最も安全な漢のパラドックス――あるいは揺籠から初潮までの防衛線
第一章 二つの金科玉条
白井紫影という漢を語るにおいて、避けては通れぬ二つの言葉がある。
一つは、彼がこれまでに幾度となく口にし、己の行動規範としてきた**「イエス・ロリータ、ノー・タッチ」。
そしてもう一つは、対象の定義を極限まで厳密化した、時間的な境界線を示す言葉、「揺籠から初潮まで」**である。
ある日の放課後。部室の黒板に、白井はこの二つの標語を、書道の達人の如き筆致で書き殴っていた。
チョークの粉が舞う中、彼は振り返り、居合わせた同志たち――寺石、鷹、Kらに向かって、演説を開始した。
「諸君。世間は我々を誤解している。我々を、社会に害をなす『予備軍』であると白眼視し、警戒している。だが、それは大いなる過ちだ。」
白井は胸を張り、断言した。
「断じて言う。この私、白井紫影こそは、この地上において**『最も安全な漢』**であると!」
第二章 安全性の証明
「……ほう。」
寺石が眼鏡を直し、興味深げに促す。「その根拠は如何に? 貴様の性癖は、客観的に見れば危険水域を超えているように見えるが。」
「フン、浅はかなり寺石。」
白井は黒板の文字を指し棒で叩いた。
「まず、第一のテーゼ『揺籠から初潮まで』を見よ。これは私の守備範囲、否、信仰対象の有効期限を示している。生物学的な第二次性徴、即ち初潮を迎えた瞬間、その対象は『無垢なる天使(幼女)』から『肉体を持つ女(女性)』へと変貌する。その瞬間、私の恋心は霧散し、ただの隣人愛へと昇華されるのだ。」
「つまり?」
「つまりだ。私の性的な興味の対象は、成熟した女性には一切向かない。痴漢、覗き、不純異性交遊……これら世の性犯罪の九割九分は、成熟した女性を対象としている。故に、私はそれらの犯罪を犯す動機自体が存在しない。大人の女など、私にとってはただの炭素化合物に過ぎん!」
白井の暴論に、鷹が苦笑する。「まあ、それは分からんでもないが……逆はどうだ? その『期間内』の対象に対しては、猛獣と化すのではないか?」
「そこで第二のテーゼだ!」
白井は叫んだ。
「『イエス・ロリータ、ノー・タッチ』! 私は対象を愛するが故に、指一本触れぬことを自らに課している。触れれば穢れる。近づけば散る。それは信仰なのだ。神像に抱きつく信者がいるか? 否、ただ跪いて祈るのみ!」
第三章 論理の帰結と崩壊
白井は、両手を広げて結論を述べた。
「見よ、この完璧なる論理の円環を。
一、成熟した女性には、興味がないから手を出さない。
二、未成熟な少女には、尊すぎるから手を出さない。
即ち! 全年齢、全女性に対し、私の肉体が接触する可能性は、ゼロなのだ! 私は、欲望の荒野に立ち尽くす、**完全なる真空地帯**なのだッ!」
部室に沈黙が落ちた。しかし、それは納得の沈黙ではなかった。
白井はさらに畳み掛ける。「それに加え、私は自らを**『虹炉』**と定義している。虹、即ち二次元の幻影のみを燃料として燃え盛る炉だ。私のリビドーは、紙とデータの上でしか点火せぬ構造になっているのだよ。」
「異議あり。」
静寂を破ったのは、隻眼の鷹であった。彼は冷ややかな視線で白井を射抜いた。
「貴様、さっき『虹炉』と言ったな? 二次元にしか欲情せぬと。……ならば問う。貴様のロッカーに隠されている**『きみはきらり』**は、何だ?」
「……ッ!」
白井の喉が鳴った。
すかさずマスターKが追撃する。「精霊も言っている。『あの写真集は三次元の光子の記録だ』と。白井よ、貴様は実写の幼女写真集を三冊も所持し、夜な夜な凝視しているではないか。あれは二次元にあらず。三次元の影だ。」
「ぐ、ぬぬ……」
白井は狼狽した。痛いところを突かれた。
「そ、それは……写真は二次元媒体に定着された時点で、イデア化されていると言えなくも……」
「苦しいな。」鷹が笑う。「貴様の『二次元専』という主張は、ここで崩れ去った。貴様は三次元の幼女にも、明確に反応する身体を持っている。」
「ええい、黙れ! だ、だが私は手を出さない! ノー・タッチの誓いがある限り、私は安全なのだ!」
白井は顔を真っ赤にして叫んだ。論理の柱を失いながらも、精神論の柱にしがみつくその姿は、落城寸前の砦に立て籠もる敗残兵の如く哀れであった。
第四章 極限状況の思考実験
自己矛盾に言葉を失い、肩で息をする白井に対し、これまで沈黙を守っていた寺石が、ゆっくりと口を開いた。
その声は低く、地獄の底から響く審判のラッパのように冷徹であった。
「白井よ。貴様は『自らは触れない』と言う。それは貴様の意思だ。だが、世の中には不可抗力というものがある。」
「……何?」
「貴様は自らはノータッチかも知れないが、天然自然の未曾有の災禍のような、例えば津波による原発爆発のような、人知を超えた突発的な事象が起きた時、貴様はどうする?」
寺石は、眼鏡の奥でサディスティックな光を宿し、具体的な、あまりにも具体的な地獄を提示した。
「そう、例えばだ。……芋を洗うような過密状態の幼稚園のプール。それも、女児のクラスの時間帯に、貴様が何らかの事故で、誤ってドブンと落ちてしまったとしたら、貴様はどうする?」
「…………ッ!!」
その瞬間、白井の脳裏に鮮烈な映像が走った。
極彩色の水着。弾ける水飛沫。四方八方から押し寄せる、無垢なる柔肌の波。甘いミルクと塩素の匂い。
それは彼にとって、天国であると同時に、即死級の猛毒であった。
「あ、あ、あ……」
白井の瞳孔が開き、呼吸が荒くなる。
避けようがない。動けば触れる。じっとしていても触れられる。
「イエス・ロリータ」の業火と、「ノー・タッチ」の戒律が、彼の脳内で核融合を起こす。
「どうした、白井。答えろ。」
寺石は追及の手を緩めない。「貴様の肉体は、その状況下で、生理的な反応を抑え込めるのか? 理性で本能という名の怪獣を鎖に繋ぎ続けられるのか? それとも、理性が焼き切れ、獣となって暴走するのか?」
白井は、ガタガタと震え出した。
想像するだけで、彼の理性は崩壊の危機に瀕していた。
そして、ついに。
「ぶっ!!」
白井の鼻孔から、二筋の鮮血が、あたかもダムが決壊した濁流の如く、勢いよく噴き出した。
「あべしッ……!!」
彼は奇妙な断末魔を上げ、白目を剥いてその場に卒倒した。
床に倒れ伏した彼の顔は、大量の鼻血で赤く染まり、その表情は苦悶と、法悦の入り混じった、涅槃の相を呈していた。
「……ほう。失血死を選んだか。」
寺石は冷ややかに見下ろした。「自らの血を抜き、意識を断つことで、倫理を守り抜くとは。……見事な最期だ、白井紫影。」
鷹とKは、合掌した。
白井紫影。彼は「最も安全な漢」であることを証明するために、想像上のプールで溺れ、自らの血の海に沈んだのである。
その生き様は、滑稽を通り越して、ある種の荘厳さすら漂わせていた。




