと言い放って、冬馬は立ち上がった。小柄な愛里は何も言えないまま見下ろされ、上から吹雪が吹き下ろしてきたかのよう。
「そこ、邪魔」
言われて彼の通り道をふさいでいたことに気づき、愛里は慌てて通路を開けた。
通り過ぎる背中は話しかけられるのを拒絶していて、愛里は、それ以上何も言えなかった。
そうして冬馬が教室から消えた途端、ふうっと息つくように教室内の空気が緩んだ。
女子たちがわらわらと愛里の周りにやってきて、
「やっぱり伊藤さん勇気あるー」
「この調子で頑張って」
「玉三郎は、やっぱり氷王子じゃないとね」
「ねー」
口々に無責任な応援をしてくれた。
頑張るも何も、この調子じゃどうにもならないだろうと、内心愛里は思う。けれど、いよいよ玉三郎スカウトとして周りから固められ、やめるとも言えない状況に陥っていく気がした。
「あんた、責任感強いからね」
いつの間に来ていたのか、ぼそりとまなかが言う。
「そういうの、わりとわかってての無茶ぶりだから」
机を合わせて愛里と一緒に弁当を食べていたまどかだが、愛里の例のないスピードに付き合う様子はまったくなかった。おそらく、今、食べ終わったところだろう。
「貧乏くじっていうの、それを」
愛里が返すと、
「それでも、あんなに急いで食べてたし」
まなかは笑う。
「やるだけは、やるんでしょ?」
愛里が答えないでいると、まどかは、
「ある意味、チャンスじゃない?」
などと言い出した。
「何のチャンスよ?」
「王子に公然と近づける」
にんまり笑うまどかに、
「顔がいいのは認めるけど。寒いし、怖いし、いいことないよ」
抵抗するように愛里が言うと、
「でも、見た目はいいよね?」
さらに念を押されてしまったのだった。