グレン・ヴァンプ4
4.
並んで座る青い2人は、まるでシンクロして動く玩具のように。ガクッと同時に頭を垂れてはゆっくりと起き上がり、同じ角度で掴んだ食材を口に運んで、あむっと食んで咀嚼する。紙袋に収まった焼き芋は、黄金の切り口から甘い果肉を零れさせ、皿の上に留まらず、テーブルの上にもポロポロと散らばった。
あっ、と声を上げてアスカが手を伸ばそうするとする間に、それよりも早く反応して動くハスミが2人が零した食べカスを手早く掃除し、ササッと即座に口の周りも拭っていく。
シドウとリクは揃って低い唸り声を上げ、アスカとハスミが施設の外で買ってきた焼き芋を無言で頬張っていた。アスカ達が帰宅した時点でシドウ達はまだ起きてきておらず、ホカホカの焼き芋を持ってハスミが彼らの部屋の前に立つと、ようやく起きたらしい2人がドアを開けて出てきた。そのまま馬の鼻先ににんじんをぶら下げるがごとく、2人の方へと甘い香りのする湯気を煽ぎながら誘導して、無事調理場兼食堂までたどり着いたのが数十分前。
早めに帰宅したヒイラギも食堂に顔を出し、ハスミがせっせと2人の世話を焼く様をアスカと並んで眺めている。
機械のようにひたすら果肉を押し込み続ける2人の動作に、アスカは水がいるのではと周囲を見回し食器棚に目をつける。立ち上がって取りに行こうとするも、視界の先にハスミの白衣の背中が映って、冷蔵庫から取り出した作り置きのお茶を注いだ。
「ん、むぅ……」
アスカはグッと息を詰めて、浮かしかけた腰を再び椅子に落ち着ける。テーブルの縁を掴んで歯噛みするアスカを横目で見ていたヒイラギは、聞えよがしの声を上げた。
「おーい、おっさん。アスカっちが寂しそうにしてんだろ。そっちのアラサーコンビはほっといて自分の番構ってやれって」
シドウと陸の前にお茶を満たしたグラスを置いて、ハスミは淡い色の赤眼をジッとアスカに向ける。アスカはビクッと肩を跳ね上げ、気まずそうに視線をさ迷わせた。ハスミは唇を歪めて数秒逡巡する仕草を見せた後、フゥと息を吐き唇の隙間を開く。
緊張した面持ちで視線を向けるアスカと目を合わせたハスミは、微かに表情を緩めてアスカを手招いた。
「手伝え、アスカ」
「はい!」
元気よく返事をしたアスカは、尻尾を振る犬のごとく揚々として立ち上がる。跳ねるような足取りでハスミの隣に着き、キラキラした眼差しを向けた。
「懐いてんなあ、アスカっち」
「そ? 命令に忠実なだけじゃない?」
フワッと甘い果実に似た香りを漂わせて現れたツバキは、先ほどまでアスカが座っていた椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。学校帰りの制服姿のまま、肩を大きくはだける形で腕に引っ掛けたオーバーサイズのカーディガンを羽織り、片手に持ったスマートフォンを熱心に弄りながら、辛辣な意見を吐く。
ヒイラギはツンと唇を尖らせたツバキの横顔を観察して感情を探り、小さく息を呑んでソッとツバキに身を寄せる。
「姉ちゃん、なんか機嫌悪くね?」
「別にぃ。なんで?」
「俺がしたことまだ怒ってんの?」
「それは昼間散々話したでしょ」
「まあ、そうだけど……」
「もうしないならいいって」
「あ、そう……じゃあ、おっさんたちに妙に突っかかるのはなんで?」
ツバキはスマートフォンを弄る手を止めて、切り揃えた前髪越しにキッチンに並んで立つアスカとハスミの後ろ姿をジッと見据えた。苛立ちは明らかに2人を指していたれど、ツバキはハァと溜息をついて、再びスマートフォンに目を落とす。
「だってなんか、おかしくない?」
「おかしいって、なにが?」
「だってさ、番って出会った瞬間分かるっていうけど、逆に言えば出会わなきゃわからないってことじゃない?」
「あー……だろうな。俺らは生まれた時から一緒だったから、感覚よく分かってなかったけど」
「それでも、小さい頃からお父さんお母さんたちよりお互いが大切って気持ちはあったでしょ? あれってちゃんと、ヒイラギのこと番だって認識してたってことだと思うんだよね」
「うん。なんとなく、わかる。でもそのためにおっさんも、前線に立ってたわけだろ?」
「そう。完全に運任せって感じだったのに、出会った時は意外とあっさりでさ、ハスミンは予見してる風な感じすらあったじゃん」
「ああ、まあ、確かに。でもそれもあんだけ何度も前線に立って、なんかしらのデータ照合とか分析とかした成果ってことなんじゃねーの?」
「ヒイラギは本当にそう思う?」
ツバキは大きく上体を傾け、テーブルの上にオレンジの長い髪を垂らす。ジィと上目遣いに据えられるカーネリアン。強い色を宿した瞳に気圧されたヒイラギは、グゥと低く喉を鳴らして唇を歪めた。ツバキは短く息を吐いて、テーブルの上にブラックネイルの指先を広げる。艶めく表面にカーネリアンを映して、ツバキは独り言のように淡々と零した。
「純血なんて多分、もうほとんど途絶えてる。今こっちで暴れてる《赤》は、種から生まれた紛い物ばっかでしょ? みーんな化け物みたいな見た目して、人間と番うことのできる純血の吸血鬼なんて多分もういない。シドりんが前に言ってた通り、純血の子供が産まれたのは200年前が最後だったとして、その200年前生まれの子供が成人する時を待ってた、ってことない?」
ヒイラギはツバキの瞳に本気を探る。揺るがない色に思わず乾いた笑いを零して、フルッと頭を横に振った。
「いや、それは……おっさんだって、いくらおっさんだっつっても、そんな長生きできねえだろ」
「さすがに200歳だとは言わないけどさあ、たぶん、ハスミンって私らが出会ってから見てきた見た目よりも、もっとおっさんだと思うんだよねー」
「はあ……?」
本気の色を揺らし続けるツバキの視線を受けて、ヒイラギは戸惑いのままにただ苦笑いを浮かべる。ツバキはしばらくヒイラギに視線を据えた後、唐突にグゥと伸びをして頭を垂れた。片側が浮いた椅子の脚が不安定に揺れて、ヒイラギはツバキの背中を支えるべく咄嗟に手を伸ばしかける。
「まあ、いずれにせよだけど。私別におっさんたちのことなんか興味ないんだけどねー」
「え?」
頭を垂れたままそう言うツバキの顔を覗き込むべく、ヒイラギは後ろに反らした体勢を再び前傾させた。顔の距離を詰めたタイミングでツバキが不意に頭を上げたので、近すぎる距離にヒイラギはカーネリアンの瞳を零れそうに見開く。
「だって、私たちが最強だもんね」
「……うん。俺が、姉ちゃんを最強にする」
「ふふっ、ありがとうね」
目の前で艶然と微笑まれ、ヒイラギは妙な胸の高鳴りを覚えた。ツバキは満足気に微笑むと、手にしていたスマートフォンの画面をヒイラギの鼻先に突きつける。
「それよりもねえ、ヒイラギ! バニアの新作ちょー可愛んだけど!? 見た!?」
急なテンションの変化に、真っ赤になった顔を反射で逸らしたヒイラギは、爆音で鳴る心臓をベストの上から押さえつけて肩を上下させて息をした。
「んなっ、なんだよいきなり……っ! ってか俺、ブランドものとか全然分かんないって」
「もお、逃げないでよ。ほら、ねえコレコレ!」
じゃれるようにヒイラギの背中に圧し掛かったツバキは、彼の肩に肘を置き、両手で囲って半ば強制的にスマートフォンの画面を示す。
ヒイラギはギュウと閉じた目をソロリ開いて、目の前に突き出された画面に焦点を合わせた。そこに映っていたふわふわの毛並みをした小さな生き物に、ヒイラギは一瞬で真顔になる。
「……シルをつけろよ、シルを。んだよバニアって」
「ねえ、可愛いでしょ!? 明日これ買いに行こうよぉ」
いつものテンションではしゃぐツバキの声に、ヒイラギは緊張を緩めて柔らかく笑った。
(姉ちゃんは、いつもの姉ちゃんだ)
(俺らの劣等感はもう、とっくの昔に克服しただろ)
胸中でそう呟いたヒイラギは、胸の前に触れるカーディガンの袖をポンポンと叩いて、ゆったした生地に短髪の頭をソッと寄せる。
「ん。はいはい」
じゃれあう双子の一方で、そろそろ焼き芋一本を食べ終えようとするシドウは、小さくなった端をぶら下げ透明なレンズ越しに青眼を細めた。
「……やっぱり、焼き芋だけって横暴が過ぎる」
「そう言うと思って、簡単なもん作ってやったぞ」
「エビとイカのトマトクリームパスタ、です!」
ハスミと揃いの臙脂色のエプロンをつけたアスカが、ミトンを嵌めて倍の大きさになった両手で運んで来たカフェボウルを2人の前に置いた。淡いオレンジ色のソースが絡むパスタに、プリッとゆで上がったエビとイカが添えられている。照明を受けてキラキラ光る表面に、シドウとリクはまた挙動をリンクさせて同時に唾を呑んだ。
「オラ、食えや」
ハスミが薄ら笑いを浮かべながら促すと、2人は揃って「いただきます」と頭を下げる。アスカは2人の手元にある焼き芋の皮と皿を引き上げてから、ハスミの隣に戻った。
「アスカもなかなか手際いいわ。覚えんの早いし」
アスカの手から引き揚げてきたものを受け取りつつ、ハスミが向けた誉め言葉にアスカは素直に頬を染めて照れる。ハスミとアスカの様子に目を細めたシドウは、ちゅるんとパスタを吸い上げ頬を膨らませながら、空中でフォークの先を揺らした。
「じゃあ仕込んで弟子にしなよ。僕、ヒイラギの料理あんまり得意じゃないから」
「はあ? 贅沢言うなっつの」
テーブルを挟んだ向こう側からヒイラギが抗議の声を上げる。あまり食い下がらないのは、隣に座るツバキも同意するようにウンウンと頷いているせい。
「時代が許すんならさっさと嫁もらえって言うんだけどな。嫁になる相手もいないだろうし」
ひとり時代錯誤をぼやくハスミに、全員の怪訝な目が向いた。あからさまな溜息を吐いて場の空気を解いたシドウは、隣に座るリクへと目を向けつつ反論する。
「リクが嫉妬するでしょ。ハスミも、ちゃんとアスカのこと見ててやらないと拗れるからね」
「……お前も?」
「んぇえっ!? オレはそんなこと……うっ、ある、かも……すみません……」
「なるほど……?」
ハスミはジッとアスカを見据えて、白髪に掌を乗せちょっと待ってろと言い置いて調理場の奥へと引っ込んだ。唐突なハスミの行動に原因が動向を見守る中、ハスミは何食わぬ顔で平皿に持ったパスタを手に戻ってくる。
「食いたそうにしてただろ?」
「ぅえっ、あ……ありがとう、ございます」
アスカは執拗に瞬きを繰り返して、皿とハスミの顔を交互に見た後、皿を両手で受け取り深々と頭を下げた。
(そうじゃねー……)
口調は異なれども、同様のツッコミがハスミ以外の全員の頭に過る。アスカは若干猫背になりつつ皿を持って移動し、シドウ達に背中を向ける形でヒイラギたちのテーブルに座った。
「つか、シドウもリクのこともっと器用に作ったらよかっただろうが」
両手を合わせて胸中で「いただきます」と唱える前に、背後から聞こえたハスミの発言にアスカはピタッと動きを止める。
「作る、とか倫理的にアウトなこと言うんじゃないよ」
「へえ、お前本当に変わったな」
素っ気なく返すシドウと、揶揄う口調のハスミ。その場にいる全員が自分と同じ違和感を抱いていないことに焦ったアスカは、立ち上がって声を上げた。
「あの……作るって、なんですか? リクは普通の吸血鬼と違うんですか?」
シン、と一瞬静まり返る空気。ハスミは迂闊を思い、戸惑う目を向けるアスカから視線を逸らす。ハスミの態度を目にしたシドウは、フゥと短く息をついて、手にしていたフォークをカフェボウルの中に落とした。
「アスカ。青い目の吸血鬼って、見たことある?」
シドウの言葉に、アスカはハッとしてリクを見る。シドウの隣で口数少なくパスタを食べていたリクは、アスカの視線に応じて一瞬だけ目を上げた。パタッと瞬く瞼の下に覗く深い群青色。アスカは一瞬のその色を網膜に焼き付けて、静かに頭を横に振る。シドウと番関係であるという情報が先行していたせいか違和感を抱いていなかったが――吸血鬼の瞳は、僅かな例外を除いて大抵が《赤》だ。
(番になってハスミさんの目がオレと同じになったみたいに、2人の目の色も揃ったのかと思ったけど、よく考えたら逆だ)
(リクが本当に吸血鬼ならら、シドウの目が赤くなってないとおかしい)
「ない、です……」
「ツバキも家族の遺伝というか、そもそも彼女が突然変異の吸血種なことは知ってるよね?」
「なんとなく、ですけど」
アスカはツバキにソッと視線を向けて返事をした。ツバキは苦笑して見せ、ブラックネイルの指を立ててシドウの方へ注意を向けるよう促す。
「そういうのも稀にあるみたい。ただ人間から吸血鬼が産まれるケースは物凄く例が少ないし、生まれた時点で気味悪がったり恐怖したりした両親や親戚連中に殺されるのがほとんどなんだよね。吸血鬼の正しい歴史を知らない人間たちには、吸血鬼なんて人類の敵としか映ってないわけだし」
「じゃあ、リクも」
「僕に親はいません」
リクはアスカが口にした可能性をバッサリ切り捨てるように言ってのけた。その固い口調に気圧されたように口を噤んだアスカをさらに牽制するように、リクはそのままの調子で言葉を継ぐ。
「僕の家族は、シドウだけです」
アスカはリクの言葉を頭で理解しようと努めた。けれども思考するだけは答えに至らず、戸惑うままにリクの瞳を見つめ続ける。
視線を交わすアスカとリクを交互に見たシドウは、フゥと息を吐いて立ち上がり、リクの背後に立った。白いシャツの肩に手を置いて、低い位置で結んだ藍色の髪に指を滑らせながら、静かに口を開く。
「……そうだね。リクは、僕の細胞と吸血鬼の死骸からとった細胞を組み合わせて作った、人工吸血鬼だ」
冷えた空気が、食堂を包んだ。アスカの手元にあるパスタから立ち上る湯気だけが音頭を宿しているかのように。
「じん、こう……?」
アスカの震える声がそう繰り返して空気を揺らす。シドウはリクの頭頂部を見下ろす位置で瞼を伏せた。リクは能面のように感情を映さない瞳で、真っ直ぐ正面を見据えている。
「倫理の話とかは抜きでお願いしたいんだけど。ハスミが番の法則を発見して、正式に研究所が組織された初期の頃、僕らの組織は戦闘員がツバキたちしかいなくてね。純血の吸血鬼の存在を目にすることがなくなって200年以上経っていたら、自然と番が見つかる可能性なんて塵以下なのは分かるよね」
「……」
「ないなら、作るしかないだろう? 襲撃の度に倒した上級吸血鬼の死骸をまだ細胞が生きているうちに持ち帰って、人体錬成の実験を重ねた。吸血鬼の細胞は人間よりも頑丈でかつ増殖力が異常に強いからね。培養は上手いって、中には成長するサンプルもあった。順調に、人の姿にまで育った個体に、僕の血を吸わせたんだ」
アスカはふと、シドウとハスミの部屋を繋ぐ位置にある共用スペースで見た緑色の培養液と、その中に収められた胚芽のような物体を思い出す。聞いた話を裏付ける光景に、アスカは動揺を隠すように強く唾を呑んだ。
「リッくんはね、私たちと最初に会った時、本当にちっちゃっかったんだよ。しばらく姿を見せないと思ってたシドりんが急に部屋から出てきたと思ったら、5歳くらいに成長したリッくんを連れてたの」
シドウの言葉を継いだツバキは、操作したスマートフォンをアスカの目線の先に掲げる。掌に収まる画面の中で、今より少し若いシドウと、幼い男の子が揃ってピースサインを向けている写真。
「これ、リク……?」
今よりだいぶ短い肩までの長さの髪に、丸く大きな群青の瞳。はにかむ表情に、今のリクの面影があった。
「そう。実験の唯一の成功例が、リクなんだ」
「5歳までは普通に育ってってたけど、シドウの血吸ったら一気にデカくなったんだよな。体つきだけなら、シドウと同じくらいの年齢になってた」
ヒイラギが言って、アスカと視線を交わした後で、誘導するようにハスミを見る。ハスミも、アスカが血を吸った後に10歳ほど見た目が若返ったと聞いた。それが、寿命を共有し、命を繋ぐということ。
「僕がリクの年齢に引っ張られる可能性もあったけど、僕の細胞を元にしている分、僕の方が遺伝子的に優性だったらしいね。リクはもともと賢い子だったし、大人と同じ程度の知能まで育てるのはそんなに時間がかからなかった。身体能力も向上して、トレーニングもして戦闘スタイルも身に着けて、戦闘員として現場で動けるまでになった」
「リッくんの戦闘スタイルねー。リッくんちっちゃい頃から忍者好きだったもんね」
「え、そういう理由……?」
「何か文句がありますか?」
「いえっ、ないですっ!」
秒で光を取りもどしたリクの瞳に睨まれて、アスカは姿勢を正して否定する。白い肌をじんわり赤く染めて視線を逸らすリク。アスカはその様を内心で微笑ましく思いながら、もう一度ツバキの見せてくれた写真に視線を落として呟いた。
「じゃあ、リクとシドウは、親子……」
「みたいなもんだな」
それまで黙っていたハスミが締めの言葉を吐く。シドウはリクの肩をポンッと叩き、自身の席に戻った。アスカも椅子に座り直し、手元のパスタにジッと視線を落とす。
「混乱するよな」
いつの間にか背後に立っていたハスミがアスカに声をかけた。アスカは肩越しにハスミを振り返り、パタッとひとつ瞬きをする。
「純血の吸血鬼の現状については直前まで引きこもっていたお前が一番詳しいと思うが」
ハスミは途中で言葉を切って、アスカの様子を窺った。アスカは再び俯いて、ジッと口を閉ざしている。
「まあ、話したくなったら話してくれや」
ハスミはアスカの隣の椅子を引いて腰かけた。アスカは遠慮がちに視線を上げて、申し訳なさそうに眉尻下げた。
「オレ……、ハスミさんに一番に話しますから」
「そう言ってたな。大丈夫、覚えてるよ」
「ありがとうございます」
「顔色悪いけど、どうする? 部屋で休むか?」
「いえ、あのオレ、これ食いたくて」
「いいよ、ゆっくり食え」
ハスミは頬杖をついてアスカの瞳を覗き込み、口の端を緩やかに持ち上げてみせる。アスカもハスミに笑い返して、改めて両手を合わせた。
◇
深夜の襲撃は行われないとの判断で、街に軍を動員した厳戒態勢が敷かれることはなかった。ただし、塔周辺のエリアは封鎖され、人の気配のしない静まり返った闇が横たわる。
襲撃の予想されない夜の仕事、それは地面に撒かれた《種》の駆除。
塔の天辺には戦闘服姿の人影が2つ。赤い装甲を纏ったアスカと、紺色のシノビ装束に身を包んだリクのみ。ヒイラギは昼間吸血されたことで大事をとって休んでいるため、ツバキも出撃していない。
「本当に、オレたちって2人でひとつなんだな」
ポツッ、と。夜風に溶ける声でアスカが呟く。群青の瞳でアスカを見下ろしたリクは、よく晴れた夜空にぽっかりと浮かぶ月の色を眺めながら、口布を僅かにずらした。
「なんですか、今更」
「オレ、昼間ヒイラギが自分の血で吸血鬼駆逐するの見てて。番契約で不可侵になった人間の血液は血清の数十倍吸血鬼の毒だって聞いて、最強じゃんって思ったけど」
「まあ、必殺の手段ではあっても最終奥義であるべきでしょうね。日常的にその手段を取るのはあまりに愚かすぎます」
リクの言語の端々に見えるセンスに、日中聞かされた話を思い出す。アスカは態度に出ないようにンンッと低く咳ばらいをして、不安定な足場でぐらつく体勢を柱を握って立て直した。
「……なにか?」
「んんん、なんでもないです!」
「実際に、ツバキがずっと不機嫌だったでしょう。あなたも気持ち察せるんじゃないですか」
「ああ……うん」
もし、自分たちだったら。ハスミが自分や人間を守るために、自身の血を自ら吸わせるような場面に出くわした時、自身がどう動くのか想像もつかない。やだ、モヤモヤした嫌な感じが、胸から指先まですべてに満ちる。
「血縁や、意図的に仕組まれたものであっても、番の存在は自分の命よりも大事ですから」
「うん」
「離れるなんて、ありえない」
忍び装束の胸の前を強く握り、リクは口布を元の位置に戻した。高所に吹く強い影が高い位置で束ねたリクの長い髪をフワリと吹き上げる。アスカはフゥと長く息を吐いて、地上に目を凝らした。陽が沈み、影が台頭する大地。ぼんやりと浮かび上がる双対の赤が静かに蠢いている。
「リクって、イニシアチブ使えたりする……?」
「あなたはバカですか? 日中の話聞いていたでしょう。同族からしたら僕からは死んだ吸血鬼の匂いしかしないでしょうね。上下関係から言えば、僕の方がイニシアチブを取られるかもしれない」
「うっ……そんなこと、ないよ。リクからはちゃんと吸血鬼の匂いがする」
ハッとしてこちらを向く視線の気配。アスカがチラリと視線を上げると、リクが零れそうなほど瞳を見開いていた。やがてゆっくりと目を細める仕草が、シドウによく似ていた。
「イニシアチブがなくても、制圧してみせます」
グッと深く膝を曲げたリクは、爪先で塔の柱を蹴り上げて夜に飛ぶ。音もなく、風に針を落とすように落下していくリクは、建物を経由して街中を駆けた。
アスカが見下ろす位置からも、少ない外灯と月明かりを反射して光るリクの刀の太刀筋が見える。アスカはスゥと呼吸しながら立ち上がり、一度ゆっくり目を伏せた。
『俺がサポートしてやれることが何もなくて悪いんだが、お前の感覚でやれるか?』
体の中に響くハスミの声。アスカは聞き慣れた波長に心を寄せて、緊張を和らげる。
「はい、多分。無意識にやってた感覚は覚えてるので、やれます」
『そうか、頼もしいな。少しでも異常を感じたら必ず言いなさいよ』
「はい」
頼られていることにじんわりと熱を宿す胸の辺りを、ギュウと握って。アスカは長く息を吐きながら瞼を開く。ヒリつく痛みが走り、眼球が細かく震える感覚。脳からありったけの指令を送ると、ルビー色の瞳が燃えるように光った。
アスカは地上に向けて指を開いた掌を翳し、グゥと指先に力を込める。不規則に蠢いた赤い双眸がビリッと感電したように震えて止まり、一箇所に集まっていった。
指先が熱い。眼球が燃えるようだった。ハァと絶えず息を吐いて熱を逃がしながら、アスカは集めた双眸を睨みつけてありったけの命令を吹き込む。
「消えろ」
ポツッと呟いた音と同時に、パパパパンッと爆竹のような音を響かせ地中に埋まっていた《種)が爆ぜた。空気の爆発は遠く彼方、視界が及ぶ範囲まで四方八方へ膨れ上がり、甲高い悲鳴のような音を立てて霧散していく。
「……ッ、は……っ……はぁ……」
集中していた力を解くと、ドッと激しい脱力感が襲った。辛うじて柱を掴んで体を支え、アスカは激しい呼吸を繰り返す。
『大丈夫か、アスカ。代わるか?』
「だい、じょうぶです……ちゃんと全部摘めたか、見ないと。昼間のようなことが起きないように」
昼間、街に出た際に無意識に発動してしまったイニシアチブのせいで、怯えさせた中級吸血鬼の融合を促し、上級吸血鬼を生んでしまった失態。昼間の街などという人間だらけの場所では、いくら影の中を移動するしかないという吸血鬼であっても、捕食するチャンスは大いにある。吸血を経てさらに膨れ上がられては街中での戦闘も起こりえる。その被害規模を思うと素直にゾッとした。
アスカは呼吸を整えて再び地上に目を凝らした。見る限りでは、種の双眸は見当たらない。アスカのイニシアチブと地上でのリクの働きで多くの種が発芽前に駆逐できたと見られる。
『とりあえず、今見えてる分だけでも刈っておけるのはデカイな。お前が来る前はツバキとリクの2人で文字通りのしらみつぶしをやってたわけだから、労力的にもだいぶ助かる』
「へへ……役に立って、ハスミさんに褒めてもらえるの、オレ嬉しいです」
『こんなのでよければいくらでもやるよ。お前に会えてよかった』
「オレもです、ハスミさん。ハスミさんは、きっとオレの願いを叶えてくれる」
呟いた言葉に重ねるように、遠くから悲鳴を上げる声を聞いた。アスカはハッとして上体を起こし、声が上がった場所を探る。
『リクがいるところだ、アスカ』
「分かりました!」
音よりも物体を探る方が容易い。ましてや、リクのような長身の影なら尚更。アスカは方向に当たりをつけて、塔から飛び降りた。建物を経由しながら先を急ぎ、最短距離で駆け付ける。
高いビルの谷間にある一際影の濃い場所。湿った空気の満ちる場所に降り立ったアスカが目にしたのは、全身に血を浴びた幼い少女と、歪な影と相対するリクの姿。影の形が歪だと感じたのは、その影が原型を保たないほど崩れかけているからだった。アスカは頭に閃いたデジャブを思い、ハッとして駆け出す。
「リク!」
近づくのと同時に、振りかぶった拳を影に打ち込んだ。手ごたえもなく崩れ落ちた影は、燃えカスのような形になってシュウと跡形もなく消える。
「リク……っ……」
影が離れたことで支えを失ったように膝をついたリクは、深く項垂れ静かな呼吸音を立てた。口布は外れていて、隙間なく包み込んでいたはずの忍び装束も前を大きく裂かれて肌が露出している。首筋に刻まれた歯型と、傷口からツゥと垂れる赤黒い血液。
「うそ……」
ヒクッと腕を震わせ虚ろな目を上げたリクと視線を交わした一瞬、リクの体が大きく揺れて、その場に倒れ込んだ。左手の紋様が一瞬光って、融合が溶け、白シャツとジーンズ姿のリクが冷たい地面に横たわる。
「リ……ッ」
近寄りかけたアスカの足を止めたのは幼い少女の泣き声。これまで堪えていたのだろうその音は悲痛なまでに夜闇を裂いて、空気をビリビリと震わせる。アスカがどちらに向かうべきか逡巡する間に、駆け寄る足音が聞こえた。
「リク!」
弾かれたように叫ぶ声はシドウのものだった。シドウはアスカを突き飛ばす勢いでリクに駆け寄り、肩を抱いて顔を覗き込む。あまりに慌てた所作に、シドウの眼鏡が外れ、カランと微かな音を立てて地面に転がった。
「お前……ッ! だからさっさと僕に代われと言ったでしょうが!」
普段の冷静な表情は仮面だと言わんばかりに取り乱した様子のシドウは、蒼白になったリクの頬を叩き、口元に耳を当てて呼吸を確認する。
「マスターに、代わるわけにはいかないでしょう……状況、見てたでしょう?」
「アスカ、その子供の確保だ」
シドウに続いて路地に顔を見せたハスミ。息切れしている様子から、融合を解いた後すぐにシドウを追って走って来たのが分かる。アスカはいつの間にか融合が解けて元の私服姿に戻っていることを確認すると、すぐさま少女に駆け寄り、泣きじゃくる彼女を抱きしめた。
「お前のイニシアチブから逃れるのに焦った個体が、わずかな影を伝って民家に侵入したらしい。そこで見つけた子供を攫って吸血しようとしていたところを、リクが見つけたんだと」
「あ……」
「お前を責めてるんじゃないからな。イニシアチブの効力と範囲に検討と研究の余地があるというだけだ。有効であることは明らかなんだから。ただ、個体は相当パニクってたようで、リクの刃を無視してなんとしてでも子供の血を吸おうとしたらしい」
「それで、リクはなにを……」
「自分の中に僅かに流れてる人間の血を使っておびき寄せ、自分の血を吸わせた」
「それ……ヒイラギと、同じ」
「ああ、そうだな。んなことしたら、シドウがどうなるか分かってただろうに」
「はい……リクも、そう言ってました。分かってるのに、なんで」
「子供が絡むと見境なくなるんだよ、リクは」
「……」
アスカの脳裡には、ツバキが見せてくれた幼いリクの写真が思い出されていた。子供を失う親の恐怖を、何より理解した2人。シドウはリクを強く抱きしめて、自身の手首を爪で裂き、滴る血をリクに呑ませている。
半開きの口に注がれる血液に、リクの白い喉が何度も上下した。血色の戻っていく肌に安堵の息を吐いたアスカは、いつの間にか抱きしめていた子供が寝息を立てていることに気づく。
「あ、寝ちゃった……」
「こっちの子供は大丈夫そうだな。本部に連絡してあるから、保護担当の職員がもうすぐここにくる。あとのケアはそいつらに任せたらいい」
「はい……ハスミさん、オレ」
「大丈夫だ。お前はよくやった。これまでだって何度かあったことだし、シドウもあの状況でリクがどんな行動をするかは、分かってただろうから」
「分かってたって、納得はしてないよ。……まあ、これも僕の躾けのせいだと言われたら、それまでだけど」
闇にポツリ響く、シドウの怨みのこもった低い声。ハスミは肩を上下させて息を吐き、アスカの体を抱き寄せながらシドウに冷ややかな視線を向ける。
「躾けとかの話じゃねーだろうよ。血を吸わせたのはリクの意志だ。なんでもかんでも子供が親の言うこと聞くなんて思うな。この世に生まれた時点で、子供はお前とは別の人間なんだから」
「……」
コクン、と喉を鳴らしたリクは、薄っすらと瞼を開いて指導の頬に指を伸ばした。温度を失くした指先で触れ、力なく滑らせながら、震える唇を開く。
「ごめ……なさい。……おとう、さん……」
ツゥと、眦から涙を零したリクは、微かな声でシドウを呼んで、意識を失った。
呆然とリクを見つめていたシドウは、やがてフゥと脱力するように息を吐く。
「こんなときに、その呼び方するの」
「変わんねえな、リクも」
静かに向けられた抗議の視線に、ハスミは軽く両手を上げてハンズアップの姿勢を示した。シドウは呆れたように息をつき、腕の中のリクを見下ろす。血で汚れた口元を拭いて、あどけない寝顔を見せるリクの額をソッと撫でた。
「ずっと、マスターとか、名前で呼ばせるようにしてたんだけどね。でもこの子は、僕が『お父さん』って呼ばれるのに弱いの知ってるんだよなあ」
「そりゃあ、お前の子だもんな。相手の弱みは軽率に握ってんだろうよ」
「うるさいよ、ハスミ」
セリフの割に、そこまで毒のこもっていない口調で反論するシドウ。ハスミはフッと噴き出して、静かな夜に忍び笑いが密かに響く。
やがて到着した本部の保護担当の職員に眠ったままの少女を引き渡した。4人は送ると申し出た職員の表情に滲む怯えを見透かして、用意されていた車を断った。
◇
部屋に戻ったシドウは、彼のベッドにリクの体を横たえる。整理整頓のできていない部屋は物が多く、照明をつけないままだったせいで背後で何かが崩れる音がした。
「マスター」
「まだ寝てなさいよ。風呂も回復してから入ればいいし。シーツもハウスクリーニング依頼するから、汚れるとか気にしないで」
「マスター、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「……なに」
言い出したら聞かないところ。自身の意志は曲げないところも、自分によく似ている。シドウは密かに苦笑を漏らしながら、窓から注ぐ月明かりが薄っすらと照らすリクの顔を覗き込んだ。澄んだ群青の瞳に光が揺れ、美しい色を閃かせる。
「もし、マスターの本当の番が現れたら、マスターは僕を捨てますか?」
形の良い唇から零れる一音一音が、シドウの心を揺らした。音が意味になって、脳に理解として届くまでの一瞬が、ひどく長く感じる。指先の血液がドクンと音を立てて脈打ち、シドウはその震えを誤魔化すように指先を強く握った。そして、わずかに上体を起こし、リクの額に自身の額を重ね合わせる。
「捨てないよ。約束したでしょ?」
「はい、信じています……お父さん」
――弱味を軽率に握っている。ハスミの言葉が脳裡を掠めて、シドウは密かに眉を顰めた。やがて穏やかな寝息の音がして、シドウはゆっくりと重ねていた肌を離す。
心の柔らかい場所を引っ掻くような言葉。それを盾にされたら、どうしてもまともな思考ができなくなる。
シドウはふと自身の左手を返して、そこに刻まれた紋様に目を落とした。紛い物と言われようが構わない。これは死に物狂いで手に入れた力であり、その必死の努力に対する報いであると信じている。番の力も、リク自身も。
左手を上げ、まだリクと重ねた熱の残る額に触れた。ドクン、ドクンと脈打つ血液の音を聞きながら瞼を伏せる。
窓の外の月に雲がかかり、部屋に僅かに差していた明かりが消えた。雲間から覗く月は一瞬、ジワッと赤く色を変える。
その刹那の現象に、誰も気づくことはなかった。
《4/END》