ベータの敗北とリビドーの凱歌――あるいは磁気テープ規格戦争の裏面史
第一章 ソニー信者の技術論
ある日の放課後。部室の空気は、二人の男の激論によって熱を帯びていた。
議題は、当時、家庭用映像機器の覇権を巡って繰り広げられていた**「ビデオ戦争」**についてである。
「白井よ、貴様の目は節穴か。技術的に見れば、**ベータマックス(β)**の優位性は自明の理ではないか。」
寺石は、極端なソニー信者であった。
彼は、ソニー創業者・盛田昭夫の先見性と、ミスター・ベータこと木原信敏の技術的独創性を神の如く崇拝していた。また、ソニー中央研究所長・菊池誠の如き知性が集うあの企業こそが、戦後日本の技術立国の象徴であると信じて疑わなかった。
寺石は黒板に図解を書き殴る。 「見よ。カセットのサイズはベータの方がコンパクトだ。テープの走行系も、ベータの『Uローディング』はテープへの負担が少なく、早送り・巻き戻しのレスポンスも迅速である。対してVHSの『Mローディング』はどうだ。構造が複雑でテープを傷めやすい。画質、機能、デザイン……何をとってもベータが上だ。これを選ばねばならぬ理由は万に一つもない。」
彼の主張は正しかった。純粋なテクノロジーの観点において、初期のベータはVHSを凌駕していたのである。
第二章 銀座ネッスル商会の亡霊
しかし、対峙する白井紫影は、技術論などどこ吹く風の、冷ややかなリアリストの目をしていた。
彼は腕を組み、寺石の熱弁を聞き流すと、素朴な疑問を口にした。
「しかし寺石よ。俺が聞いたところでは、最近はアイワとかいうメーカーもベータを出しているそうじゃないか。ソニーは孤立しているわけではないのだろう?」
寺石は、白井の無知蒙昧さに呆れ果てた溜息をついた。
「馬鹿者。アイワはソニーの子会社だ。身内が味方するのは当然だろう。貴様、そんな基礎知識もなく議論に臨んでいるのか?」
「知らんよ、そんなこと。」白井は鼻をほじった。「俺が知っているのは、電気屋の親父が『VHSの方が勢いがある』と言っていたことだけだ。」
「フン、電気屋風情に何が分かる。」
寺石は、愚かな友を啓蒙すべく、滔々(とうとう)と語り始めた。
「良いか白井。ソニーという企業はな、戦後の焼け野原で、何もないところから立ち上がったベンチャーの星なのだ。創業者の井深大氏はな、設立当初、資金繰りのために何を売っていたか知っているか? **『電気座布団』**だぞ。」
寺石は、あたかも自分がその場にいたかのように熱く語る。
「ニクロム線を布で挟んだだけの粗末な代物で、時には発熱しすぎてボヤ騒ぎも起こしたという。しかも、東通工の名を汚さぬよう、**『銀座ネッスル商会』**などという偽名を使って露店で売り捌き、糊口を凌いだのだ! その泥水をすするような苦労を経て、世界のソニーは築かれたのだ。今のVHS陣営の如き、寄り合い所帯とは覚悟の桁が違うわ!」
寺石は勝利を確信した。この美談を聞けば、白井もソニーの精神性に平伏すであろうと。
しかし、白井の反応は、寺石の予想を裏切るものであった。
「へぇ……。なりふり構わず、偽名を使ってでも売る、か。」
白井は、妙に感心したように頷いた。
「じゃあ、今のソニーには、その**『電気座布団』**に当たるものがないんじゃないか?」
「は?」
「だってそうだろう。VHS陣営は、なりふり構わずやってるぞ。俺が昨日行った電気屋では、VHSデッキを買えば、こっそり**『無修正の裏ビデオ』**をオマケにつけると言っていた。これこそ、現代の電気座布団、いや、それ以上に客の身体を熱くさせる生存戦略ではないのか?」
寺石は絶句した。
自らが語った創業者の苦労話が、あろうことか「裏ビデオ商法」を肯定する論拠として利用されるとは。
「き、貴様……! 井深さんの苦闘と、猥雑なポルノを一緒にするな!」
「同じことよ。背に腹は代えられん。ソニーは高潔すぎて、泥水をすする覚悟を忘れたのではないか? だから負けているのだ。」
白井の無垢なる指摘は、寺石の心臓を正確に貫いた。
第三章 くりぃむレモンの衝撃
さらに白井は、トドメとなる事例を提示した。
「それにだ。寺石、貴様も男なら知っていよう。あのアニメ界に革命を起こした**『くりぃむレモン』**シリーズを。」
その名を聞いた瞬間、寺石の顔色が蒼白になった。
一九八四年より始まったそのシリーズは、美少女アニメとポルノを融合させ、爆発的なヒットを記録していた。亜美ちゃんの『属・亜美』、あるいは『エスカレーション』……。
「あのアニメもまた、主流はVHSだ。レンタルビデオ店の棚を見ろ。ピンク色の暖簾の向こう側は、VHSの独壇場だ。我々のようなオタクが、高画質のベータデッキを持っていたところで、肝心の亜美ちゃんには会えんのだよ! 画質が良くても、映すものがなければただの箱だ!」
「ぐぬぬ……ッ!」
寺石は呻いた。反論できなかった。
技術力への信頼。企業の理念。それら高邁な精神性が、たかだか数十分のアニメポルノの前に、そして「見たいものが見られない」という物理的な現実の前に、脆くも敗れ去ろうとしている。
「……ソニーは、負けるというのか。この、崇高なる技術の結晶が、人間の下半身の事情と、無知な大衆の欲望によって駆逐されるというのか……!」
終章 理性の敗北と忸怩たる想い
歴史は白井の予言通りに動いた。
やがてソニー自身もVHSデッキの販売に踏み切り、ベータマックスは市場から静かに退場していくこととなる。
その日の議論は、知識量においては寺石の圧勝であった。
しかし、現実という名の戦場においては、無知な白井の突きつけた「欲望の事実」こそが真実であった。
寺石は、愛するベータのカタログを握りしめ、忸怩たる想いで呟いた。 「……木原先生、盛田会長。そして井深さん。申し訳ありませぬ。我々の愛した技術は、かつて貴方がたが売った電気座布団よりも熱い、大衆のリビドーという業火の前に敗れ去りました。」
白井は、敗北した友の肩を叩いた。
「諦めろ、寺石。……さあ、VHSを買いに行くぞ。新作のレモンが入荷しているはずだ。お前も見たいだろう?」
「……見たい。」
寺石は、涙を拭い、小声で答えた。
技術史の教科書には載らぬ、しかし確実に歴史を動かした「エロ」という名のエネルギー。
彼らはその強大さを、身を以て、そして財布を以て学んだのである。




