黄昏の稽古――あるいは殺意の系譜
白井紫影が師事する男は、名を伏すが、関東の某所にひっそりと道場(といっても看板すらない個人の邸宅だが)を構える日本人武術家である。
温厚な風貌を持つこの師匠には、しかし、常人には触れ得ざる精神の断層があった。
それは、師匠のそのまた師匠――すなわち、白井から見て**大師父**にあたる人物の来歴に起因している。
大師父は、大陸の生まれであった。
かつて吹き荒れた文化大革命の「赤き嵐」を逃れ、命からがら日本へ渡り、帰化した人物である。彼は、伝統武術が「旧弊」として破壊され、武人が迫害された時代を生き抜いた、真正のサバイバーであった。
趙道新の晩年の技を受け継いだ彼は、日本という安住の地を得て、表向きは穏やかな余生を送ったとされる。
しかし、師匠は稽古の合間に、ふと、遠い目をして白井に漏らすことがあった。
「……大師父はな、この国の平和に心から感謝しておられた。だが、同時に……時折、恐ろしいことを口になさった。」
師匠は、苦い茶を啜りながら続ける。
「『あの大戦の最中、生死の境を彷徨ったあの時こそが、我が拳の完成に最も近づいた瞬間であった』と。……そして、『平和な日本では、ついに最後の奥義、すなわち人殺しの技を極める機会は訪れまい』と、寂しげに笑われたのだ。」
白井は、その言葉に戦慄した。
平和とは尊いものである。しかし、純粋に「武」の極致を目指す者にとって、殺し合いの場が存在しないことは、ある種の不幸であり、去勢された虎が檻の中で老いるが如き虚しさを伴うものなのか。
白井は、自らの掌を見つめる。
この手は、何のためにある? 少女を守るためか? それとも、使われることのない凶器として、ただ磨かれ続ける運命なのか?
第二章 魔の刻、異形の弟子たち
白井が通う稽古場には、冷暖房完備の快適なジムもなければ、平らな床もない。
稽古は常に、**日没**と共に始まる。
場所は、人目を避けた里山の雑木林、あるいは足場の悪い岩だらけの海岸。
街灯の明かりなど届かぬ漆黒の闇の中で、彼らは五感を極限まで研ぎ澄ますことを強いられる。
「目は使うな。肌で視よ。」
師匠の教えは徹底していた。
木の根が隆起し、あるいは波に濡れた岩場という、最悪の足場。そこで重心を保ち、気配だけで相手の位置を察知する。それはスポーツとしての格闘技ではなく、生存本能を呼び覚ますための儀式であった。
そして、この闇の儀式に集う兄弟弟子たちもまた、白井に劣らぬ曲者揃いであった。
一人は、フランス外国人部隊帰りの元傭兵。
身体中にある無数の傷跡と、硝煙の染み付いたような乾いた殺気を纏う男。彼は、近代兵器の飛び交う戦場で、至近距離における徒手空拳の限界と必要性を痛感し、この古流の門を叩いたという。
もう一人は、極真空手の元全日本王者。
岩石の如き拳と肉体を持ちながら、競技ルールという枠組みと、剛の拳がもたらす肉体への反動に限界を感じ、北派内家拳の「柔」と「化勁」を求めて流れ着いた求道者。
彼らは皆、既存の武術や生き方に絶望し、あるいは限界を感じて、この薄暗い里山へと辿り着いた**「はぐれ者」**たちであった。
高校生の白井は、この猛獣たちの檻の中に、最年少の弟子として放り込まれていたのである。
第三章 真剣の煌めき
ある新月の夜。
師匠は、いつになく張り詰めた空気を漂わせ、一本の刀を手にしていた。
模造刀ではない。闇の中でも妖しい光を放つ、真剣である。
「今日は、胆を練る。」
師匠は短く告げると、鞘を払った。
「逃げよ。追いつかれたら、斬る。」
冗談ではなかった。
師匠の歩法は、音もなく、影のように弟子たちの背後へと迫る。
白井は、心臓が破裂しそうな恐怖の中で、必死に気配を探った。
背後の闇が揺らぐ。殺気が肌を刺す。
(――来るッ!)
思考よりも早く、身体が反応する。泥にまみれ、木の根を飛び越え、転がるように身を躱す。
一瞬遅れて、先ほどまで自分の首があった空間を、ヒュッという風切り音が通過する。
「遅い。」
闇の中から師匠の声が響く。
元傭兵も、元空手王者も、この時ばかりはプライドを捨て、獣のように森を逃げ惑う。
この異常な稽古こそが、彼らの「感知能力」と「生存本能」を、常人の及ばぬ領域へと引き上げていた。
夜明け前。
泥と汗にまみれ、生き延びた安堵感と共に座り込む白井の横顔を、朝の光が照らす。
彼は、この修羅の時間を経て、翌朝には何食わぬ顔で聖交学園へと登校し、寺石たちとアニメ談義に花を咲かせるのだ。
殺意と萌え。
死の恐怖と、二次元の安らぎ。
この極端な振幅こそが、白井紫影という怪物を育てる揺り籠であったのかもしれない。
然るに、ここに一つの戦慄すべき謎が残る。
かくも鋭敏な感覚と、死線を見極める眼力を養ったはずの白井の背後を、あの教室において音もなく、完全に取ってみせた寺石とは、一体何者なのか?
その問いへの答えは、未だ闇の中である。




