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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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西征紀行 その三:知覧の霊と国体の本義

第六章 特攻の地における問答


 薩摩半島南端、知覧。

 かつて本土最南端の特攻基地が存在したこの地は、聖交学園の修学旅行において、最も重苦しく、かつ粛然しゅくぜんとした空気が支配する場所であった。

 特攻平和会館。

 展示された若き英霊たちの遺書、そして引き上げられた零式艦上戦闘機の残骸を前に、生徒たちは言葉を失い、ただ静寂のみが支配していた。


 その静寂を破ったのは、軍用マント(修学旅行中も彼はこれを着込んでいた)を羽織った寺石の、低く、腹の底から響くような呟きであった。


 「……やはり、いくさは勝たねばならぬな。」


 その言葉は、単なる好戦的な主張ではなく、敗北の悲哀を骨髄で理解した者のみが吐き出し得る、血の滲むような感慨であった。

 しかし、隣にいた白井紫影は、その言葉に微かな拒絶反応を示した。

 白井が聖交学園に編入する以前、彼が過ごした公立小中学校は、日教組的なイデオロギーが支配する空間であった。そこでは「平和憲法」こそが至高の経典であり、自衛隊や旧軍は忌むべき存在として断罪されていた。白井自身、その教育に反発しつつも、深層意識においては「自虐史観」という名の呪縛から逃れきれていなかったのである。


 「寺石よ、それは違う。」白井は反射的に反論した。「戦争は悪だ。力による解決など、野蛮な時代への回帰に過ぎぬ。我が国は過ちを犯したのだから、二度と剣を取ってはならぬのだ。」


 寺石は、眼鏡の奥の双眸そうぼうを白井に向けた。そこには軽蔑ではなく、蒙昧もうまいな友を憐れむ慈悲の色があった。


 「……白井よ。貴様は『武』という文字の成り立ちを知っているか。」


 「武?」


 「『ほこ』を『止』めると書く。即ち、武の真髄は破壊に非ず、暴力を未然に防ぐ抑止力にこそあるのだ。」


 寺石は、展示された錆びついた機体を指差した。


 「確かに、実際に戦闘に至るのは下策だ。しかし、力無き正義は無力である。理不尽な暴力を前にした時、対抗し得る牙を持たぬ者は、ただ蹂躙じゅうりんされるのみだ。……問おう、白井よ。貴様は何故、武術を志す?」


 「それは……己を鍛えるため……」


 「綺麗事だな。違うはずだ。もし、ヤクザや狂人が突然家に押し入り、貴様の家族を害し、凌辱しようとした時、貴様は『暴力反対』と唱えて彼らを差し出すのか? 黙って好きにさせるのか?」


 「断じて否!」白井は即答した。「私は戦う。命に代えても守る。」


 「しかり。それが**『抗う』**ということだ。」

 寺石の声に熱が帯びる。

 「国家とて同じこと。隣国が理不尽なヤクザであれば、戸締りをし、木刀を構えねばならぬ。そして、体内に病巣があればどうする? ガン細胞も自分の細胞だから生きる権利があると言って保護するか? 否、抗がん剤で対抗し、外科手術で切除するだろう?」


 白井は息を呑んだ。

 「隣国がヤクザであり、国内をむしバむ赤き思想こそがガン細胞だ! 自らの眼でしっかと見よ! 現行の平和憲法などという麻酔に浸っている間に、身体は腐り落ちようとしているのだ!」


第七章 価値観の崩壊と再構築


 寺石の言葉は、白井の脳髄を激しく揺さぶった。

 彼がこれまで信じて疑わなかった「戦後民主主義」という地盤が、音を立てて崩れ去っていく。

 

 「そもそも、民主主義とは衆愚政治の別名に過ぎぬ。」

 寺石は極論へとひた走る。「賢帝による善政こそが理想。現行憲法を廃棄し、大日本帝国憲法を復活させ、国体の本義を正すことこそが急務なのだ!」


 その主張には危うさがあった。しかし、そこには一本の鋼鉄のような芯が通っていた。

 白井は、唸った。

 己がこれまで受けてきた教育は、牙を抜かれた家畜を育てるためのものであったのではないか。

 彼の足元が揺らぎ、目眩めまいに似た感覚が襲う。それは、コペルニクス的転回にも似た、痛みを伴う覚醒の瞬間であった。


 白井が呆然と立ち尽くす中、寺石は彼の肩を強く掴んだ。


 「白井よ、誇りを持て。」


 「誇り……」


 「我らの思想信条、主義主張は、それが純粋な魂から発したものであれば、誰に恥じることもない。誰に後ろ指を指されようとも、堂々と胸を張れば良いのだ。」


 白井の瞳に、新たな光が宿り始めた。

 そうだ。自分は間違っていなかった。己の信ずる道を、貫けば良いのだ。


 寺石は、白井の覚醒を確信し、満足げに頷くと、最後にこう付け加えた。


 「故に、白井よ。ロリコンであることも恥じることはない。堂々と曝け出せ!」


 「……は?」


 白井の思考が停止した。

 今、なんと?

 国体の護持と、帝国憲法の復活と、幼女への偏愛を、この男は同列に語ったのか?


 「待て、寺石。それは……論理の飛躍が過ぎるのではないか?」


 「何が違う? 純粋な精神の発露という意味において、憂国も幼形愛好も等価である。どちらも、失われゆく美しきものへの、切実な祈りではないか。」


 「いや、しかし……それは……」


 白井は躊躇ちゅうちょした。

 英霊たちの前で「国を守る」と誓うことには同意できても、「私はロリコンです」と堂々と曝け出すことには、流石の彼も、人間としての、いや生物としての根本的なブレーキがかかったのである。


 知覧の空はあくまで青く、彼らの頭上には、平和の象徴たる白雲が、のんきに浮かんでいた。

 白井紫影の精神の旅路は、右翼思想への傾倒と、性癖の正当化という危険な交差点で、大いなる迷走を始めようとしていた。

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