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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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未完の拳――あるいは趙道新の末裔としての孤独

 白井紫影が日夜研鑽けんさんを積む武術は、現代のちまたに溢れる、厚手のグローブと厳格なルールによって牙を抜かれ、去勢されたスポーツのごとき格闘技とは、その本質において断絶的な隔たりを持つ。それは、観客を熱狂させるためのショーでもなければ、健康維持のための体操でもない。ただひたすらに、人体という有機構造物を、最も効率的に破壊し、その機能を停止せしめることのみを目的とした、純粋な暴力の体系である。


 それは、中国北派内家拳の深奥しんおうに位置する一派であり、その源流をさかのぼれば、かつて二十世紀初頭、激動の中国武術界において「拳闘の魔王」と恐れられ、数多の武勇伝と共にその名をとどろかせた伝説の武人、**趙道新ちょうどうしん**に行き着く。

 趙道新。彼は意拳の創始者・王薌齋おうこうさいの高弟でありながら、師の教えすらも批判的に継承し、伝統的な武術が陥りがちな神秘主義や形式主義、いわゆる「花拳繍腿かけんしゅうたい」を徹底的に排撃した。彼は科学的合理性と実戦における有効性のみを追求した、武術界の孤独な革命児であった。

 彼は、古来より伝わる伝統のかた套路とうろに囚われることを良しとせず、西洋のボクシングのフットワークや、レスリングの組技の技術さえも貪欲に取り入れ、徒手空拳としゅくうけんにおける殺傷能力を極限まで高めた「心会掌しんかいしょう」を創始した男である。その拳は、見る者を魅了する舞踏のような華麗さを持たず、一見すれば武骨で不格好ですらある。しかし、その内実には、てこの原理、遠心力、重力の作用といった物理法則が精緻に組み込まれており、触れれば即ち骨を砕き、臓腑ぞうふを震わせる、冷徹なる科学の結晶であった。


 白井は、数奇な運命の糸に導かれ、現代日本においてその趙道新の曾孫弟子にあたる。

 彼の師は、白井という少年の内に秘められた、対象への異常なまでの集中力と、純粋な没入を見抜いていた。それが、たとえ二次元の幼女へ向く歪んだ情熱であったとしても、そのエネルギーの総量は、武術の深淵に至るために必要な資質と等価であると看破したのである。故に師は、本来ならば一子相伝とされ、門外不出の掟に守られた極意のいくつかを、特例として彼に授けた。

 雑巾を絞るが如く筋肉と骨格を連動させ、爆発的な威力を生み出す螺旋らせんけい。大地を蹴り、瞬きする間に間合いをゼロにする震脚しんきゃくの踏み込み。そして、相手の力学的な死角を突き、指一本触れただけで巨漢をも宙に舞わせる、精妙にして不可解なる崩しの技術。白井の肉体は、それらを貪るように吸収し、若くして達人の域に片足を踏み入れていた。


 しかし、白井は知っていた。否、知りすぎていた。

 自分が如何に技を磨き、師を凌駕する実力を身につけようとも、決してこの流派の正統なる継承者、すなわち**「皆伝」**には至らぬことを。

 宗家という血脈の壁。それは、努力や才能、情熱の多寡たかでは越えられぬ、冷厳にして絶対的な封建の掟であった。技は盗めても、血は盗めぬ。彼は、最強の技を持ちながら、永遠に「客分」あるいは「師範代」止まりの運命を、生まれながらに背負わされているのだ。


 茜色に染まる放課後の屋上で、白井は一人、孤独にかたを練る。

 大気を抱き、見えざる球体を愛撫するように円を描くその動きは、無駄が削ぎ落とされ、美しく、そしてどこか哀しい。

 「……未完こそが、我が友か。」

 彼は自嘲気味に呟き、残心ざんしんをとる。

 武術においても、愛においても、彼は常に「あと一歩」のところで、核心に触れることを許されない。あるいは、自ら触れることを禁じている。

 イエス・ロリータ、ノー・タッチ。愛するが故に触れず、守護するが故に侵さず。

 宗家ならざるが故の、寸止めの拳。極めたとて名乗れず、最強なれど無冠。


 だが、白井は思う。

 完全なる円環、欠けることなき満月よりも、未だ満ちざる弓張り月、あるいは欠けたる月の方が、人の心を打ち、幽玄なる美を宿すことがあるのではないか。

 永遠に届かぬからこそ、その憧憬どうけいは風化することなく、水晶の如く硬度を増していくのではないか。不完全であることの完全性。

 趙道新が求めた合理の極致、その末端に連なる白井の拳は、今日もまた、誰にも触れることなくくうを切る。

 その鋭利な拳圧は、見えざる敵を打ち砕くと同時に、彼自身の抱える救い難いカルマをも、悲しく、そして優しく撫でているようであった。

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