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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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緋色の恋慕と苺の因果――あるいは甘酸っぱき名の由来

第一章 電脳の果樹園にて


 白井紫影の中に棲まう、内なる少女**「きらら」が、深夜のチャットルームという電脳の社交場を闊歩かっぽしていた頃の話である。

 彼女(彼)は、そこで一人の奇妙な常連と出会った。

 ハンドルネームは定かではないが、その知的な語り口と、どこか暖かみのある人柄から、きららは彼を親しみを込めて「あけの人」**と呼んでいた。


 ある夜、会話の流れが、ふとしたことから家庭の味へと及んだ。

 きららは、画面の向こうにいる「緋の人」に対し、無邪気かつ饒舌じょうぜつに語り出した。


 『ウチのママが作る特製いちごジャムはね、本当に絶品なんだよ☆ 市販のものとは輝きが違うの。粒がそのまま残っていて、まるでルビーみたいにキラキラしてて、春の日の味がするんだから!』


 それは、白井紫影の現実リアルにおける、数少ない幸福な記憶の断片であった。彼の母が、旬の苺を丁寧に煮詰めたジャムの味。  きらら(白井)にとっては何気ない日常の一コマに過ぎなかったが、この話は「緋の人」の琴線きんせんに、深く、あまりにも深く触れたようであった。


第二章 画面越しの共鳴


 『……ほう。手作りの、粒の残ったジャムか。それは素晴らしい。』


 画面に表示される文字の羅列から、相手の温かな吐息が伝わってくるようであった。

 「緋の人」は、きららの語る「理想的な家庭の味」と、それを語る彼女自身の「無垢な少女性」に、ある種の憧憬どうけい、あるいは淡い恋慕れんぼにも似た感情を抱いたのかもしれない。

 電脳空間における対話は、肉体を持たぬが故に、精神の最も柔らかい部分を直接撫で合うような、純粋で危険な親密さを生むことがある。


 『いつか、そのジャムを塗ったスコーンを食べてみたいな。』

 『えへへ、いつかね!』


 その約束が果たされることは、永遠にない。

 なぜなら、きららの正体は、頭を丸めた筋肉質の男子高校生であり、そのジャムを食べるには、聖交学園のむさ苦しい食卓に同席せねばならぬからだ。

 しかし、その残酷な真実を知らぬまま、「緋の人」の胸中には、鮮烈な緋色の記憶が、永遠のイデアとして刻印されたのであった。


第三章 書店の戦慄と名の由来


 数年後、白井紫影が成人してからのことである。

 彼は書店で、話題のファンタジー小説を手に取った。その著者の名は、「緋野ひのいちご」。あるいは、そのウェブ上での名義は**「ストロベリー・ジャム」**であったという。


 白井の脳髄に、電流ごとき衝撃が走った。

 (……緋色? いちご?)


 遠い記憶の底から、深夜のチャットルームのログがよみがえる。

 あの日、自分が語った母のジャムの話。そして、それを愛おしげに聞いてくれた「緋の人」。

 まさか。

 そのまさかである。


 白井は戦慄せんりつした。

 もしや、この著名な作家のペンネームは、あの日、自分が無自覚に振り撒いた「虚構の少女の思い出」から生まれたものではないのか?

 自分がネカマとして演じた「きらら」との疑似恋愛の残滓ざんしが、巡り巡って一人の作家のアイデンティティ(名)の一部と化したというのか?


 「……事実は小説より奇なり、とは言うが。」


 白井は、その本を棚に戻す手が震えるのを止めることができなかった。

 それは、彼が犯した「なりすまし」という罪が、予期せぬ形で文化的な果実を結んでしまったことへの、畏怖と懺悔ざんげの震えであった。

 彼は知ってしまったのだ。自分が世界に対して、取り返しのつかない、しかし奇妙に甘美な影響を与えてしまったことを。

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