21.ここにはいない
「……愛里」
名前を呼ばれた気がした。
愛里がそっと目を開けると、白い天井が見えた。どうやら保健室の長椅子に横になっていたらしい。雨に濡れていたのが炎にまかれ、あらかた乾いている。それでもベッドを使わせてもらうのは気が引けるよね、などど、ぼんやりと愛里は思った。
「……パパ……?」
呼んだのが泰造かと思って口に出すと、
「親父さんじゃないけど」
と、微妙に不機嫌な固い声が返ってきた。
「緒方くん?」
愛里は驚いて跳ね起きた。
「起きて、平気か?」
そばの丸椅子に座っていた冬馬が言った。
「緒方くん、どうして……?」
愛里が聞くと、冬馬は、
「親父さんから、すごく焦った声が届いて。学校へ向かうって。それで」
と、タイミングよく冬馬が現れた事情を話してくれた。
「……今、何時?」
窓の外は、日も落ちて暗い。長い間気を失っていたのかと不安になった愛里が聞いた。
「七時前」
「そんなに時間たってなかったんだ」
「倒れたから、とりあえずこっちに運んだだけ。保健の先生も帰った後だし。動けるようなら、送っていくよ」
そう言って、冬馬は立ち上がった。
「……教室、どうなったの? 神輿は?」
長椅子の上で上半身だけ起こしたまま、愛里は矢継ぎ早に聞いた。
「時宗がすぐ来たんだ。こういうの、慣れてるらしい。それで、……浄化? してくれた。教室は、燃えた跡なんか残ってないし、神輿の方もブルーシートが煤けて、装飾が黒くなったくらいで済んだって」
「そっか」
神輿や教室が無事と聞いて、愛里はほっとした。息を吐いた愛里に、
「……無茶するなよな」
冬馬は、怒りを飲み込んだような不愛想な声で言った。
「だって」
「だってじゃない」
愛里がしようとした言い訳を、冬馬は冷たく打ち切った。
冬馬にだってわかっている。みんなで作ってきたものを無にされることに対して、動かずにいられる愛理ではないこと。それでも、勝手に危ない目にあったことには腹を立てていた。愛里は連絡もせず、一人で学校に向かった。もともと冬馬に憑いていたもののせいだというのに。
「……親父さんがいなかったら、どうなってたと思ってるんだ」
静かだが厳しい口調だった。
「そうだね、パパがいなかったら、いまごろ……。……え? パパ、は?」
さっきから答えるのは冬馬だけで、泰造の声がしない。
泰造なら、愛里が目を開けた時点で、「よかったなー愛里。パパは心配したぞー」とでも言って大喜びしそうなものなのに。
泰造の気配もない。
「緒方くん、パパは? ここにいるんだよね? なんで黙ってるんだろ。私には、見えないのに」
愛里は一気にまくしたてた。そんな愛里をなだめるように、
「伊藤」
冬馬はやはり静かに言った。
「親父さんは、ここには、いない」
「え? ……どうして?」
張りを失う愛里の声。冬馬は、わからないと首を振った。
愛里が倒れた時、愛里を包んでいたものが床との衝撃を和らげ、そしてゆっくりと霧散したことを、見ていた冬馬は、けれどそのまま愛里に伝えることはできなかった。
「大丈夫そうなら、帰ろう。家の人が、心配するだろ」
そう言って、愛里を促す。
愛里は黙って小さくうなづいて、差し出された冬馬の手を取った。冬馬の手は、思ったより暖かかった。
保健室から廊下に出ると、一年七組の教室の後始末を終えたらしい時宗が歩いて来るところだった。
「伊藤さん、起きたんだ。よかったね」
時宗と冬馬には、「お疲れ」という暗黙の雰囲気があった。
「時宗くん、パパを知らない?」
彼に聞くのは、お門違いな気もしたが、愛里は問わずにいられなかった。
「緒方くんの舞が、すごかったから。ちょっと避難してるんじゃないかな?」
時宗はそう言って、僕もあそこまでできるとは思ってなかったんだけど、霊の凝り固まった炎まで撃退できちゃうなんて緒方くんは日々進化しててすごいんだよね、などど饒舌に冬馬を褒めた。
それから、冬馬が借りていた保健室の鍵を職員室に返し、学校を出るまで三人で歩いたが、泰造の気配は戻らなかった。
冬馬は、愛里を送り届けるために帰宅する時宗と別れた。
愛里に合わせて、冬馬は、ゆっくりとした歩調で歩いてくれる。二人は、黙って並んで歩いた。時に曲がり角で愛里が方向を示す程度だった。
いつの間にか雨はあがっていて、夜空の雲の隙間から、半月が顔を出していた。
「あ、その角の家だから」
愛里は、冬馬に向き直る。
「ありがとう、緒方くん」
そう言って顔を上げた愛里に、冬馬は何と答えればいいのかわからなかった。
保健室のタオルで拭きはしたものの、煤の汚れとまだ泣いた後の残る頬。
「ね、もう、パパに、会えないの、か、な……」
その頬にまた一筋涙が流れた。
声だけだってよかった。暑苦しくてうるさいくらいだったけど。ただまっすぐに、愛里を心配して、大事に大事に愛おしんでくれた。
「……もうパパと、話せない、の、かな……」
冬馬は何も言えず、ただぎゅっと愛里の頭を抱え込んだのだった。




