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九番の人

作者: 旭倫
掲載日:2026/10/29



一


久保が名字で呼ばれたのは、荷物が四十七個、届かなくなった日の翌朝だった。


それまでは九番だった。


「九番、これ持ってって」

「九番、車そこ邪魔」


配送センターの端末に登録された番号である。最初は十五番だったが、契約会社が変わったときに九番になった。仕事も車も配る町も同じだったので、久保は会社が変わったことを知らなかった。


「若返ったな」


と、自分で言った。


事務の女は聞こえなかったらしい。久保は少し大きな声でもう一度言い、女が顔を上げる前に外へ出た。


久保は四十三歳で、軽自動車を一台持っていた。持っていた、と本人は言うが、毎月の明細にはリース料が引かれていた。いつ自分のものになるのか、一度だけ尋ねたことがある。


「そのプランだと、ならないですね」


と言われた。


それ以来、車を所有する人間は、固定資産に縛られた人間だと思うことにした。


正社員についても同じだった。


あの人たちは、辞めたい日に辞められない。自分はその気になれば明日にも辞められる。だから、朝六時にセンターへ来て、夜九時に戻るときにも、久保は自由な人間だった。


ただ、辞めたい日には、たいてい翌月の支払いがあった。


***


センターに大野という若い男が入ってきた。


初日に荷物を積むのを手伝ってやると、大野は何度も頭を下げた。久保は気分がよくなって、教える予定のなかったことまで教えた。


三丁目の老人ホームは裏から入ること。河野さんの家には河野という表札がないこと。留守でも犬のいる家の門は開けないこと。


「こういうのは、機械じゃわかんねえから」


大野は携帯にメモした。


その翌週、大野の配達件数が久保を上回った。


休憩室で、久保は言った。


「あいつ、走ってるからな。若いうちは走れるんだよ。俺らくらいになると、走らずに終わらせることを考える」


その日、久保がセンターへ戻ったのは、大野より一時間半遅かった。


しかし帰り道、自分のほうが仕事を深く理解している気がしていた。


やがて大野が、雨の日の荷物には余分の袋をかけていると知ると、「そこまでやると、客がつけ上がる」と注意した。


大野は少し考えてから、


「でも、濡れるんで」


と答えた。


久保はそれ以来、大野に道を教えなくなった。


***


春、センターに大きな横断幕が掛かった。


〈全員が経営者。新しい配送へ。〉


佐伯(さえき)所長が、これからは年齢も社歴も関係ないと言った。現場の声を直接聞くため、全員参加のグループを作るという。


久保はその日のうちに参加した。


所長の表示名は「佐伯」だった。久保も「久保」にした。同じ大きさの丸い枠の中に、それぞれの顔が入った。


二つの顔をしばらく見比べてから、「現場としても期待しています」と送った。


佐伯から親指を立てた印が付いた。


久保は画面を保存した。


翌朝、積み込み場で大野に会うと、「昨日、佐伯と話したんだけどさ」と言った。


話の中身を考えていなかったので、そのあとで咳をした。


新しく導入された配送アプリには、荷物をまとめて処理する機能があった。操作説明会は昼休みに開かれ、参加した者には弁当が出た。


久保は前の席に座った。


説明の終わりに、所長が質問はないかと尋ねた。久保は手を挙げた。


「現場の裁量っていうのは、今後もっと増える感じですか」


所長は、まさにそういうことです、と言った。


久保はうなずいた。弁当の輪ゴムを外すとき、後ろの席の者が自分を見ている気がした。


その晩、作業を終えても、アプリには未処理の荷物が四十七個残っていた。


その荷物を積んだ覚えがなかった。


朝、担当区域の荷物がまとめて端末に登録されるため、倉庫に残った分も自分の一覧に入ることがあった。


事務に電話すると、忙しそうな声で、


「倉庫に戻ってる分じゃないですか。まとめて終了しておいてください」


と言われた。


画面には「持戻」と「配達完了」が並んでいた。


久保は「配達完了」を押した。


確認画面が出た。


〈四十七件を処理します。よろしいですか。〉


よくなければ、こんなところにボタンは置かないだろう。


久保は、はい、を押した。


***


翌朝、佐伯は久保を会議室へ呼んだ。


「久保さん、ちょっと重大な話です」


さん、の付いた名字を聞いて、久保はまず椅子に座り直した。


届いていない荷物が配達済みになっている。問い合わせが続いている。中には薬もある。所長は机の上に紙を置いた。


久保は電話で指示されたことを説明した。


誰に、と聞かれた。


名字がわからなかった。


声は、と聞かれた。


女だった。


佐伯は長く息を吐いた。


「事務の女性だけでも三人いるんですよ」


自分が三人の名字を知らないことが、急に悪いことになったように感じた。


その日の配達は外された。


待機していると、大野がそばへ来た。


「朝、荷物まだあるんですけど、一緒に確認します?」


久保は顔を上げずに言った。


「お前、自分のやってろよ」


大野が行ったあと、久保は、自分は若い者に責任を負わせなかったのだ、と考えた。


昼過ぎ、佐伯がまた来た。


「事情は調べます。ただ、お客様向けに、まず一言お願いしたいんです」


センターの公式アカウントに載せる短い動画だった。


久保は断ろうとしたが、所長は、顔を出せば誠意が伝わる、と言った。


「いつも顔、出してないじゃないですか。会社の」


「だから今回は、現場から」


現場、という言葉は、昨日まで久保を少し偉くしていた。今日は、それを言われるたびに、所長が一歩遠くへ下がるようだった。


壁の前に立った。


「このたびは、私の確認不足により」


そこで一度、言い直した。


「確認不足も、ありまして」


撮影していた社員が携帯を下ろした。


佐伯は何も言わなかった。


久保は最初から読み直した。


***


公開された動画には、〈配送担当 久保〉と名字が表示されていた。


動画はよく見られた。


センターが普段載せている、交通安全の標語や花壇の写真より、ずっとよく見られた。


〈薬が届かなかった人の気持ち考えた?〉

〈こういうおっさんいる〉

〈笑ってない?〉


久保は笑ってはいなかった。


ただ、頭を下げる前に、撮っている社員と目が合い、口元を少し動かした。それは、これでいいですか、という顔だった。


その部分を繰り返す動画が作られた。


十回ほど見た。


見れば見るほど、確かに笑っているように見えた。


車の中で、「ネットのやつは暇だからな」と言った。


そう言ってから、また見た。


夜、自分のアカウントで事情を書いた。倉庫に荷物があったこと。電話で指示を受けたこと。配達を放棄したわけではないこと。


投稿する前に、最後へ一文足した。


〈何も知らない外野は黙っていてほしい。〉


その一文だけが、切り取られて広まった。


翌日、佐伯から、個人での発信は控えるよう電話があった。


「こっちの名前は出すのに?」


と久保が言うと、少し間が空いた。


「久保さんを守るためにも言っています」


電話を切ったあと、守られているなら待つしかない、と思った。


待つことには慣れていた。荷物待ち、入金待ち、信号待ち。それらはすべて、仕事の一部だった。


***


アプリにログインできなくなった。


〈現在、ご利用を制限しています。〉


センターへ電話すると、調査中だと言われた。


一週間後も調査中だった。


リース料は引き落とされた。


久保は車をセンターへ返しに行った。所長は会議中で、事務の女が鍵を受け取った。


受領書に署名する欄があった。


いつもより丁寧に名字を書いた。


外へ出ると、大野が荷物を積んでいた。


「久保さん」


久しぶりに、普通の声で呼ばれた。


「連絡しようと思ったんですけど、グループからいなくなってたんで」


「抜けたんだよ。俺から。ああいうとこ、長くいるもんじゃない」


大野は黙っていた。


何か言われる前に、久保は続けた。


「お前も考えたほうがいいぞ」


「はい」


「走れるうちだけだからな」


言ってしまうと、帰るほかなかった。


大野はもう一度、久保さん、と呼んだが、久保は手を上げて歩いた。背中を見せている間だけは、忠告を残して去る人間でいられた。


***


月末、久保は求人を探した。


画面には、見覚えのある横断幕の写真が出てきた。


〈全員が経営者。あなたらしく働こう。〉


募集していたのは、前とは違う名前の会社だった。住所は同じだった。


募集要項を開くと、経験者優遇、とある。


「まあ、向こうからすりゃ即戦力だわな」


誰もいない部屋で言った。


応募フォームに名字を入れると、以前の登録情報が表示された。勤務経験の欄には、なし、とあった。


会社が違うのだから、なしでいいのだろう。


先へ進んだ。


最後に、本人確認のため顔を撮影するよう求められた。


携帯を持ち上げると、画面に疲れた男が映った。少し顎を引き、口元に力を入れた。愛想のいい顔は、できるだけ作ることにしていた。


赤い枠が出た。


〈口を閉じ、無表情で撮影してください。〉


久保は笑うのをやめた。


枠が緑になった。


〈本人であることを確認しました。〉


二


再びセンターへ行くと、入口の横断幕が新しくなっていた。


文句は同じだった。


受付の女に名前を告げると、女は一覧表を指でたどり、


「初めての方ですね」


と言った。


久保は、はい、と答えた。


それだけで済んだ。


動画のことも、四十七個の荷物のことも、聞かれなかった。二週間、部屋で考え続けた説明は、一つも使わなかった。


今度の番号は三十一番だった。


「ずいぶん増えましたね」と言いかけて、口を閉じた。初めて来た人間は、増えたことを知らない。


車の鍵を受け取るとき、佐伯が奥の部屋から出てきた。


目が合った。


佐伯は一瞬立ち止まり、それから受付の女に、


「今日からの方?」


と尋ねた。


「はい」


「よろしくお願いします」


佐伯は久保に頭を下げた。


久保も下げた。


以前、動画を撮った壁の前だった。


***


仕事を始めると、道は変わっていなかった。


三丁目の老人ホームは、やはり裏から入った。河野さんの家には表札がなく、犬は門の向こうで吠えた。


久しぶりに、携帯の地図を見ずに角を曲がった。


荷物を渡した老人が、


「あれ、しばらく来なかったね」


と言った。


「ちょっと、別の現場に」


と、久保は答えた。


老人は、そう、と言って、玄関の奥へ戻った。


別の現場、という言葉は具合がよかった。久保自身にも、どこかから呼ばれて出かけていたように聞こえた。


午後には気が楽になり、夕方には、新人の割によくできると思われているはずだ、と考えた。


翌週、事務から声が掛かった。


「久保さん、経験ありますよね」


少し身構えて、前にも、似た仕事を、と答えると、


「ですよね。新人さんに横乗りしてもらえませんか」


指導を引き受けると、一日五百円が出るという。


「あと、紹介制度もあるので。お知り合いが三十日続けたら、五千円です」


仕事以外の知り合いを順に思い浮かべたが、連絡先を知っている者が、一人も出てこなかった。


それでも、金額より先に、自分を頼っている、と思った。


「まあ、現場は人が育たないとね」


と答えた。


事務の女は、助かります、と言って、名札を一枚渡した。


〈育成サポーター〉


久保はそれを胸に付けた。


針の位置を二度直した。


***


木下は五十八歳だった。


駅前で文具店をやっていたが、閉めたという。


「店は自分のだったんですか」


久保が聞くと、木下はうなずいた。


「建物も?」


「いや、借りてました」


それを聞いて、少し落ち着いた。


自分の店と言っても、借り物なら、自分の車と大して違わない。


木下は細い帳面を持ってきていた。久保が教えるたびに、車を降りる前に書き留めたので、その分だけ配達が遅れた。


「携帯に入れたほうが早いですよ」


「携帯、打つのが遅くて」


「慣れですから。結局」


久保は片手で次の届け先を表示してみせた。


木下は感心した。


「早いですね」


もう一度、少し遠回りな操作で同じ画面を出した。


昼、木下が弁当を開きながら、


「久保さん、ここは長いんですか」


と尋ねた。


「まあ、通算すれば」


「いろいろご存じだから」


店を持っていた男から教えを請われていることに、久保は満足した。


木下の弁当には、小さな卵焼きが二つ入っていた。


「奥さんですか。いいですね、帰れば飯があって」


木下は箸を止めた。


「いや、これ、自分で」


「今はそういう時代ですもんね」


久保はすぐに言った。


それ以上は聞かなかった。


***


指導の仕事を始めてから、久保は他人の仕事がよく見えるようになった。


台車の置き方が悪い。荷物を探す手順が悪い。客との話が長い。


以前はセンターへの要望を書いていたグループに、今度は注意を書いた。


〈積み込み口の整理、各自意識しましょう。〉


佐伯から親指の印が付いた。


その日のうちに、もう一つ投稿した。


〈お客様に見られている意識を持つことが大事だと思います。〉


自分の動画のことを言っているようにも読めたが、それに気づく者はいなかった。


木下は三日目も遅かった。


荷物を渡すとき、相手が家の中に引っ込むまで待っていた。地図が違うと言って、何度も同じ場所へ戻った。集合住宅では階段を一階分上がりすぎた。


こういう人間を教えるのだから、五百円では安いと思った。


ところが夕方、木下が一軒の家から戻ってきて、


「すみません、ちょっと」


と言った。


荷物を落としたという。


外箱の角が潰れていた。振っても音はしない。


「中、何なんですか」


「わかりません」


「だったら、お客さんに確認してもらえば」


「でも、報告はしたほうが」


久保はその箱を見た。


事務へ電話をすれば、誰が、どこで、どう落としたか聞かれる。入力する欄が増え、その間にも時間指定の荷物が遅れる。


「まず渡してみて、何かあれば連絡もらう形でいいんじゃないですか」


木下は箱を両手で持ったまま動かなかった。


久保は声を落とした。


「全部止めてたら、終わらないですよ」


木下はうなずいた。


箱を届けて戻ってきたあとも、まだ何か言いたそうだった。


久保は次の住所を読み上げた。


***


翌日の午後、箱の中の置時計が割れていたと連絡があった。


客は、受け取ったときにも箱の潰れが気になったが、配達した人が何も言わなかったので、そのまま置いていたという。


久保と木下は、別々に話を聞かれた。


久保には、どう指導したかと尋ねられた。


「現場で確認するようには言いました」


「お客様に?」


「ええ。まず確認を、と」


事務の男は入力した。


久保は男の指を見ていた。


「渡してから連絡を待て、と言ったわけではない?」


さっきの自分の言葉を思い出そうとした。


まず渡してみて。


まず確認を。


言ったときには似ていた言葉が、机を挟むと、ずいぶん違った。


「そういう意味ではないですね」


と答えると、男はまた入力した。


部屋を出ると、木下が廊下に座っていた。


帳面を開き、自分がその日に回った順番を見ていた。


久保は通り過ぎようとして、足を止めた。


「どうなりました」


木下が尋ねた。


「調べるらしいですよ」


「僕、落としたことは言いました」


「それは、そうでしょうね」


木下は帳面を閉じた。


「久保さんには、すぐ言ったんですけど」


声は責めていなかった。確認するような声だった。


久保は、そのぶん困った。


「だから、俺は確認しろって言いましたよね」


木下は久保を見た。


久保は名札を指で直した。


「最終的には、配った人の判断ですから」


言い終わると、事務の部屋で同じ言葉を自分が言われなかったことが、ありがたく思えた。


***


木下は翌日から来なくなった。


グループには、本人都合により契約終了、と出た。


その一行を何度か読んだ。


本人都合なら、自分が気にすることではなかった。


店を閉めて、すぐに別の仕事を始めたのだから、疲れていたのかもしれない。年齢もある。向き不向きもある。誰もができる仕事ではない。


そう考えると、自分が長く続けていることにも、ようやく理由が付いた。


木下から、個別に連絡が来た。


〈お借りしたペンを返したいのですが。〉


積み込みのときに、貸したものだった。


久保は、いいですよ、と打った。


何がいいのかわからないので消した。


〈差し上げます。〉


それも少し大げさだった。


結局、〈そのまま使ってください。〉と送った。


木下から礼が来た。


返事はしなかった。


***


月末の明細には、指導料が載っていなかった。


事務へ聞きに行くと、確認します、と言われた。


翌日聞くと、委託元に確認中だという。


三日目、事務の女は少し困った顔をした。


「木下さん、途中で終了してるので」


「紹介料じゃなくて、横に乗せた分ですよ」


「その区別も含めて、今、確認してます」


帰り道に、五百円を指で数えた。


四日で二千円だった。


二千円くらいで何度も聞くのは、育成サポーターとして見苦しい気がした。しかし二千円あれば、米が買えた。


翌朝、女の机の前を通ったが、目が合わなかった。


久保も通り過ぎた。


その日の昼、佐伯からグループに写真が送られた。


久保が木下に端末を見せている写真だった。いつ撮られたのか知らなかった。


〈経験を、次の仲間へ。現場を支えるサポーターの皆さんに感謝!〉


木下は横顔だけで、久保は正面から写っていた。


写真の久保は、真剣な顔をしていた。


名札の文字も読めた。


久保は画像を保存した。


指導料のことは、今日は聞かなくていい、と思った。


***


夕方、新しい男が来た。


木下よりも年上に見えたが、年齢を聞く前に、事務の女が、


「久保さん、明日からお願いできます?」


と言った。


男は頭を下げた。


「まったく初めてなもので。よろしくお願いします」


久保は、まず靴を見た。


革靴だった。


「その靴だと、きついですよ」


「ああ、やっぱり」


「あと、メモするもの。携帯でいいですけど」


男は胸のポケットを探り、小さな帳面を出した。


それを見てから、積み込み口へ目を向けた。


木下がいつも置いていた場所には、別の台車が入っていた。


「ペンはあります?」


「あります」


男は一本取り出してみせた。


久保はうなずいた。


「じゃあ、明日六時に」


「はい。何でも聞いていいですか」


事務の女が、よかったですね、と笑った。


「久保さん、詳しいですから」


久保は胸を少し起こした。


男が帰ったあと、女に呼び止められた。


「名札、もう少し上に付けてもらえます? 荷物で隠れちゃうので」


針を外した。


穴の開いた布を指でこすり、二センチほど上に付け直した。


二千円のことを尋ねるなら、今だった。


女は顔を上げて待っていた。


久保は名札を手のひらで押さえた。


「この辺ですか」


「はい、よく見えます」


久保は、そうでしょう、と笑った。


三


新しい男は田代といった。


二日目には運動靴を履いてきて、四日目には、久保の知らない道を使った。


「ここ、抜けられるんですよ」


田代は申し訳なさそうに言った。昔、この辺りの印刷所を回る仕事をしていたらしい。


「時間帯によりますけどね」


久保は答えた。


それから、その道のことは言わなくなった。


田代は木下ほど手が掛からなかったので、久保は、自分の教え方がよくなったのだと思った。


指導料は、まだ振り込まれなかった。


***


夏の初めに、また説明会があった。


今度は弁当がなく、入口に小さなペットボトルが並んでいた。久保は一本取った。前の席へ行く途中で、後ろに座っていた大野が手を上げた。


「ここ、空いてますよ」


久保は気づかなかったふりをして、そのまま前へ座った。


本社から来た男は、配送の仕組みを大きく変えると言った。


まず、配った荷物一個当たりの報酬が上がる。


久保はうなずいた。


その代わり、不在の家に何度行っても、届け終わるまでは報酬が付かない。また、一日分の最低保証がなくなる。皆さんが自分で配達量を選べるようになるので、決まった金額に縛られる必要もなくなるという。


さっきより小さくうなずいた。


質問の時間に、大野が手を挙げた。


「今までと同じだけ回った場合の、比較はありますか」


男は、件数による、と答えた。


「同じ件数でです」


「お届けできた割合によりますね」


「だから、今までの実績を使って」


男は笑顔のまま、説明したページへ戻った。


数字の横に、大きな上向きの矢印が出た。


「頑張った方が、より報われる制度です」


背中が暑くなった。


自分が選ばなかった席の方から、紙をめくる音がした。


***


説明会のあと、大野から連絡が来た。


何人かで話すので来ないかという。


久保は、個人的な不満なら自分を通してもらったほうが早い、と返しかけた。しかし、誰と何人で話すのかが気になり、店の場所を聞いた。


駅前のファミリーレストランに六人集まった。


大野が自分の配達記録と明細を並べた。同じ仕事を続ければ、月に何万円か減る計算だった。


計算の間違いを探した。


見つからなかった。


「こういうのって、一人で聞いても、確認しますで終わるんで」


大野が言った。


そこで久保は、二千円のことを話した。


「俺も、指導料のことを聞くたびに、確認しますって言われてるんですよ」


田代が顔を上げた。


「木下さんに教えた分、まだ出ていないんですか」


久保は驚いた。自分で二千円と言うよりも、他人に心配されるほうが、急に金に困っているように思われた。


「いや、それはいいんです。額の話じゃないんで」


誰も額の話をしてはいなかった。


大野は、未払いの分もまとめて確認しようと言った。


「辞めた木下さんにも、聞いてみてます」


久保は水を飲んだ。


「あの人も何か言ってるの」


「最後の明細がよくわからないって。控除があって」


「事故があったからね」


「それも内訳を出してもらわないと」


木下に何を聞いたのか尋ねたかった。しかし、ここで詳しく聞くと、何か関係があると思われそうだった。


代わりに、現場を知らない人間が決めるからこうなる、と言った。


それには全員がうなずいた。


久保は気が楽になり、そのあと十五分ほど話した。


***


要望書ができた。


新しい制度の計算根拠を示すこと。未払いの報酬を精算すること。変更前に話し合いの場を設けること。


久保は、最後に一行足した。


〈現場への敬意を持った対応を求めます。〉


大野はそれも残した。


誰が渡すかという話になったとき、久保は、自分が話そうと言った。


「佐伯とは、まあ、長いですから」


「じゃあ、一緒に行きましょう」


大野が言うと、久保は首を振った。


「最初から大勢で行くと、向こうも構えるでしょう。まず俺が内々に」


内々に、という言い方を使うと、六人の中から少し抜け出た気がした。


大野は、提出する紙には名前を載せず、まず話し合いを求めるだけにしようと言った。個人別の計算や相談内容は、確認のために自分たちで持っておく。


そんなことはわかっている、と久保は答えた。


翌日、佐伯は要望書を読んで、


「こういう声をまとめてくださる方がいると、助かります」


と言った。


久保は紙の下へ手を添えた。


「現場も、ただ不満を言いたいわけじゃないんですよ」


「もちろんです。それで、実際、どなたが、どのくらい困っているんでしょう」


久保は携帯を出した。


数字で見せれば話が早いと思った。大野が作った一覧表には、名前も、日付も、本人の書いた説明もあった。


佐伯は、控えをもらえますか、と言った。


久保は送った。


話し合いが終わるころには、要望書は、現場改善のための資料と呼ばれていた。


***


久保は連絡係になった。


手当はなかったが、これからは現場の意見を久保が集め、佐伯へ伝えることになった。


表示名を、〈久保/現場連絡〉に変えた。


それまで事務へ直接送られていた質問も、久保へ来るようになった。返事がわからなければ、久保が事務へ聞いた。事務から返事がなければ、久保が謝った。


それでも、夜に携帯が鳴ると、忙しそうな顔で取った。


部屋には誰もいなかった。


二週間後、大野への荷物の割り振りが、目に見えて減った。


久保が聞くと、全体の調整です、と佐伯は答えた。


大野は久保に尋ねた。


「名前、出したんですか」


「具体的な話をするなら、向こうだって誰のことか知りたいでしょう」


「出さないって、言いましたよね」


久保は顔が熱くなった。


「困ってるから、何とかしろって言ったんじゃないの」


大野は口を閉じた。


以前は、黙る相手を見れば、言い返せなかったのだと思えた。ところが大野は、何かを確かめるように久保を見ていた。


久保は目をそらした。


「俺にも立場があるから」


大野は、そうですか、と言った。


それから二人の連絡は、グループの中だけになった。


四


制度の変更日は、七月一日だった。


前の週、大野たちは、その日の朝六時から七時まで、荷物を引き受けずに説明を求めることにした。


センターの入口を塞がない。配る人を止めない。参加するかどうかはそれぞれで決める。


連絡には、そう書いてあった。


久保は参加しないと返した。


「俺は、中から変えるほうだから」


その言葉を声に出してから入力した。


送ると、大野たちのグループから二人が抜けた。


過激な人間が抜けたのだと思うことにした。一人は、店で話している間、ほとんど何も言わなかった男だった。


佐伯から個別に連絡があった。


当日は荷物が残るかもしれない。余裕のある人に声を掛けてもらえないかという。


久保は、任せてください、と答えた。


送ってから、一時間だけなら自分が少し早く来ればよい、と考えた。


その晩、目覚ましを三つ掛けた。


二千円をもらえないまま、四時に起きた。


***


五時半に着くと、事務所はまだ暗かった。


門の前で待った。


六時前に佐伯が来て、


「早いですね」


と言った。


久保は、ええ、と答えた。


自分が早く来た理由は、話に出なかった。


積み込み口には、いつもより多くの荷物が並んでいた。自分の分を積み、そのあと、誰のものかわからない一列にも手を付けた。


端末の表示は三十一番のままで、積んだ分がすべて久保の担当になった。


「あとで分けられますよね」


事務の男に聞くと、来た人で調整しましょう、と言われた。


来た人は、まず自分の荷物を積んだ。


六時二十分、久保の車はいっぱいになった。


配達の順番を並べ直していると、道路の向こうに大野たちが見えた。


四人だった。ファミリーレストランで見た顔は、大野を入れて二人だけだった。


もっと大勢いると思っていたので、拍子抜けした。


紙を持っている者と、持っていない者がいた。通行人に渡そうとして、受け取ってもらえず手を下げる男がいた。誰かが水を飲んでいた。


大野は、建物へ向かって怒鳴ったりしていなかった。


そのことが、久保には少し腹立たしかった。


こちらが朝から備えているのだから、もう少し何かしてくれなければ困った。


***


田代が駅の方から歩いてきた。


運動靴を履いていた。


久保は門から手を振った。


「田代さん、こっち、もう始めてますよ」


田代は足を止め、それから道路の向こうを見た。


「ちょっと、お話だけ」


「あとでいいじゃないですか」


「七時からですよね、いつもの分は」


久保は、自分の車の後ろを振り返った。


荷物が積まれていた。


「こっちは、もう積んでるんですよ」


田代は困った顔をした。


大野が近づいてきた。


「田代さんが決めればいいですから」


大野の顔より先に、その手の紙を見た。


〈働いた分の報酬を払ってください。〉


木下の二千円も、その中に入っているのだろうかと思った。


入っているなら、自分が言い続けたことまで、大野がやったことになる。


「そういうことじゃないんだよ」


久保は言った。


「どういうことですか」


「現場を混乱させないでくれってこと」


「混乱させてないです。そこに立ってるだけです」


久保は、大野が自分に向かって使う、です、ます、を前から嫌っていた。


他の若い者は、すみません、と言った。大野は、どうしてですか、と言った。


「田代さん、行きましょう」


久保は手を伸ばした。


田代は半歩下がった。


その間に大野が立った。


「引っ張らなくていいですから」


久保は、大野の胸の辺りを押した。


押した瞬間には、自分が押したことを知らなかった。ただ、目の前が空いたので、通れると思った。


大野の足が縁石に引っ掛かった。


後ろへ倒れるとき、大野は片手を地面に突いた。紙がばらけ、田代が肩を支えようとして届かなかった。


車の走る音だけがした。


大野は起きようとして、やめた。


「手、ちょっと」


小さな声だった。


久保はその手を見た。


自分の手は、まだ少し前へ出ていた。


「そんな強くは」


と言った。


誰も、強く押した、とはまだ言っていなかった。


***


田代が救急車を呼んだ。


向こう側にいた一人が、久保へ携帯を向けていた。初めから撮っていたのか、倒れてから撮り始めたのか、久保にはわからなかった。


「それ、やめてください」


と久保は言った。


携帯は下がらなかった。


撮っている男へ近づいた。


「関係ないでしょう、あんた」


「関係ありますよ」


男は答えた。


その男もセンターで何度も見た顔だった。しかし番号を思い出せなかった。


門の中には佐伯がいた。


久保はそちらを向いた。


佐伯は携帯を耳に当て、奥へ戻った。


救急車と警察の車が来たころには、朝の通行人が何人か立ち止まっていた。


警察官が誰かと尋ねたので、久保は、現場の代表です、と答えた。


「お名前を」


久保は名字を言った。


「下のお名前も」


続けて言った。


佐伯が戻ってきた。


別の警察官と、少し離れて話していた。


「弊社の社員ではないので」


そこだけ聞こえた。


久保は、違います、と言おうとした。


社員ではないことは、間違っていなかった。


五


その晩、部屋へ帰れなかった。


何度も同じことを聞かれた。


なぜ、そこにいたのか。


誰に頼まれたのか。


相手をどうしようと思ったのか。


久保は、荷物が残るので、と答えた。


押した理由を聞かれているのだと言われた。


自分がそこにいた理由と、押した理由とを、うまく分けられなかった。


大野が来なければ、自分は普通に配っていた。新しい制度がなければ、大野たちも来なかった。仕事を頼まれなければ、四時に起きなかった。


そこまでを説明しようとすると、話が長くなった。


「転ばせようとはしていません」


最後には、そう答えた。


それは本当だった。


***


弁護士が会いに来た。


センターの運営会社は、久保が自分の判断で相手へ対応したと説明しているという。


「頼まれたんですよ」


久保は言った。


弁護士は、連絡の記録を確認した。


〈当日、お手伝いいただける方がいれば、お声掛けをお願いします。〉


久保の返事は、〈任せてください。〉だった。


「相手の人を移動させるように、という指示は」


なかった。


そこまで言わなくてもわかるでしょう、と言った。


弁護士はうなずかなかった。


現場の代表だったことも説明した。


「何について、どの範囲で任されていたんですか」


連絡係だったことを話した。


話しているうちに、自分の役目が小さくなっていった。


最後には、聞いたことを、別の人に聞く人間になった。


それなら誰にでもできる、と思った。


しかし、誰も自分の代わりにはやらなかった。


***


外では動画が広まっていた。


地面へ倒れるところと、久保が撮影者へ近づくところが、続けて映っていた。


〈俺は現場の代表だぞ〉という字幕が付いていた。


その言い方では言っていなかった。警察官に職場での役目を聞かれて、現場の代表です、と答えただけだった。


ただ、そのときの映像は、字幕を付けた人間の言うことも、もっともらしく見せた。


前の謝罪動画も見つかった。


あのとき、これでいいですか、と動かした口元が、また何度も再生された。


今度は、〈反省ゼロ〉と書いてあった。


大野たちの代表が暴れたのだと説明する投稿もあった。


会社の幹部が配達員を突き飛ばしたのだと説明する投稿もあった。


同じ投稿に、どちらの意味でも使える怒りの言葉が並んだ。


センターの公式アカウントは、関係者間のトラブルによりご心配をお掛けした、と発表した。


今回は顔を出す者がいなかった。


***


しばらくして部屋へ戻ると、出ていった日のままだった。


台所の流しにコップがあり、机には電気料金の通知があった。窓際の洗濯物が、固い形で乾いていた。


自分がいなくても、部屋はあまり困らなかったらしい。


久保は洗濯物を取り込んだ。


仕事のアプリは開けなかった。


グループにも入れなかった。


佐伯へ電話すると、呼び出し音のあとで切れた。折り返しはなかった。


携帯を机へ置いた。


会社を守るために、表立って連絡できないのかもしれない。佐伯にも立場がある。


そう考えてみたが、今度はあまり効かなかった。


翌日も電話が来なかった。


***


大野の手首には骨折があった。


弁護士は、治療のことや、働けなかった期間のことを説明した。


久保は、あいつなら別の仕事もできるでしょう、と言いかけた。


弁護士の持っている紙の端を見た。


自分の知らない診断や日付が、細かく書かれていた。


言わなかった。


それから大野の説明を聞かされた。


久保が会社の命令を受けて自分を押したのかどうかは、わからない。だが、久保が連絡係になっていたことは知っている。それまで一緒に、報酬について話をしていた。


そう話しているという。


「一緒に、って言ったんですか」


久保は聞いた。


弁護士は、ええ、と答えた。


その部分をもう一度聞いた。


あいつも、わかっているところはわかっている、と考えた。


そう考えれば、大野がまだ骨折した手で箸を持てないことを、しばらく考えずに済んだ。


***


裁判の日、久保は襟の付いたシャツを着た。


名札を付けていたところに、細かな穴が残っていた。洗濯しても消えないので、上から指で押した。


法廷では、自分のしたことを尋ねられた。


会社の説明会のことも、未払いの二千円のことも話したが、押したことを認めるかという問いには、認めます、と答えた。


四文字で済むことに、ずいぶん長い時間が掛かった、と思った。


最後に何か言いたいことはあるかと聞かれた。


用意していた言葉を言った。


「社会人として、軽率な行動でした」


そのあとで、大野の名前を言った。


「大野さんには、申し訳なかったと思っています」


もう少し言えば、事情も伝わる気がした。


しかし、その先は何を言っても、ただ、で始まった。


久保は黙った。


***


判決には執行猶予が付いた。


すぐに刑務所へ入ることにはならなかった。


まず、それで助かったと思った。


建物を出たところで、携帯を持つ男が近づいてきた。


裁判を見ていたらしい。


「会社には、何か言いたいことありますか」


久保は足を止めた。


言いたいことはあった。


しかし、相手がどこの誰かはわからなかった。携帯の小さな穴が自分を向いていた。


「何もないです」


と答えた。


男は、押した相手について何か、と続けた。


もう一度頭を下げた。


口元を動かさないように気をつけた。


その動画には、〈終始うつむいたまま〉と書かれた。


以前の動画ほどは見られなかった。


その週には、別の町で、もっと大きな騒ぎが起きていた。


六


センターの新しい制度は予定どおり始まった。


最初の一週間は荷物が残り、何人かが辞めた。別のセンターから車が来て、そのうち、残る量が減った。


大野はそこを離れた。


田代も離れた。


佐伯は異動した。


異動先の部署名は長く、久保が読んでも、偉くなったのかどうかわからなかった。


秋には、センターの募集広告から、全員が経営者、という言葉が消えた。


〈安心のサポート。ひとりにしない配送。〉


新しい言葉は、前より少し小さな字で印刷されていた。


***


久保は車を返した。


今度の事務の男は、鍵を受け取り、車内の傷を確かめた。


運転席の横に、名札の針が落ちていた。


男が拾って渡そうとしたので、久保は、それはいいです、と言った。


名札の本体は、もう持っていなかった。


受領書へ名前を書いた。


仕事のことは聞かれなかった。


久保の車は、翌週には別の人間が使うという。


傷の確認をしたのだから、今度こそ自分の痕跡も確かに残ったのだと考えた。


そう思ってから、そんなものは残らなくていい、と考え直した。


***


冬の前に、久保は隣町の倉庫で働き始めた。


送られてきた品物を箱から出し、傷があるものと、ないものを分ける仕事だった。


面接で、前は何をしていたか尋ねられた。


「配送の、現場管理を」


担当の女は、そうですか、と言った。


「では、立ち仕事は大丈夫ですね」


それだけだった。


倉庫には、番号も名札もなかった。班長は久保を「そっちの人」と呼んだ。


仕事中は携帯を持ち込めず、時間になると休憩があった。


勝手には休めない代わりに、休憩中は荷物のことを考えなくてよかった。


最初の一週間、その時間をうまく使えなかった。弁当を急いで食べ終わると、まだ十五分も残っていた。


誰かに電話をする用事もなかった。


隣の男が目を閉じていたので、久保も目を閉じた。


配るより、送り出す側のほうが上流だ、と考える日もあった。


その考えは、一つ目の段ボールを開くまでには役に立った。


***


大野から連絡が来たのは、年の終わりだった。


センターを離れたあとも、大野は、あの一覧表に残った未払い分の問い合わせを続けていた。


未払い分の確認が済み、久保の分も振り込まれるはずだという。


以前の一覧表に残っていたので、一緒に請求してくれたらしい。


〈木下さんの明細も出ました。時間が掛かりましたが。〉


と、続いていた。


翌日、口座を見た。


二千円が入っていた。


木下の四日分だった。


明細の二千円を拡大した。


「結局、払うんじゃねえか」


声に出すと、長い間、自分が折れずに要求し続けたように思えた。


大野へ、ありがとう、と打った。


そのあとへ、あのときは、と続けた。


携帯を持つ手が止まった。


あのとき、という言葉が、大野と自分とで同じ日のことを指すのか、久保には自信がなかった。


店で一緒に話した日かもしれない。


名前を出した日かもしれない。


自分の手を見た朝かもしれない。


続きを消し、ありがとう、だけを送った。


大野から返事は来なかった。


***


その夜、久保は木下とのやり取りを開いた。


〈そのまま使ってください。〉


〈ありがとうございます。〉


そこで終わっていた。


木下は、礼を言ったままになっていた。


少し上へ戻った。出勤時刻を伝えた文と、持ち物を尋ねる文があった。


さらに戻ると、最初の挨拶があった。


〈木下です。明日からお世話になります。よろしくお願いいたします。〉


入力欄を押した。


〈お元気ですか。〉


それをしばらく見た。


元気です、と来たら、どう返せばよいのかわからなかった。


元気ではありません、と来ても、同じだった。


文字を消して、画面を閉じた。


机の上には、弁護士から受け取った書類があった。大野へ毎月払う金額と、期日が書いてある。


二千円は、来月、大野へ払う分に足すことにした。


***


倉庫の仕事は年末も続いた。


休みを減らしてもらった。


どのみち、帰省する予定はなかった。


仕事納めの日、初めて来た若い男が、箱の開け方を尋ねた。


久保は、ここから刃を入れると中に当たる、と教えた。


男は礼を言った。


「前も、こういう仕事を?」


「いや、俺は教えるほうを」


言ってから、少し言いすぎた気がした。


男は、そうなんですね、と答えた。


それで、言いすぎではなくなった。


休憩の時間に、携帯の写真を探した。


木下に端末を見せている写真が残っていた。


それを若い男に見せようとした。


しかし男は、もう食堂の向こう側へ座っていた。隣の者と笑っていた。


画面を一度暗くした。


それからもう一度、明るくした。


その男の名字を、聞いていなかった。


***


帰りにコンビニへ寄った。


写真を印刷する機械の前に立ち、携帯の画像を送った。初めは操作がわからず、店員を呼ぼうとしたが、後ろに人が来たのでやめた。


最初の画面へ戻り、一つずつ押すと、できた。


三十円だった。


小銭を入れた。


出てきた写真は思ったより小さかった。


それでも、携帯で見るより色が明るかった。背後に積まれた荷物も、木下のシャツも、汚れてはいなかった。


久保の胸に、育成サポーターの文字が見えた。


木下は細い帳面を片手に持ち、久保の指さす画面を見ていた。


写真の端を持ったまま、しばらく立っていた。


後ろの人が、すみません、と言った。


脇へ寄った。


***


部屋へ戻り、机の上の紙を重ねた。


写真を立てるものがなかったので、薬局でもらった卓上カレンダーに挟んだ。


初めは木下の顔が少し隠れた。


久保は写真を引き上げ、二人とも見えるようにした。


鍋に湯を沸かし、麺を入れた。湯気で窓が曇った。


食べながら、何度か写真を見た。


「あのころは、俺が教えてたんだよ」


誰にともなく言った。


隣の部屋でテレビが鳴っていた。笑い声がして、急に大きな音楽になった。


久保は箸を置き、写真をもう少し自分のほうへ向けた。


写真の中では、木下はいつまでも、久保の話を聞いていた。




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