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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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古典の系譜と性癖の正当化――あるいは平安朝からの福音

第一章 断絶されたカリキュラム


 聖交学園の教育課程は、常軌を逸している。

 この学園において、中学三年間のカリキュラムは、高校一年までの学習内容を完全に包含し、終了せしめるように設計されている。彼らにとって、高校課程とは、単なる復習と大学入試演習の場に過ぎない。

 故に、高校からこの魔窟まくつに足を踏み入れた編入生(高入生)たちは、入学初日に絶望的な断崖に直面することになる。

 昨日まで公立中学の検定教科書で遊んでいた者に対し、突如として高二レベルの難解な専門書が投げ渡され、「来週までにここまで予習せよ」と命じられるのだ。その進度差ギャップは、あたかも自転車で走っていた者が、いきなりF1レースの周回遅れからスタートさせられるが如き理不尽さであった。


 この試練に対し、高入生は二つに分かれる。

 死に物狂いでペダルを漕ぎ、華麗に集団に追いつく「超人」か。

 あるいは、為すすべもなくドロップアウトし、深海魚の如く底辺を彷徨さまよう「落伍者」か。

 もっとも、この学園における「底辺」といえども、全国模試においては偏差値七十を叩き出すのだから、世間一般から見れば、彼らは全員が「異常な優等生」なのであるが。


 我らが白井紫影は、数学や英語においては辛うじて食らいついていたものの、ここに来て一つの巨大な壁に激突していた。

 **古典(古文)**である。

 「ず・ず・ず・ぬ・ね・〇」……呪文のような活用形と、千年前の恋愛沙汰を解読する作業に、彼の脳漿のうしょうは沸騰寸前であった。


第二章 紫のゆかり、ロリコンの始祖


 放課後の部室。

 白井は、古語辞典を枕に突っ伏し、うわ言のように「いとあはれ……いとあはれ……」と呟いていた。

 見かねた**蛮座ばんざ**が、文庫本を片手に歩み寄る。


 「白井よ。何を苦しんでいる。古典こそ、我々の『業』の源流であり、魂の故郷ではないか。」


 「……何だと?」


 蛮座は眼鏡を光らせ、解説を始めた。

 「貴様は『源氏物語』を単なる恋愛小説だと思っているな? 否。あれは、日本文学史上における、ロリコンの金字塔だ。」


 「なッ!?」


 「思い出してみろ。主人公・光源氏が、最愛の女性となる**紫の上(若紫)を見初みそめたのは、彼女が幾つの時だ?」

 蛮座は、教科書の該当箇所を指差した。

 「十歳ほどだ。……すずめの子を犬君いぬきが逃がしたといって泣いている幼女を、源氏は『理想の女性に育てる』という名目の下、拉致同然に連れ去り、自邸に囲ったのだ。これぞ、現代で言うところの『自分好みに育成する(プリンセスメーカー)』**という概念の嚆矢こうしではないか!」


 白井は雷に打たれたように硬直した。

 「ま、まさか……。天下の光源氏が、私と同じ……同好の士であったというのか?」


 「しかり!」

 今度は寺石が口を挟む。「白井よ、貴様の名にある『紫』の一字。これは偶然ではない。貴様は、平安の昔から連綿と続く、**『若紫を愛でる血脈』**の正統なる継承者なのだ! 恥じることはない。それは日本文化の根底ベースなのだから!」


 「お、おお……!」

 白井の瞳に、感動の涙が浮かぶ。「私は、一人ではなかった……。千年の時を超え、光の君と共にあったのか!」


第三章 紀貫之、ネカマのパイオニア


 勢いづいた七変たちの講義は止まらない。

 次に口を開いたのは、語学の天才・**琢磨パクパー**であった。


 「白井よ。貴様は時折、パソコンの前で女子のような言葉遣いをしているそうだな?(※本人は無自覚だが、周囲は薄々感づいている)」


 「う、うるさい! あれは……憑依だ!」


 「フン、隠すな。いわゆるネカマというやつだ。だが、それもまた、日本文学の伝統芸能であることを知っているか?」


 琢磨は、『土佐日記』の冒頭を朗々と暗唱した。

 「『男もすなる日記にきといふものを、女もしてみむとてするなり』……。見よ。作者は誰だ? **紀貫之きのつらゆき**だ。従二位にまで登り詰めた、立派なひげ面のおっさんだぞ。」


 「そ、それが……?」


 「彼は、当時の『男の文章(漢文)』では表現しきれない、繊細な情趣やユーモアを書き綴るために、あえて**『女性の仮面ペルソナ』**を被ったのだ! 性別を偽ることで、魂を解放し、新たな文体(仮名文学)を創造した。これぞ、ネカマの始祖にして、日本文学の革命児ではないか!」


 白井の脳裏で、何かがカチリとまる音がした。

 (私が、深夜のチャットできららになる時……感じるあの解放感。あれは、変態行為などではなかった。紀貫之が目指した、**『魂の文学的解放』**そのものであったのか!)


第四章 歴史のパノラマと自己肯定の爆発


 さらに、考古学徒の鈍蔵が追撃する。

 「『竹取物語』も忘れるな。竹の中から見つけた三寸(約9センチ)ばかりの幼女を、おきなは大切に育て上げた。あれは、現代におけるフィギュア愛好とドール育成のメタファーだ。日本人は古来より、小さきものを愛でる心を持っていたのだ。」


 鷹が付け加える。

 「**『更級日記さらしなにっき』の作者はどうだ? 薬師仏やくしぼとけを作ってまで、『源氏物語を全巻読ませてくれ』と祈ったのだぞ。現実を直視せず、物語の世界に没入する『夢女子ゆめじょし』**の元祖だ。我々の同志は、歴史の至る所に埋まっている。」


 次々と提示される史実(と、極端な解釈)。

 それらは、白井紫影が抱えていた「後ろめたさ」という名の堤防を決壊させた。


 「そ、そうか……。そうであったか!」


 白井は立ち上がり、両手を広げて天井を仰いだ。

 「ロリコンも、ネカマも、フィギュア萌えも……全ては、我が国の美意識が到達した、正当なる文化の精華せいかであったのか! 私は、病んでいたのではない。伝統を継承していたのだ!」


 自己肯定感が、ビッグバンの如く爆発する。

 彼の背後に、光源氏、紀貫之、そして無数の平安貴族たちが立ち並び、「そうだ、それで良いのだ」と微笑んでいる幻覚が見える。


 「ありがとう、友よ。私は今、猛烈に勉強がしたい。古典の中に、まだ見ぬ『萌え』の源泉を探しに行かねばならぬ!」


 白井は、先ほどまで忌避していた古語辞典を、聖書のように抱きしめた。

 その夜。

 彼の内なる別人格「きらら」のチャットは、いつにも増してみやびで、かつ文学的な香りを漂わせていたという。

 『いとあはれなり……今日のプリクラは、まさにヲカシだね☆ まろは、そう思うなり♪』

 その奇妙な語り口が、また新たなネット住人を困惑と興奮の渦に巻き込んでいくことを、白井はまだ知らない。

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