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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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銀色の血管と音響の純度――あるいは量産品への静かなる反逆

第一章 部室のハンダ煙と沈黙の儀式


 それは、聖交学園における何気ない、しかし奇妙な緊張感をはらんだ日常の断片であった。

 放課後の部室。窓外では、グラウンドを駆ける運動部員たちの掛け声や、金属バットが球を打つ乾いた音が遠く響いているが、この室内には、外界とは隔絶された別の時間が流れていた。支配するのは、松脂まつやにが焦げるような独特の甘く鼻を突く刺激臭と、精神的な静寂のみである。

 寺石は、日がな一日、机に向かって作業に没頭している。その手には、先端から細く紫煙を上げるハンダごてが、あたかも外科医のメスか、あるいは祈祷師の錫杖しゃくじょうの如く握られ、眼鏡の奥の瞳は、顕微鏡で微生物を観察する老学者の如く、一点に集中して瞬きすら忘れていた。


 ふと気になり、白井紫影は読書の手を休め、彼の手元を覗き込んだ。

 そこには、外装を剥ぎ取られ、複雑な電子回路と基板があらわになった、黒い筐体きょうたいが横たわっていた。それは、当時の若者たちの必需品にして、音楽を持ち運ぶという革命をもたらした文明の利器であった。


 「おい、寺石。それって……ウォークマンだよな?」

 白井はいぶかしげに問うた。「故障か? それとも、壊れたジャンク品を再生しているのか?」


 寺石は、作業の手を止めず、背中を向けたまま、抑揚のない声で淡々と応えた。

 「いな。故障もしていないし、機能的に修理すべき箇所は何一つない。新品同様の完動品だ。」


 「では何故、わざわざ分解など?」


 「改善カイゼンができるのだ。」

 寺石はそこで初めて振り返り、ニヤリと、マッドサイエンティスト特有の傲慢ごうまんな笑みを浮かべた。「あるいは、メーカーがコストダウンという名の悪魔に魂を売って妥協した部分を、私が救済し、本来あるべき姿へと昇華させているのだよ。」


第二章 鉛の浴槽と銀の純血


 寺石は、ハンダごてをスタンドに置き、ピンセットで基板上の、肉眼では判別し難い微細な接合部を指し示した。


 「良いか、白井。心して聞け。おおよそ大半の量産品の基板は、**『ハンダフローはんだ』**と言われる工程を経て作られている。それは、溶けた鉛とすずが煮えたぎる地獄の浴槽のような所に、基板の底面だけを浸し、一度に全面を接合するという、極めて工業的かつ粗雑な手法だ。これは大量生産における効率性という点では合理的だ。だが、音響工学の観点、美学の観点からは、妥協の産物以外の何物でもない。」


 寺石の声が熱を帯び、演説のトーンへと変わる。

 「その工業用ハンダは、不純物を多く含み、電気的な抵抗値が高い。微細な信号の揺らぎを命とする音楽機器において、この抵抗は血管に詰まったコレステロール、あるいは清流をき止める泥の如く、音の鮮度を阻害し、濁らせるのだ。我々が聴いている音は、鉛のフィルターを通した『死んだ音』なのだよ。決して良いとは言えん。」


 「だ、だから……?」白井は圧倒されながら問う。


 「だから、だ。」

 寺石は、傍らに置かれた**ハンダ吸取器スッポンと、銅網の吸取線ウィックを、聖具の如く取り上げた。

 「その劣悪な工業用ハンダを、吸取器とウィックを用いて、一箇所残らず完全に除去する。いわば、けがれた血を抜き取る瀉血しゃけつの儀式だ。そして、すべてをこの『銀入りハンダ(シルバーソルダ)』**にて、私の手作業で一つ一つ付け直ししておるのだよ。」


 白井は呆気あっけに取られた。

 この基板上に無数に、数百、数千と存在する微細な接点。その一つ一つを溶かし、吸い取り、そして高価な銀入りハンダで付け直すというのか。それは気の遠くなるような、さいの河原の石積みに等しい苦行であり、狂気の沙汰である。


 「……狂気だな。メーカー保証も消えるぞ。」白井が漏らす。


 「正気だよ。」寺石は即答した。「保証などという紙切れに価値はない。こうすることで、電気信号の伝達ロスは極限まで減少し、音質の解像度は劇的に向上する。曇りガラスを拭い去った如く、クリアな音像が立ち現れ、ヴォーカルの息遣いまでもがよみがえるのだ。鉛の呪縛から解き放たれた電子たちは、歓喜の歌を歌うだろう。」


第三章 一石二鳥の物理学と魂の錬成


 さらに寺石は、勝利を確信した将軍のように、得意げに付け加えた。

 「それだけではないぞ、白井。音質の向上は精神的な満足に過ぎぬと言うかもしれんが、ここには物理的な実利もある。無駄な抵抗値が減る事により、回路全体のエネルギー効率が劇的に改善されるのだ。即ち、抵抗による熱損失が減り、同じ音量を出力する際にも消費電力が減る。結果として、電池の動作時間が伸びるという副次的効果もある。」


 彼は、銀色に輝くハンダのリールを、あたかも高貴な宝石の如く掲げた。

 「音質という形而上の『美』と、省電力という形而下の『実利』。この二つを同時に満たす。一石二鳥とは、まさにこの事よ。私は今、単なる改造を行っているのではない。物質の限界を超え、完全なる機械マシンを錬成しているのだ。」


 そう言い放つと、寺石は再び黙々と作業に戻った。

 ジュッ、という音と共に、銀色の煙が立ち上る。彼は、メーカーの保証を自らの手で破棄し、その代償として、世界に一つだけの「純化された音」と「永遠に近い駆動時間」を手に入れようとしているのだ。その背中は、現代の職人アルチザン矜持きょうじを漂わせていた。


 白井は、しばし黙考して、その小さな背中を見つめた。

 (……武術における『身体の最適化』や『無駄な筋緊張の排除』と、この男がやっていることは、本質的に同じなのではないか?)

 エネルギーの流れを阻害する要因を取り除き、純粋な力を通す。寺石は、電子回路という小宇宙において、それを実践しているのだ。


 一見すると狂気じみたオタクの奇行。しかし、その根底には、対象(機械)のポテンシャルを極限まで引き出そうとする、求道者の如きストイシズムが流れている。

 白井は、何故か無性に自分のポケットに入った吊るしのウォークマンを取り出し、その音を聴きたくなった。そして、そこから流れる音が、酷く曇って、生気のないものに聞こえるであろうことを予感し、微かな、しかし決定的な敗北感を覚えるのであった。

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