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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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俗世の奔流と虚栄

 或る日の午後、紫影は自らの「研究」のため、都会の深淵、すなわち俗なる欲望の奔流が渦巻く電気街へと赴いた。彼の目的は、例の幼形愛好の業を、あくまで精神的な次元で充足させるための、精緻な「資料」の調達に他ならない。彼の禁欲的な武術僧の如き風貌は、光と虚像の洪水たるこの地に、極めて異質なコントラストを描き出していた。


 彼は、アニメーションの少女たちが描かれた俗悪なポスター群の前に立ち、内面では己の倫理観と欲望とが血を流す如く激しく格闘しながらも、外側では能面のような平静を装っていた。その態度はあたかも、清流に身を置きながらも、口の中には毒の含んだままの修行僧の如し。しかし、心臓は銅鑼どらを打つが如く高鳴り、この俗悪な快楽の海に己の精神が溺れてしまうのではないかという恐怖におののいていた。


 その時であった。


 「これはこれは、紫影殿。このような俗なる場所で遭遇するとは、奇遇に御座る。」


 背後からかけられた声に、紫影の鋼の肉体は一瞬硬直し、その自制心は瓦解寸前に陥った。振り向けば、そこには寺石が立っていた。寺石は、古びたジャンク品のコンピューター部品が並ぶ店の軒下で、その異様な風貌――右翼的な思想を秘めた眼差しと、SFファンの知的好奇心を兼ね備えた、矛盾した存在――を隠そうともしていなかった。


 寺石に、この聖交学園の武術僧が、何故、幼女が描かれたカード類を凝視しているのか、という問いを突きつけられた瞬間、紫影は己の自尊心を守るため、咄嗟に、そして最も愚かなる虚栄の道を選んだ。


 「ああ、寺石か。ここは、戦術研究のため、致し方なく立ち寄った。近頃のサイバー戦における仮想空間の具現化が、我々の武術の概念をどう変えるか、その思想資料を収集していたまでだ。」


 紫影は、己が最もうとい、寺石の専門分野たるSFとコンピューターの概念を混ぜ合わせ、高邁なる目的を捏造した。彼は、この言い訳によって、己の卑俗な欲求を、一気に形而上学的な研究へと昇華させられると信じたのである。


 しかし、紫影の吐いた虚言は、寺石の偏執的な探究心と知識の前では、紙切れの如く無力であった。


 「ほう。サイバー戦における仮想空間の具現化、ですか。それは面白う御座る。どのペーパーを参考に? もしや、最近発表された、量子コンピュータが生成するネオ・シュレディンガー空間の資料ですかな? その概念の根幹は、カントの定言命法を、AIが倫理的判断として下すという部分にありますが、紫影殿の武術の観点から見れば、それは如何いかなる業の具現化と映るでしょうか?」


 寺石の言葉は、専門用語と哲学的な概念とが複雑に絡み合い、紫影の浅薄な言い訳を容赦なく打ち砕いた。紫影は、ネオ・シュレディンガー空間も、カントの定言命法も、何一つ知らぬ。彼の脳裏にあるのは、ただ、目の前の俗悪なカードに描かれた幼い姿と、夜な夜な彼を苦しめる遅漏の業のみである。


 紫影は顔面蒼白となり、ただ「う、うむ……」とうめくことしかできなかった。彼の武術僧の如き平静は完全に剥がれ落ち、自意識という名の虎が、今にも彼の喉笛に噛みつかんとしていた。己の虚栄心が招いた、これほどまでに滑稽で、深刻な自滅があるだろうか。


 彼は最早、この状況から逃れる術を持たなかった。己の口から出た「高邁な研究」という虚言が、逆説的に彼の墓穴となり、彼の肉体と精神を同時に窒息させていく。彼は一礼し、寺石のさらなる追求から逃れるように、一目散にその場を後にする。


 俗世の光と影の中を逃走する彼の背中は、恰も、不毛な砂漠で、重い鉄塊を背負って立ち往生した旅人の如し。紫影は、己の内に巣食う業が、肉体的な不具合(遅漏)に留まらず、社交という最も平易な局面においても、彼を裏切り続けることを、暗澹たる思いで再認識したのである。

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