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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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斜線の誤読と電離層の幻影――あるいはロックバンドとコールサインの記号論

第一章 Φ(ファイ)のごときゼロ


 ある日の放課後。部室の空気は、いつになく華やいでいた。

 隻眼の絵師、鷹が、一枚のLPレコードを小脇に抱え、意気揚々と現れたからである。

 黒一色のジャケットに、白く鋭利なフォントで刻まれた文字。それは、当時の若者たちを熱狂の渦に叩き込んでいた伝説のロックバンド、**『BOØWY』**のアルバムであった。


 「……見ろ、このジャケットデザインを。黒と白のコントラスト、そしてこのタイポグラフィ。完璧な美学だ。」

 鷹はうっとりと盤面を撫でた。


 その時、回路図と格闘していた寺石が、ふと顔を上げ、鷹の手元を凝視した。

 眼鏡の奥の瞳が、一点に釘付けになる。

 それは、バンド名の中央に位置する**「Ø」**の文字――すなわち、斜線の入ったゼロであった。


 寺石の脳内検索エンジン(データベース)が、激しく回転する。

 (丸に斜線……。これは数学記号の空集合か? 否。この文脈においては、間違いなく通信用語における**『ゼロ』**の表記だ。オー(O)とゼロ(0)を明確に区別するための、無線家の作法!)


 寺石は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 「おい、鷹よ。珍しいな。貴様が**無線ハム**の世界に興味を持つとは。」


第二章 致命的なる周波数のズレ


 「え? ハム?」

 鷹は一瞬きょとんとしたが、以前の「洋楽誤読事件」の教訓から、これは寺石流の高度な比喩表現なのだろうと解釈した。

 「ああ……まあな。このバンドの出す音は、確かに電波に乗って世界を侵食するような勢いがあるからな。」


 「うむ。心がけが良い。」

 寺石はレコードジャケットを指差した。

 「それにしても、鷹よ。このOMオーエムさんのQSLカードは、随分と意匠が凝らしてあって面白いな。写真集並みの装丁ではないか。」


 「キューエスエル……?」

 鷹は首を傾げた。(アルバムのことを、業界用語でそう呼ぶのか? クオリティ・サウンド・レーベルとかの略か?)

 「ああ、デザインには凝ってるよ。彼らはビジュアルも売りの一つだからな。」


 寺石は、文字列**『BOØWY』**を、無線局の識別信号コールサインとして解読し始めていた。


 「ふむ……。『B』から始まるプリフィックス(接頭辞)。ということは、この局長さんは台湾(中華民国)、あるいは中国本土の方なのか?」


 「は? 台湾?」

 鷹は目をぱちくりさせた。「いや、ボーカルのヒムロックも布袋も、バリバリの日本人だよ。群馬出身だ。」


 寺石の眉間にしわが寄る。

 「日本人……だと? 日本人が『B』のコールサインを持つということは、現地からの運用か、あるいは**DXペディション(遠征)**か……。しかし、妙だな。」


第三章 エリア0の謎とプロパガンダ


 寺石の指が、文字列の『Ø(ゼロ)』を指し示した。

 「見ろ、このエリアナンバーを。**『Ø(ゼロ)』**だ。日本国内(JA)であれば、エリア0は信越地方(長野・新潟)を指すが、プリフィックスが『B』でエリアが『0』……。これは通常のアマチュア局ではない。」


 寺石の声が、陰謀論めいた熱を帯びる。

 「場所を特定できない移動局か、あるいは政府関係の**特殊なスペシャル・ステーション**なのか? やはり、政治的配慮が働いているのか?」


 鷹は、寺石がバンドの「カリスマ性」や「社会への影響力」について語っているのだと好意的に誤解した。

 「まあ、確かに特別扱いはされてるよ。テレビ局もラジオ局も、彼らの動向には注目してるし、解散宣言なんて社会現象になったくらいだからな。政治をも動かすカリスマと言えなくもない。」


 「なるほど!」

 寺石は膝を打った。

 「カリスマ性が高いということは、即ち**プロパガンダ(政治宣伝)**に最適だということだ! 親日の台湾、あるいは大陸の深部において、日本人が強力な出力で放送(運用)を行う……その意義は地政学的にも極めて大きい!」


 「え、ああ……うん?」

 鷹は、話のスケールが急激に国家レベルに拡大したことに困惑しつつも、相槌あいづちを打つ。

 「ま、まあ、台湾でも人気あるかもしれないし、アジアツアーとか……やってたかな?」


第四章 ウィスキー・ヤンキーの孤独


 寺石は最後に、サフィックス(接尾辞)である**『WY』**に注目した。


 「そして、このサフィックス。『WY』……フォネティックコードで言えば**『ウィスキー・ヤンキー』**か。酔いどれのアメリカ野郎とは、随分と自虐的でパンクなネーミングセンスだ。嫌いではない。」


 「……そこは英語読みで『ボウイ』って読むんだけどな。」

 「ほう! コールサインを愛称のように読ませるとは、なんと洒脱しゃだつな! やはり只者ではないな、このOMは!」


 二人の会話は、ロックバンドのアルバムと、架空の無線局の交信記録という、決して交わらぬ二本のレールの上を、猛スピードで並走していた。

 部室に流れる『マリオネット』のリズムに合わせて、寺石はモールス信号を打つ真似をし、鷹はエアギターをかき鳴らす。

 その光景は、側から見れば奇妙なジャムセッションのようであり、その実、絶望的なディスコミュニケーションの極致であった。


【寺石博士の無線通信講座:なぜ彼は勘違いしたのか?】


読者諸兄の為に、寺石の脳内で起きた回路のショートを解説しよう。


1. 斜線付きゼロ(Ø)の魔力

 アマチュア無線やプログラミングの世界では、アルファベットの「Oオー」と数字の「0(ゼロ)」の混同は、致命的な情報の伝達ミス(交信不成立やバグ)を招く。故に、数字のゼロには斜線を入れて**「スラッシュ・ゼロ」**と表記する慣習がある。

 寺石は、ロックバンドがお洒落で入れた「Ø」を見た瞬間、パブロフの犬の如く「これは無線家の書いた文字だ!」と認識してしまったのである。


2. コールサインの構造(Prefix / Area / Suffix)

 無線局の識別信号は、世界共通のルールで決まっている。

 【プリフィックス(国籍)】+【エリアナンバー(地域)】+【サフィックス(個人の識別)】

 (例:J A 1 Y A A = 日本・関東・某無線部)


 寺石は『BOØWY』を以下のように分解した。


BOプリフィックス: 国際電気通信連合(ITU)の割り当てでは、**「B」から始まるコールサインは中国(China)**に割り当てられている(BM-BQ, BU-BXなどは台湾で使用されることもある)。寺石の脳内では「B=大陸方面」という図式が成立した。


Ø(エリアナンバー): 数字の0。通常、エリアナンバーは1~9、0で地域を分ける。


WYサフィックス: 個別記号。フォネティックコード(通話表)では、WはWhiskey、YはYankeeと発音される。


3. 専門用語の誤爆


OM(Old Man): 無線用語で「男性オペレーター」「先輩」「旦那」などを指す敬称。バンドのメンバー(男)を指してこう呼んだ。


QSLカード: 交信証明書。無線家同士が交信した後に交換するポストカード。自分のコールサインや独自のイラスト(意匠)が印刷されている。寺石はアルバムジャケットを「凝ったデザインのQSLカード」だと勘違いした。


 即ち、寺石にとって『BOØWY』とは、**「中国(あるいは台湾)のエリア0から、ウィスキー・ヤンキーという名の日本人が発信している、謎の秘密無線局」**だったのである!

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