布教者の孤独と聖名の呪縛――あるいは『To Heart』への歪んだ献身
第一章 覚醒した宣教師
修学旅行からの帰還は、白井紫影にとって単なる日常への回帰ではなかった。
太平洋上で、愛するメイドロボット「マルチ」の名を絶叫したあの夜、彼の中で何かが決定的に弾けたのである。それは、羞恥心という名の殻が砕け散る音であり、同時に、狂信的な**宣教師**が誕生した産声でもあった。
彼は悟ったのだ。
己が信ずる「萌え」という福音を、独り占めにしておくことは罪である、と。
特に、彼が魂を捧げる聖典、PCゲーム**『To Heart』**。この感動を知らずして、青春を語ることなど許されない。
白井は、武術の稽古着を脱ぎ捨て、布教という名の新たな戦場へと身を投じた。
「聴け、友よ。この円盤には、宇宙の真理が刻まれている。」
彼は部室において、あるいは教室の片隅において、熱弁を振るった。
しかし、当時のPCゲームは高校生にとって決して安価なものではない。ましてや、18禁ゲームの類を、厳格なるカトリック系の学園で購入するなど、経済的にも倫理的にもハードルが高すぎた。
そこで白井は、常軌を逸した行動に出た。
彼は自らの生活費を極限まで切り詰め、あるいは秘蔵の古書を売り払い、自腹で『To Heart』のソフトを複数購入し、それを「啓蒙活動」と称して、周囲の友人に無償で配り歩き始めたのである。
「金など要らぬ。ただ、プレイせよ。そして涙せよ。」
それは、聖人が貧者にパンを施すが如き、無償の愛に見えた。
だが、世にタダより高いものはない。
白井の施しには、たった一つ、しかし絶対に譲れぬ、悪魔的な条件が付されていたのである。
第二章 聖名の呪縛
ある日の放課後。部室にて、白井は寺石にパッケージを押し付けていた。
「寺石よ。貴様ほどの知性を持つ男が、マルチの健気さを知らぬとは、人生の損失にも程がある。これを持っていけ。」
「……ほう。貴様がそこまで言うなら、やってみても良いが。」
寺石は、タダでゲームが手に入るとあって、まんざらでもない表情で手を出した。
しかし、白井はその手を強く掴み、鬼気迫る形相で言った。
「ただし! 条件がある。」
「条件?」
「主人公の名前だ。ゲーム開始時に入力する主人公名は、必ず**『白井紫影』**とすること。これだけは厳守せよ。」
寺石は眉をひそめた。
「は? 何を言っている? 主人公はプレイヤーの分身だぞ。何故、私が貴様になりきって恋愛せねばならんのだ。没入感が削がれるではないか。」
「黙れッ!!」
白井の怒号が響いた。
「没入感など知ったことか! 良いか、寺石。もし貴様が『寺石』の名でプレイしたとしよう。画面の中のマルチは、あろうことか『寺石さん』と呼び、貴様に微笑みかけることになる。……それは不倫だッ!」
「はあ?」
白井の瞳は、嫉妬と独占欲でどす黒く濁っていた。
「マルチは、私の心の恋人だ。例えデータ上のことであれ、彼女が他の男の名を呼び、他の男に奉仕するなど、私の精神が耐えられん! それはNTR(寝取られ)だ! 断じて許されざる背信行為だ!」
「……貴様、面倒くさいにも程があるぞ。」
白井の論理は破綻していた。
友人にゲームを勧めておきながら、その友人がヒロインと仲良くなることには耐えられない。故に、友人のプレイ画面の中でも、ヒロインはあくまで「白井紫影」を愛していなければならないという、歪極まる独占欲であった。
第三章 拒絶される福音
この理不尽な条件は、当然ながら「ちんちくりんの七変」の面々に拒絶された。
鷹は言った。
「嫌だよ。なんで俺が、画面の中でまで白井と呼ばれなきゃならないんだ。俺は『鷹』としてあかりちゃんと登校したいんだ。」
マスターKも首を振った。
「精霊が言っている。……『他人の名を騙る時、魂は迷子になる』と。」
結果として、白井が身銭を切って購入したソフトの山は、誰の手にも渡ることなく、部室のロッカーに積み上げられることとなった。
「何故だ……。何故、皆、この条件が飲めぬのだ……。」
白井は、積み上がった在庫の山を前に、苦悩に頭を抱えた。
彼の布教活動は、その過剰な愛ゆえに、完全なる逆効果を生んでいたのである。彼が熱弁を振るえば振るうほど、友人たちは「To Heart」という作品に、「白井の呪いがかかった禁忌の書」というイメージを抱き、遠ざかっていくのであった。
第四章 忍び寄る影
だが、事態は単なる「布教の失敗」では済まされなかった。
白井の背後には、彼自身も気づかぬ、より深刻な問題が進行していたのである。
一つは、財政の破綻である。
布教用ソフトの大量購入に加え、関連グッズの蒐集、同人誌の乱れ買い。
高校生の小遣いなど、とうの昔に底をついていた。彼は、昼食を抜き、参考書代を横領し、それでも足りずに、禁断の領域――すなわち、怪しげな**「高額アルバイト」**の求人広告に、目を向け始めていたのである。
そしてもう一つは、彼の中に棲む**「内なる少女」**の暴走であった。
現実世界での布教が失敗続きである反動か、深夜のチャットルームに出没する、彼の人格(女子中学生きらら)は、日に日にその活動時間を延ばしていた。
「彼女」は、ネットの海で、現実の白井が成し得なかった「完璧なコミュニケーション」と「承認」を貪り始めていた。
白井紫影の精神は、現実の困窮と、電脳の快楽の間で引き裂かれ、徐々に、しかし確実に、破滅へのカウントダウンを刻み始めていた。
部室のロッカーに眠る『To Heart』のパッケージの山は、その崩壊の序曲を奏でる墓標の如く、静かに彼を見下ろしていた。




