尾張に落ちた孤独な少年
第2ページでは、戦で家族を失った少年・篠羽凪斗の過去を描きます。
信長に拾われた凪斗は、尾張の城で働き始めます。
けれど、彼の心にはまだ、焼けた村の記憶と、武士への憎しみが深く残っていました。
尾張の朝は、凪斗が知っている朝とは違っていた。
馬の鼻息が白く揺れ、藁の匂いが湿った空気の中に溶けている。まだ日が昇りきらない城の中では、下働きの者たちが水桶を運び、女中たちが廊下を拭き、兵たちが眠たげな顔で槍を担いでいた。
誰もが忙しく動いている。
誰も、凪斗のことなど見ていない。
それが、凪斗には少しだけありがたかった。
見られることが怖かった。
誰かの目に映るたびに、自分がここにいてはいけないもののように思えた。破れた着物、痩せた腕、傷だらけの足。どれもが、自分がどこにも属していない証のようだった。
凪斗は馬小屋の隅で目を覚ました。
昨夜、藁の上に横になった時は、すぐ眠れると思っていた。腹は久しぶりに満ちていたし、雨風をしのげる屋根もあった。だが、眠りは浅かった。目を閉じるたびに、村が燃える景色が蘇ったからだ。
ぱちぱちと木が弾ける音。
叫び声。
母の手の温もり。
妹の泣き声。
そして、赤い炎の向こうで笑っていた武士たち。
凪斗は何度も目を覚ました。
そのたびに、自分の手を握りしめた。
もう誰もいない。
母もいない。
父もいない。
妹もいない。
ここにいるのは、自分だけだった。
「起きたか」
突然声がして、凪斗は体を跳ね起こした。
馬小屋の入口に、年配の男が立っていた。顔は日に焼け、眉は太く、目は鋭い。手には桶を持っている。
「ぼさっとするな。今日から働くんだろう」
凪斗は慌てて立ち上がった。
「はい」
「名は」
「篠羽凪斗です」
「凪斗か。わしは甚助だ。馬の世話をしている。若様が拾ったからといって、甘やかすつもりはない」
「はい」
「腹が減ったら言え。倒れられる方が迷惑だ」
その言葉は冷たく聞こえた。
けれど、凪斗にはわかった。
これは追い出す言葉ではない。
ここで働いていい、という意味だ。
甚助は凪斗に桶を渡した。
「まず水を汲め。馬に飲ませる。こぼすなよ」
凪斗は桶を受け取った。
思ったより重かった。
井戸まで歩き、水を汲み、両手で持ち上げる。水は桶の縁から揺れ、凪斗の足にかかった。冷たさに体が震える。それでも歯を食いしばって運んだ。
一度目は半分こぼした。
二度目は足を滑らせて転んだ。
三度目は馬が鼻を寄せてきて驚き、桶を落とした。
甚助は呆れたように頭をかいた。
「おまえ、よくそれでここまで生きてこられたな」
凪斗はうつむいた。
「すみません」
「謝る暇があったら、もう一度汲んでこい」
「はい」
凪斗は走った。
手のひらが痛い。
肩が痛い。
足が痛い。
けれど、不思議だった。
命じられて動くことが、少しだけ楽だった。
何をすればいいかわからず、ただ飢えて震えているよりも、ずっとましだった。
水を運ぶ。
藁を替える。
馬の糞を片付ける。
それだけで一日は過ぎていく。
考えなくて済む。
思い出さなくて済む。
だが、夕方になり、仕事が一段落すると、記憶はまた戻ってきた。
凪斗の村は、尾張から少し離れた山あいにあった。
大きな村ではない。
田畑も広くなく、豊かでもなかった。
それでも、凪斗にとっては世界のすべてだった。
父は無口な人だった。
畑仕事をしている時は怖い顔をしていたが、夜になると囲炉裏の前で凪斗に木の枝を削って小さな笛を作ってくれた。
母はよく笑う人だった。
米が少ない日でも、粥に草を混ぜて「今日は山の匂いがするね」と言って笑った。
妹の千代は、凪斗の後ろをいつもついて回った。
「兄さま、待って」
その声が、凪斗の耳にまだ残っている。
あの日も、最初は普通の日だった。
朝、母が粥をよそい、父が畑へ行き、凪斗は千代と一緒に川へ水を汲みに行った。空は青かった。鳥が鳴いていた。村の誰もが、明日も同じように朝が来ると思っていた。
だが昼過ぎ、山の向こうから煙が上がった。
最初は野焼きだと思った。
けれど、すぐに違うとわかった。
鐘が鳴った。
誰かが叫んだ。
「兵だ! 兵が来た!」
そこから先は、何もかもが崩れた。
馬の足音。
男たちの怒鳴り声。
女たちの悲鳴。
家に火がつけられ、蔵が壊され、米が奪われた。
父は鍬を持って立ち向かった。
武士の刀が光った。
凪斗は母に抱きしめられていた。
「見ちゃだめ」
母はそう言った。
でも、見えた。
父が倒れるところが。
千代が泣きながら母の袖をつかんでいた。
母は凪斗と千代を連れて裏の竹やぶへ逃げようとした。
けれど、途中で兵に見つかった。
母は凪斗を押した。
「走りなさい」
凪斗は動けなかった。
「走って!」
母の声は、凪斗が聞いたことのないほど強かった。
凪斗は千代の手を引こうとした。
けれど千代は母の着物を離さなかった。
「母さま、母さま」
次の瞬間、誰かの腕が凪斗を突き飛ばした。
凪斗は斜面を転がり落ちた。
頭を打ち、息が止まり、世界がぐるぐると回った。
最後に見えたのは、炎に照らされた母の顔だった。
それから凪斗は、どうやって逃げたのか覚えていない。
気づいた時には、山の中にいた。
村の方角は赤かった。
どれだけ泣いたかわからない。
声が枯れるまで母を呼んだ。
父を呼んだ。
千代を呼んだ。
誰も答えなかった。
次の日、村へ戻った。
焼け跡だけがあった。
家も、畑も、蔵も、人も、何もかもが変わっていた。
そこにあったはずの凪斗の世界は、灰になっていた。
その日から、凪斗は一人で歩いた。
腹が減れば木の実を拾い、川の水を飲み、時には盗んだ。盗まなければ死んでいた。だが盗めば殴られた。追い払われた。犬のように石を投げられた。
何度も思った。
自分もあの日、村で死んでいればよかったのではないか。
なぜ自分だけが残ったのか。
その答えは、どこにもなかった。
尾張にたどり着いた時、凪斗はもう歩く力も残っていなかった。
そして河原で、信長に出会った。
信長。
武士。
凪斗が憎むべきもの。
なのに、その武士は凪斗に飯をくれた。
城へ来るかと聞いた。
働けば食わせると言った。
優しい言葉ではなかった。
けれど、嘘ではなかった。
凪斗はそれが怖かった。
憎むべき武士の中に、憎みきれない者がいる。
そのことが、凪斗には苦しかった。
「おい、凪斗」
甚助の声で、凪斗は我に返った。
「ぼんやりするな。馬が待ってる」
「すみません」
凪斗は慌てて立ち上がった。
馬小屋の外では、夕日が城壁を赤く染めていた。
その赤を見るたび、凪斗の胸はざわつく。
炎の色。
村が燃えた色。
そして、信長の目の奥にある色。
同じ赤なのに、何かが違う。
凪斗にはまだ、それが何なのかわからなかった。
数日が過ぎた。
凪斗は少しずつ仕事に慣れていった。
最初は馬に近づくことすらできなかったが、やがて一頭の黒馬が凪斗になついた。甚助はその馬を「黒嵐」と呼んだ。
黒嵐は気性が荒く、他の者が近づくとすぐに首を振る。だが凪斗が水を持っていくと、なぜかおとなしく飲んだ。
「変な馬には、変な小僧が合うんだろう」
甚助はそう言って笑った。
凪斗は少しだけ笑った。
笑った自分に驚いた。
家族を失ってから、笑うことなどもうないと思っていた。
だが、その笑いはすぐに消えた。
笑ってしまったことに、罪悪感が湧いた。
自分だけが生きている。
自分だけが飯を食べている。
自分だけが、少しずつ眠れるようになっている。
それが裏切りのように思えた。
夜、凪斗は馬小屋の隅で膝を抱えた。
その時、入口に人影が立った。
信長だった。
「眠れぬのか」
凪斗は慌てて頭を下げた。
「いえ」
「嘘をつくな」
信長は中へ入ってきた。
黒嵐が小さく鼻を鳴らす。
信長はその首を撫でた。
「おまえが笑ったと聞いた」
凪斗の胸が跳ねた。
「申し訳ありません」
「なぜ謝る」
「笑ってはいけない気がしました」
信長は凪斗を見た。
「誰に対してだ」
凪斗は唇を噛んだ。
「父と、母と、妹に」
馬小屋の中が静かになった。
信長はしばらく何も言わなかった。
やがて、低く言った。
「死んだ者は、生きている者の笑いを恨まぬ」
凪斗は顔を上げた。
「でも、僕だけ」
「おまえだけ生き残ったことに、理由が欲しいのか」
その言葉は、凪斗の胸を突いた。
凪斗は何も言えなかった。
理由が欲しかった。
自分が生き残ったことに、意味が欲しかった。
意味がなければ、苦しすぎた。
信長は続けた。
「理由など、後から作ればよい」
「後から……?」
「生き残った理由がわからぬなら、生きて作れ。死んだ者に顔向けできぬと思うなら、顔向けできるように生きろ」
凪斗の目に涙がにじんだ。
「どうやって」
「それはおまえが決めることだ」
信長は冷たく言った。
けれど、その冷たさは凪斗を突き放すものではなかった。
立て、と言っているようだった。
泣いてもいい。
だが、泣いたまま終わるな。
そう言われている気がした。
「信長様は」
凪斗は小さな声で聞いた。
「信長様にも、生きている理由があるんですか」
信長は少しだけ黙った。
「ある」
「何ですか」
「まだ言えぬ」
「なぜですか」
信長は笑った。
「言えば、笑われる」
凪斗は思わず言った。
「信長様は、笑われるのに慣れているのでは」
信長の目が丸くなった。
次の瞬間、低く笑った。
「そう見えるか」
「はい」
「慣れるものか」
その一言は、とても小さかった。
凪斗は息を止めた。
信長はすぐにいつもの顔に戻った。
だが凪斗は聞いてしまった。
慣れるものか。
信長も、傷ついている。
うつけと呼ばれても平気なわけではない。
母に理解されず、家臣に疑われ、弟と比べられ、それでも笑っている。
凪斗と信長は、まったく違う人間だった。
孤児と若君。
奪われた者と、国を背負う者。
けれど、二人ともどこかで、居場所を失っていた。
その夜から、凪斗の中で信長を見る目が少し変わった。
怖い武士。
憎むべき武士。
それだけではなくなった。
信長は、誰にもわかってもらえないまま、何か大きなものを見ている人だった。
ある日、城の庭で弓の稽古が行われた。
若い家臣たちが的を狙い、矢を放つ。凪斗は水を運びながら、それを遠くから見ていた。
信長は最後に現れた。
相変わらず身なりは整っていない。
家臣たちの中には、あからさまに侮った顔をする者もいた。
「若様、今日は的に当たりますかな」
誰かが冗談めかして言った。
周囲に小さな笑いが起こる。
凪斗は胸がざわついた。
信長は何も言わず弓を取った。
そして、的を見た。
空気が変わった。
先ほどまで笑っていた者たちの声が止まる。
信長の目が、獣のように鋭くなった。
弦が引かれる。
次の瞬間、矢は風を裂き、的の中央を貫いた。
続けて二本目。
三本目。
すべて同じ場所に刺さった。
誰も笑わなかった。
信長は弓を下ろし、先ほど冗談を言った家臣を見た。
「口で敵は討てぬ」
それだけ言って、去っていった。
凪斗は動けなかった。
信長は奇妙な格好をしている。
人を苛立たせることも言う。
だが、その奥にある力は本物だった。
誰よりも見ている。
誰よりも考えている。
誰よりも準備している。
それを隠すために、わざとうつけを演じているのか。
それとも、本当に世の中の型にはまらないだけなのか。
凪斗にはわからなかった。
けれど、ひとつだけわかった。
信長を笑っている者たちは、信長の本当の恐ろしさを知らない。
その日の夕方、凪斗は信長に呼ばれた。
部屋には地図が広げられていた。
凪斗には読めない字がいくつも書かれている。
信長は地図の一点を指した。
「ここが尾張だ」
「はい」
「ここが駿河。今川の国だ」
凪斗はうなずいた。
「今川は強いのですか」
「強い」
「織田よりも?」
「今はな」
信長はあっさり言った。
凪斗は驚いた。
武士は自分の国が弱いなど言わないと思っていた。
「怖くないのですか」
「怖い」
また、信長はあっさり言った。
凪斗はさらに驚いた。
信長は地図を見つめたまま続けた。
「怖いから考える。怖いから備える。怖さを知らぬ者から死ぬ」
凪斗はその言葉を胸に刻んだ。
信長は指を動かした。
「大軍は強い。だが、大軍には重さがある。重いものは、素早く動けぬ。兵が多ければ飯も多く要る。道も限られる。油断も生まれる」
凪斗には難しかった。
だが、信長の声は熱を帯びていた。
まるでまだ起こっていない戦を、すでに目の前で見ているようだった。
「戦は、腕力だけではない。目だ。耳だ。足だ。飯だ。道だ。天気だ。人の心だ」
「人の心も、戦に関係あるんですか」
「大いにある」
信長は凪斗を見た。
「怯えた兵は逃げる。飢えた兵は乱れる。侮った敵は隙を見せる。怒った者は間違える。人の心を読めぬ者に、戦はできぬ」
凪斗は思った。
信長は、人の心がわからない人ではない。
むしろ、わかりすぎるほどわかっている。
だからこそ、人を信用しないのかもしれない。
その時、部屋の外から声がした。
「兄上」
信行だった。
凪斗は慌てて下がった。
信行はきちんと礼をして部屋に入ってきた。
「母上がお呼びです」
信長は地図から目を離さなかった。
「用件は」
「たまには広間で皆と食事を、と」
「断る」
信行は困ったように笑った。
「兄上、皆が心配しております」
信長はようやく顔を上げた。
「皆、か」
その声には薄い笑みが混じっていた。
信行は少しだけ目を伏せた。
「兄上が家中に心を開けば、皆も安心します」
「心を開けば、腹の中まで見られる」
「見られて困るものがあるのですか」
部屋の空気が変わった。
凪斗は息を潜めた。
信長は立ち上がった。
「信行」
「はい」
「おまえは人に好かれる」
信行は戸惑った。
「そのようなことは」
「それは才だ。わしにはない」
信長の声は静かだった。
「だが、人に好かれることと、国を守ることは同じではない」
信行の顔がわずかに強張った。
「兄上は、私が国を守れぬと?」
「守れるかもしれぬ。だが、変えられぬ」
沈黙。
信行は深く頭を下げた。
「母上には、兄上はお忙しいと伝えておきます」
そう言って部屋を出ていった。
凪斗は信長の横顔を見た。
寂しそうだった。
だが、その寂しさは一瞬で消えた。
信長は再び地図に目を戻した。
「凪斗」
「はい」
「人は、正しい者につくのではない」
「では、何につくのですか」
「安心できる者につく」
信長は低く言った。
「だから、わしは嫌われる」
凪斗は何も言えなかった。
その夜、凪斗は信行の姿を思い出していた。
信行は優しそうだった。
信長よりもずっと、人に好かれるように見えた。
けれど凪斗は、なぜか信長のそばの方が息がしやすかった。
信長は怖い。
厳しい。
言葉も冷たい。
だが、嘘がなかった。
凪斗は嘘が怖かった。
「大丈夫」と言われて、村は燃えた。
「すぐ戻る」と言った母は、戻らなかった。
「助ける」と叫んだ誰かは、誰も助けられなかった。
だから、優しい嘘より、冷たい本当の方が信じられた。
季節が少しずつ移ろう頃、凪斗は城での暮らしに馴染み始めていた。
甚助に叱られながら馬の世話を覚え、女中から余った粥をもらい、時には兵たちの稽古を遠くから眺めた。
それでも、完全に安心することはなかった。
いつ追い出されるかわからない。
いつ戦が来るかわからない。
いつまた、大切なものが燃えるかわからない。
その恐れは、凪斗の中に根を張っていた。
ある雨の日、凪斗は城の廊下で土田御前とすれ違った。
凪斗は慌てて頭を下げた。
土田御前は足を止めた。
「あなたが、信長が拾った子ですか」
凪斗は緊張で体を固くした。
「はい」
土田御前は凪斗をじっと見た。
その目は冷たく、まるで凪斗の奥まで見透かすようだった。
「信長は、また気まぐれを」
凪斗は何も言えなかった。
土田御前は続けた。
「あの子のそばにいれば、苦労しますよ」
凪斗は思わず顔を上げた。
土田御前の表情には、怒りだけではなく、疲れのようなものもあった。
「信長は、人の心を踏み越えて進む子です。近くにいる者ほど、傷つく」
凪斗は小さく答えた。
「それでも、飯をくれました」
土田御前の目がわずかに揺れた。
凪斗は続けた。
「僕が死にそうだった時、信長様は見捨てませんでした」
土田御前はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「あの子は、昔からそうでした」
「昔から?」
「見なくてよいものまで見る。聞かなくてよい声まで聞く。そして、放っておけない。けれど、それを優しさとして出すことができない」
凪斗は驚いた。
母は信長を嫌っているのだと思っていた。
だが、そうではないのかもしれない。
理解できないから、遠ざけている。
恐れているから、冷たくしている。
そういう愛もあるのだろうか。
凪斗にはわからなかった。
土田御前はそれ以上何も言わず、去っていった。
雨音だけが廊下に残った。
その日の夜、凪斗は信長にその話をしなかった。
なぜか、話してはいけない気がした。
信長はいつものように地図を見ていた。
雨が屋根を叩いている。
凪斗は部屋の隅で火鉢の炭を直していた。
ふと、信長が言った。
「雨は嫌いか」
凪斗は少し考えた。
「嫌いではありません」
「なぜ」
「火を消してくれるから」
信長は凪斗を見た。
凪斗は続けた。
「村が燃えた日、雨が降っていればよかったと思いました」
信長は何も言わなかった。
雨音が強くなる。
凪斗は小さく言った。
「でも、雨が降っていたら、僕は逃げられなかったかもしれません」
信長は静かに答えた。
「何が幸いになるかは、後にならねばわからぬ」
「信長様にも、そういうことがありますか」
「ある」
「どんなことですか」
信長は少し笑った。
「うつけと呼ばれたことだ」
凪斗は驚いた。
「幸いなのですか」
「人は、馬鹿だと思った相手には油断する」
信長の目が鋭くなった。
「わしを笑う者ほど、わしの刃に気づかぬ」
凪斗は背筋が冷たくなった。
信長はやはり怖い。
だがその怖さは、ただ人を傷つけるためのものではない。
生き残るための怖さだった。
守るための怖さだった。
そして、いつか大きなものを壊すための怖さだった。
雨は夜通し降り続いた。
凪斗は馬小屋へ戻り、藁の上で目を閉じた。
夢を見た。
村が燃えている。
千代が泣いている。
母が叫んでいる。
父が倒れる。
凪斗は走ろうとする。
でも足が動かない。
炎が迫る。
その時、誰かの声がした。
「生きろ」
凪斗は目を覚ました。
全身が汗で濡れていた。
外はまだ雨だった。
だが、夢の中の炎は消えていた。
凪斗は震える手で胸を押さえた。
生きろ。
それは母の声だったのか。
信長の声だったのか。
それとも、自分自身の声だったのか。
わからなかった。
けれど凪斗は、その言葉を握りしめた。
尾張に落ちた孤独な少年は、まだ何者でもなかった。
武士でもない。
家臣でもない。
ただの下働き。
戦で家族を失い、憎しみと悲しみだけを抱えた小さな命。
けれど、その小さな命は、信長という炎のそばで少しずつ変わり始めていた。
憎しみだけでは生きられない。
悲しみだけでは進めない。
それでも、忘れてはいけないものがある。
燃えた村。
失った家族。
飢えた夜。
河原で差し出された干し飯。
そして、誰にも理解されずに立つ信長の背中。
凪斗はまだ、信長を信じきってはいなかった。
けれど、見届けたいと思い始めていた。
この人は何を燃やすのか。
この人は何を守ろうとしているのか。
この人の炎は、また誰かの村を焼くのか。
それとも、乱世そのものを焼き尽くすのか。
答えはまだ遠い。
だが、風は確実に変わり始めていた。
尾張の空の下で、少年は生きる理由を探し始めた。
そして若き信長の炎は、やがて桶狭間の雨の中で、誰も予想しなかった奇跡を起こすことになる。
第2ページでは、凪斗がなぜ戦を憎むのか、そして信長に対して恐れと興味を抱き始める心の動きを描きました。
信長は冷たく厳しい人物ですが、凪斗にとっては「嘘をつかない人」として少しずつ特別な存在になっていきます。
次の第3ページ「桶狭間、雨の中の奇跡」では、今川の大軍が迫り、信長の運命を変える大勝負が始まります。




