上松の受難――あるいは『きみはきらり』事件
その日、聖交学園の部室には、いつになく弛緩した空気が澱んでいた。
窓外では初夏の陽光がのどかに降り注いでいるというのに、室内にたむろする「ちんちくりんの七変」の面々は、各々が己の深淵なる、あるいは無為なる思索に耽っていた。
唐突に、その静寂が破られた。
謎多き男、寺石が、手元の鞄から一冊の書物を、恰も禁断の聖典であるが如く、うやうやしく取り出したのである。
その表紙には、あどけなき少女が、極彩色の光の中で微笑む姿が写し出されていた。書名は**『きみはきらり』**。世の好事家たちが血眼になって追い求める、幼形愛好の至宝とも呼ぶべき写真集である。
「……寺石よ、ここは学び舎であるぞ。」
口火を切ったのは、日系インディアンの末裔にして、シャーマニズムの信奉者、マスターKである。彼は普段、精霊の声を聴くと称して瞑想に耽ることが多いが、この時ばかりは、学園の良識を代表するが如き厳粛な面持ちで寺石を諌めた。
「そのような俗なる偶像の図像を、神聖なる部室に持ち込むこと、精霊たちが嘆いておる。」
しかし、その場に居合わせた主人公、白井紫影の反応は、Kとは対照的であった。
紫影は、当然ながらこの『きみはきらり』を所持していた。否、保存用、観賞用、布教用と三冊を揃えるほどの熱狂的な信者である。彼にとって、その書の内容は既に脳裏に焼き付いて離れぬものであったが、いざ実物が目の前に現れると、彼の「武術僧」としての仮面は脆くも崩れ去りそうになった。
(いかん。ここで動揺しては、我が「イエス・ロリータ、ノー・タッチ」の硬派が廃る。)
彼は必死に平静を装い、腕を組んで瞑目を試みた。しかし、その瞼の裏には、表紙の少女の笑顔が焼き付き、半眼に開いた瞳は、意志に反して寺石の手元を凝視し、眼球には無数の血走った血管が浮き出ていた。その形相は、悟りを開く直前の高僧というよりは、煩悩の火に焼かれる餓鬼のそれに近かった。
張り詰めた、奇妙な緊張感の中。
部室の隅で、先輩たちの様子を伺っていた後輩、上松が、ふと、無邪気な声を上げた。
「あっ! 先輩! それ『きみはきらり』ですね。いいなあ、僕も欲しいと思ってたんですよ。」
その一言は、火薬庫に投げ込まれた松明であった。
刹那、白井紫影が、まるで電気に打たれた如く跳ね起きた。彼の僧形の頭部から、湯気が立ち上るかのような激昂ぶりである。
「上松ッ!!」
紫影の咆哮が部室を震わせた。上松は驚きのあまり、手に持っていた茶をこぼしそうになる。
「貴様、今なんと言った? 『いいなあ』だと? 『欲しい』だと? ということは、貴様、まさか……」
紫影は上松に詰め寄り、その胸倉を掴まんばかりの勢いで問い質した。
「この至高の聖典を、未だ所持していないというのかッ!?」
「え、あ、はい。まだ小遣いが足りなくて……」
「ありえん! 断じてありえん!」
紫影は絶叫した。彼の論理では、この写真集を知っていながら所持していないことは、武士が刀を持たずに戦場に出るが如き、あるいは僧侶が経典を持たずに説法をするが如き、許されざる怠慢であった。
「貴様、それでも我が後輩か! この一冊に込められた、純粋なる魂の結晶を、手元に置かずして、何が『いいなあ』だ! 所有せざる憧憬など、屁にも劣るわッ!」
理不尽な叱責に、上松はオロオロと視線を彷徨わせた。この場を収めてくれるのは、常に冷静な寺石先輩か、良識派のマスターK先輩しかいない。彼は縋るような目で、二人に助けを求めた。
しかし。
ページをめくる手を止めた寺石は、眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、静かに、だが決定的な宣告を下した。
「上松よ。紫影の申す通りだ。『きみはきらり』を持たぬ者は、人に非ず。」
「えっ……て、寺石先輩?」
寺石は続ける。「情報は、所有し、解析し、血肉として初めて意味を成す。貴様がこの書を持たずに『いいなあ』と宣うのは、思想なき扇動に乗る愚民と同じ。それは、罪だ。」
上松は絶望した。最後の希望、マスターKに視線を移す。Kは、静かに首を振った。
「上松、精霊たちも言っている。『きみはきらり』を持たねば、未来はない、と。」
「そ、そんな……K先輩まで……」
部室の空気は完全に凍りついた。
三人の先輩たちは、各々の歪んだ論理に基づき、上松という一人の無辜なる後輩を、断罪の十字架へと磔にしたのである。
彼らの口から次々と発せられる言葉は、呪詛の如く上松に降り注いだ。
曰く、『きみはきらり』を持たぬこと、即ち怠惰。
曰く、『きみはきらり』を持たぬこと、即ち蒙昧。
曰く、『きみはきらり』を持たざる者の魂は、永久に煉獄を彷徨わん。
哀れなる上松。
彼は、単に金欠であっただけなのだ。しかし、この狂信的な先輩たちの前では、その経済的困窮さえもが、精神的な敗北として断じられた。
彼の脳裏には、紫影の血走った眼と、寺石の冷徹な宣告、そしてKの怪しげな予言が、トラウマとして深く刻み込まれた。
数日後。
放課後の街を、必死の形相で疾走する上松の姿があった。
彼は食費を削り、不要な参考書を古本屋に売り払い、ようやく捻出した金子を握りしめていた。目指すは書店の写真集売り場。
彼にとって『きみはきらり』を入手することは、もはや単なる趣味の充足ではない。それは、人間としての尊厳を取り戻し、狂える先輩たちの待つ部室という名の社会へ復帰するための、贖罪の巡礼となっていたのである。
後日、部室の机の上に置かれた『きみはきらり』を見て、紫影は満足げに頷き、寺石はニヤリと笑い、Kは「精霊が喜んでいる」と呟いたという。
上松が、その写真集を心から楽しめたかどうかは、定かではない。ただ、彼の引きつった笑顔だけが、その苦難の道のりを物語っていた。




