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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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西征紀行 最終章:鉄の鯨と海上の迷宮

第十一章 岸壁の別離


 永きに渡ると思われた九州巡礼の旅も、瞬く間に終焉しゅうえんの時を迎えた。

 一行を乗せたバスは、宮崎の港へ到着し、そこには彼らを大阪へと運ぶ巨大なフェリー――鉄の巨鯨が、口を開けて待ち構えていた。


 乗船の時。

 岸壁には、小倉の駅から一週間、彼らの珍道中に付き合い、その蒙昧もうまいなる若気の至りを笑顔で受け流してくれたバスガイドと運転手が立っていた。

 たかが一週間の雇用関係である。彼らはプロとして業務を遂行したに過ぎない。

 しかし、旅という非日常の空間を共有した記憶は、人と人との間に、説明し難い情愛の如きものを醸成する。


 「さようならー! 勉強頑張ってねー!」


 ガイドが手を振る。その姿は、夕闇の中ではかなく、そして美しく見えた。

 白井紫影たち「七変」の面々もまた、甲板の手すりに寄りかかり、無言で手を振り返した。

 普段、「三次元の女になど興味はない」と豪語する彼らであったが、この瞬間ばかりは、胸の奥に去来する一抹の寂しさを否定することができなかった。

 船が岸を離れ、二つの人影が豆粒のように小さくなるまで、彼らはその場を動こうとはしなかった。

 それは、彼らがこの旅で捨て去ろうとしている「少年時代」への、無意識の惜別であったのかもしれない。


第十二章 蚕棚の哲学者


 フェリーの二等船室は、蚕棚かいこだなにも似た二段ベッドが整然と並ぶ、機能一点張りの空間であった。

 消灯ラッパが鳴り、船内の照明が落とされると、聞こえるのはエンジンの重低音と、波を切り裂く水音のみとなる。

 生徒たちは旅の疲労から泥のように眠りに落ちていたが、白井紫影だけは、狭いベッドの上で、眼をカッと見開いたまま、思索の迷宮を彷徨さまよっていた。


 彼の脳裏では、この数日間の出来事が走馬灯の如く回転していた。

 長崎でのアニメ視聴。知覧での寺石の演説。内之浦での涙。

 特に、知覧において寺石が放った**「国を守る気概と、ロリコンであることは等価である」**というテーゼが、白井の精神を激しく撹拌かくはんしていた。


 (……武術とは抑止力。ならば、私の幼形愛好もまた、汚されざる美を守るための抑止力なのか? 私が少女に触れないのは、禁欲ではなく、守護なのか?)


 論理は飛躍し、螺旋を描き、やがて出口のない袋小路へと迷い込む。

 (そもそも、私は何者だ? 武人か? 変質者か? それとも憂国の士か?)

 思考がグルグルと回転し、脳漿のうしょうが沸騰しそうになったその時である。


 「……悩んでいるのか?」


 暗闇の中から、低い声が響いた。

 白井がハッとして下のベッドを覗き込むと、そこには寺石が、軍用毛布にくるまりながら、眼鏡を怪しく光らせてこちらを見上げていた。


 「……寺石か。起きていたのか。」


 「エンジンの振動数が、私の体内時計と共鳴して眠れぬのだ。」

 寺石はそううそぶくと、身を起こして白井に語りかけた。


 「白井よ。貴様の悩みは手に取るように分かる。己の内に巣食う『高潔さ』と『卑俗さ』の矛盾に、折り合いがつかぬのであろう。」


 図星であった。白井は無言で頷く。


 「だがな、白井。矛盾こそが人間だ。光があれば影がある。高潔な魂ほど、深い業の闇を抱えるものだ。月を見よ。」


 寺石は舷窓げんそうの向こう、海上を照らす月を指差した。


 「あの月も、地球に対しては常に美しき表の顔しか見せぬ。だが、裏側には無数のクレーターという傷跡を隠し持っている。……我々も同じだ。表の顔で武道を極め、学問を修めよ。そして、裏の顔で思う存分、美少女を愛でれば良い。」


 寺石の言葉は、波音に乗って白井の心に染み渡った。

 「矛盾を統合しようとするな。矛盾を抱えたまま、その振幅の中で生きろ。それが、**『カルマ』**という名のエネルギーだ。」


 白井は、深い息を吐き出した。

 肩の力が抜け、憑き物が落ちたような感覚があった。

 「……貴様は、時折、本物の賢者のようなことを言うな。」


第十三章 洋上の絶叫


 白井の感嘆に対し、寺石はフンと鼻を鳴らしただけであったが、突然、思いついたように眼鏡の位置を直した。


 「……そういう時にはな。」


 「ん?」


 「来い。」


 言うが早いか、寺石は白井の腕を掴み、有無を言わさずベッドから引きずり出した。

 「お、おい、何をする! 消灯時間は過ぎているぞ!」

 「構わぬ。思考の迷宮に囚われた貴様を救い出すには、荒療治が必要だ。」


 寺石は、軍用マントを翻し、白井を連行するように廊下を進み、鉄の階段を駆け上がった。

 重い扉を押し開けると、そこは最上甲板であった。

 漆黒の海原から吹き付ける強風が、二人の頬を打ち据える。頭上には満天の星空が広がり、足元では黒い波濤はとうが飛沫を上げていた。


 「……寒いぞ、寺石。こんなところで何を……」


 寺石は手すりに足をかけ、風に向かって仁王立ちになった。

 「白井よ。都会の喧騒けんそうの中では出来ぬが、この大海原の上でなら許されることがある。……大声を出すのだ。」


 「大声?」


 「しかり。カラオケボックスという密室であっても、隣室に声が漏れる恐怖からは逃れられぬ。壁に耳あり障子に目あり。我々の愛を叫ぶには、地上はあまりにも狭苦しい。」

 寺石は両手を広げ、暗黒の水平線を指し示した。

 「だが、ここはどうだ。四方千里、人影なし。聞こえるのは波の音のみ。我が魂の絶叫は、誰の耳に触れることもなく、太平洋の彼方へと吸い込まれていく。」


 「さあ、叫ぶぞ!!」


 寺石は、大きく息を吸い込んだ。その胸郭が極限まで膨らむ。

 そして、白井が止める間もなく、彼は雷鳴の如き大音声だいおんじょうを発した。


 「クラリスーーーーッ!!」


 その声は、カリオストロの城に幽閉された姫君への、断ち切れぬ慕情の叫びであった。

 続いて、第二波が放たれる。


 「ミンキーモモーーーッ!!」


 魔法の国のプリンセスへの、純粋なる思慕。

 普段の冷徹な知性派・寺石からは想像もつかぬ、なりふり構わぬ絶叫であった。

 叫び終えた寺石は、肩で息をしながら振り返り、ニヤリと笑った。

 「どうだ。……ほら、お前も声に出してみろ。腹の底に溜まったおりを、全て吐き出すのだ。」


 白井は、しばらくの間、氷像の如く凍りついていた。

 友の奇行への困惑か、あるいは羞恥心か。

 しかし、強風に煽られながら、彼は次第に奇妙な高揚感を覚え始めていた。

 誰もいない海。何を叫んでも許される空間。

 脳裏に浮かぶのは、彼が密かに信仰する、あの人工の乙女の姿。


 しばしの沈黙の後。

 白井は、再起動した機械の如く、おもむろに海に向かって姿勢を正した。

 丹田に力を込め、武術の呼吸法で息を練り上げる。

 そして、意を決して放った。


 「マルチーーーーッ!!」


 それは、『To Heart』に登場する量産型メイドロボット、HMX-12への、魂からの呼びかけであった。

 人間ではない、しかし人間以上に清らかな心を持つ彼女への愛。


 声を出した瞬間、白井の中で何かが弾けた。

 それは、彼を縛り付けていた「硬派」という名の殻が砕ける音であったかもしれない。

 彼は続けて叫んだ。


 「あかりー! 志保ー! ……うおおおおおッ!!」


 二人の男の絶叫は、夜の海風に乗り、泡となって消えていく。

 彼らは叫び疲れると、甲板に大の字になって転がり、星を見上げて高らかに笑い合った。

 その笑い声は、どこまでも虚しく、そしてどこまでも清々(すがすが)しかった。


 船は黒い海を往く。

 大阪の港に明かりが見え始める頃、彼らは一回り皮の剥けた「成虫」となって、再び日常という名の戦場へ降り立つのであろう。

修学旅行編はこれにて終了します。

修学旅行編はノンフィクション率がかなり高め

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