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グレン・ヴァンプ2

2.



 世界揺れる気配に目を覚ます。ハッと見開いた視界に満ちた白。天井に並ぶ照明の影を認識したハスミは、フゥと安堵して固い寝台の上に再び体を横たえた。

「ちょ、おっさん! なに二度寝かましてんだよ!」

「ハスミン起きて! もー、なんとかしてよあの子」

「……あ?」

 薄く開いた瞼の隙間。ぼんやり霞む視界に高速で飛び交う影。チチッと微かな泣き声と、時折足元や首筋を踏んで飛び回る影が実験用に飼っているマウスのものだと認識した。

「動物の世話は俺の役目じゃねーわ」

「ネズミはいいの! ハスミンがなんとかしなきゃならないのはデカイ方だろ」

「デカイ、方?」

 切羽詰まった声を上げたヒイラギが、重ねて「あ」と気の抜けた声を上げる。次いで虫取り網を持ったツバキが目を瞑って顔を背ける様が視界の端に映る。ハスミは嫌な予感がサァと背中を駆け抜けるの感じつつ、双子に向けていた意識を正面に戻した。

 顔面にかかる影。意識が見せる幻想か、スローモーションで落ちてくる「それ」に、ハスミは口の中で小さく悲鳴を上げる。

「ぐはっ」

 固い寝台の支柱がミシミシと撓り、台と一緒にハスミの体も真ん中で2つに折れた。鈍い空気音と共に低い悲鳴を吐いたハスミは、カクリ首を倒して意識を失う。

「うわあ、痛ったそー……」

「あーあ……おっさん使えねえじゃん」

「えー、どうする?」

 やる気のない口調で言い合いながら、ツバキは時折すごい速さで虫取り網を振り、見事網にかかったマウスをヒイラギが両手に持っている虫カゴの中に放り込んでいく。

 2人の背後にあるドアが開いて、シドウとリクが連れ立ってミーティングルームに入ってきた。一瞬で事態を察したらしいリクは、ゆっくりした速度で動くドアを手動で無理やり閉め、床を蹴って宙に飛ぶ。雑多に散らかった床を飛び越える最短距離。部屋の隅で飛び回る影を押さえたリクは、暴れる相手をしばらく押さえつけ、両手両足を拘束したところでシドウを振り返る。

「マスター。無力化できません」

「オッケー、じゃあ閉じ込めよっか。ツバキ、頼むよ」

「えぇー? はぁい」

 頷いたツバキは顎を突き出す気乗りしない姿勢で部屋から出て行き、隣接しているシドウの研究室から猛獣用の檻を持って戻ってきた。ツバキは軽々と持ち上げているが、肉食獣を閉じ込めておくための檻であることもあって、総重量は200kgを超えている。

「どこ置くの?」

「なるべく邪魔にならない隅っこで」

「りょー」

 散らかった床をピョンピョン軽い足取りで飛び越える仕草で、ハーフアップにアレンジしたオレンジの長い髪が揺れる。翻る丈の短いスカートの裾から覗く白い脚に。ヒイラギひとりが悲鳴を上げた。

「ここでいい?」

「ありがと。リク」

「はい、マスター」

 暴れる相手を抑え込んでいたリクは、彼の襟首を掴んで持ち上げ、自身ごと転がり込む勢いで相手を檻の中に閉じ込める。ガシャンと大振りな錠を掛けて離れると、相手は狭い檻の中で姿勢を低くして、ウゥ、と獣のような声を上げた。

「たぁく……どーしたよ、コイツ」

「アスカっちぃ……」

 呼びながら、ツバキが伸ばそうとした手に檻の中のアスカは牙を剥いて噛みつく仕草をした。ツバキは慌てて手を引っ込め、その背中をヒイラギが抱き留める。

「……腹減ってんだろ」

「あ、ハスミン」

 アスカのボディプレスをもろに受けた腹を摩りながら、折れた寝台から転がり落ちて立ち上がるハスミ。よろめく足を引きずりつつ檻に近づく。

 近づく気配に、檻の中のアスカは柵に噛みつく勢いでガウガウと吠えた。白い面立ちの中、同じく白い前髪の隙間に覗く赤目は血走って瞳孔が開き切っている。彼の口の周りについた動物の血と体毛に目を細めたハスミは、ハァと呆れた溜息を吐く。

「何匹食われた?」

「30匹くらいかなあ」

 シドウはヒイラギの手から受け取った虫カゴに収まったマウスを数えてから答えた。ハスミはチッと苦々しい舌打ちを吐いて、しゃがんでアスカと目線を合わせる。

「……多分、何を言っても聞こえないですよ」

「今はな」

 静かな声で忠告したリクに重ねてハスミは言った。リクはハァと呆れた溜息を吐いて、檻の傍から離れる。

「野良吸血鬼(ヴァンプ)は手癖が悪りィな」

「どうすんの?」

 傍にきたリクに虫カゴを手渡しながら、シドウが問う。ハスミは錯乱したままのアスカの瞳をジィと覗き込んで、深い溜息を吐いた。

「マウス30匹程度なら、こんだけ暴れ回りゃ夕方までに消化できんだろ。放置だ放置」

「30匹程度ねえ。じゃあハスミが弁償してくれんのね?」

「……」

「まあ茶番はさておきだけど。ハスミも起きたことだしミーティング始めようか。時間ないし」

 研究室にマウスを返して来たリクが戻ったのを横目で確認しながら、シドウが言う。ハスミはアスカに据えていた視線を逸らして、彼に背を向けた。アスカは低い唸り声を徐々に潜めて息遣いだけを残し、柵の隙間からハスミの背中を見つめる。

 席に着くそれぞれ。ハスミと向かい合わせになる位置に座ったシドウは、眼鏡の奥の青眼を怪訝に顰めてハスミに不満げな表情を向けた。

「で、ハスミの見た目なんなの。俺より見た目若いとかムカツクんだけど」

「お前ミーティング仕切る気あんのか? 初手から私情ぶっこむじゃねーか」

「最重要事項でしょ」

「若返ったって言っても見た目だけだろ。お前らと同じ」

「えぇ……じゃあ中身はちゃんとおっさん? 飲んだ翌日は必ず二日酔いなる? 50mも走ったらちゃんと息切れする?」

「昨日の見てんだろ。心配すんな」

「……やっぱ見た目若いのムカつくな」

「話が進まねーんだわ」

「完全に無関係ってわけでもないんだけどね。ハスミの見た目が若返った原因」

「……ああ、あいつが、若い吸血鬼だからだろ」

「若い、ねえ……最後に純潔の吸血鬼(グレン・ヴァンプ)の誕生が確認されたのは確か200年前だったっけ」

「だな。あいつは、それくらいなんだろうよ」

「確かに、吸血鬼にしたら若いね」

「私のが若いけどねー」

 ツバキはテーブルに頬杖をつき、顔の横に垂らしたおくれ毛を指に巻きつけながら口を挟む。ヒイラギは背の高いスツールの背もたれに体重をかけて、ギッと軋む音を立てながら天井を仰いだ。

「俺らはまあ、突然変異種だし混血だから、記録には残ってねえけど」

「記録っていうか、私の持ってる記憶が全部だもん。私がまだ生きてるのに、勝手に歴史にされたら困る」

「んだね」

 キャッキャッと笑い声を上げる双子から注意を戻して、シドウは傍らに座るリクと視線を交わして微笑みあった。

「僕はアラサーの見た目、気に入っています」

「ありがとうね、リク。お前も良く似合ってる」

「光栄です」

「息を吸うようにイチャつくなよ。で、なんだ?」

「質問なんだけど、ハスミはアスカのことどれだけ把握してる?」

 深い青眼を据えて、シドウが問う。ハスミは肩肘をつく姿勢から、視線を流して部屋の隅を見た。床の一点を睨みつけ、まだ獣のように4つ足で柵の中をうろつくアスカ。ハスミはその様に目を細めて、フゥと緩く溜息を吐いた。

「実際、ほとんど知らねえな。《赤》の反応があったから行ってみて、吸血させたらビンゴだったってだけ」

「げ、確信ないのに吸血させたんかよ、怖」

「ねーそれ、ハスミンにとっての自殺行為ってより私らに対するテロ行為だかんね? ハスミンって血清打ってんでしょ?」

 双子の軽蔑する視線をスルーして、ハスミは天井の方へと目線を逃がす。

「でもさ、運命の番って、出逢えば分かるって言うじゃない? ハスミも軽く言ってるけど、勝算はあったんでしょ?」

「ノーコメント」

「へえ。勘がいいっていうか、運がいいっていうかなところはあるけど。偶然の割には、ちゃあんと当たりだったみたいで何より」

 シドウは視線を落としてキーボードを叩く。ファイルを開いて、展開されていく数字を目にしたリクの濃い青の瞳が一瞬見開き凍り付いた。

 息を呑んだリクを視線で牽制したシドウは、ノートPCを裏返して全員に画面を示す。

「君らの合致率だよ。恐らく、今の俺らより高い」

「ありえない……」

 小さく呟くリクの背中に、シドウは全員から見えない位置で背中に手を置いた。

 不安定に変化する数値。けれどもその値は限りなく100に近かった。

「ほぇーすげえ。双子の俺らだって100%マッチしないのに」

「まあね。いうたら私らだって別の個体同士っていうか、広い意味で言ったら他人じゃん?」

「はあ? 家族だろ!?」

 テーブルを叩いて立ち上がったヒイラギの後ろで、スツールが派手な音を立てて倒れて転がる。ヒイラギは血の気の引いた顔をツバキに向けて、引き結んだ唇の隙間からフーッフーッと荒い息を吐いた。

 ツバキはヒイラギを見上げて柔らかく微笑み、ヒイラギの袖を指先で掴んで引っ張る。ヒイラギはグッと喉を詰まらせ、スツールを戻して元の位置に座った。

「ヒイラギって家族過激派だよねえ」

「別に過激派じゃねえよ。事実なだけだろ」

 ムスッと唇を尖らせ俯くヒイラギに肩を寄せたツバキは、深い赤で色づく唇の隙間に長い犬歯を覗かせて、彼にしか聞こえない声で囁く。

「ねえ、ヒイラギは、家族の定義ってなんだと思う?」

 ヒイラギは微かに視線を上げて、泣きそうな目をツバキに向けた。ツバキは眉尻を下げて微笑んで、ニッと歯列を覗かせ笑う。

「ごめんごめん。てかうちらもう時間じゃんね! 学校行こ!」

 ツバキはスツールから立ち上がり、ヒイラギの腕を掴んで引っ張った。ヒイラギはグッと強く唾を呑み込んで、ツバキに手を引かれるままにスツールから降りる。

「んじゃね、いってきまーす!」

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 ヒラヒラと手を振り送り出すシドウ。ハスミは双子の姿がドアの向こうに消えるまでジッと見つめて視線で見送った。

「まあ、今日の報告事項はこれに尽きるんだけど。とりあえず、真正の番コンビの誕生をお祝いしなきゃってとこ」

「番に本物も偽物もねえだろ」

「……うん、まあ、そうね。ごめんね、シンプルに嫉妬だよ」

「荒れてんな」

「まあね」

 青ざめていた色から、心配そうな色に変わったリクの瞳に、微かに光が揺れる。

(……さすが)

 ここぞという場面で本音を覗かせ寄り添う手腕に感服しつつ、ハスミは何気なく檻の方へ向けた視界で違和感に気づき、ハッと目を見開いた。

「……ああ、起きたね」

「別に寝てはいねえだろ」

「確かに、寝てなかったか」

 ハスミはスツールを引いて立ち上がり、白衣のポケットに手を入れながら歩幅を大きくして檻に近づいた。ブーツの足で柵の前の床を叩くと、檻の中のアスカは極限まで縮こまらせた肩をビクッと大きく震わせる。

「オイ、こっち向け。番様だぞ」

「ひぅ、ぁ……あ……ぅ」

 ぎこちない動きで視線を上げたアスカは、ヒィと短い悲鳴を上げて顔面蒼白になった。ガタガタ震えるアスカにメンチを切る勢いで凄むハスミ。アスカはぐすっと洟を鳴らしてその場に膝をついて土下座する。

「ご、ごごご、ごめんなさいぃ……!」

「なんでネズミなんか食ってんだよ」

「うっ……癖で……」

「覚えとけ、アスカ。人間の血吸うのが怖いのかなんか知らねえけど、この世で一番怖い人間はシドウだぞ?」

「ハスミー? 聞こえてんよ?」

「プロフェッサー・ハスミ、マスターを侮辱しましたか」

「な?」

 柵に頬を寄せ背後を示すハスミに、アスカはブンブンと首を縦に振って同意した。

「ってことで、シドウのもんに手ぇだすのはやめとけ」

「うっ、でも……そしたらお腹空いたらどうすれば」

「ああ……待ってろ」

「う、はい」

 ビシッと姿勢を正して、怯えたままの瞳を向けるアスカ。ハスミはフンと鼻から息を吐き、アスカの前から離れる。ハスミは部屋を出る前にシドウを振り返り、視線を交わして無言のままアスカの監視を頼んだ。


 檻の中にひとり残されたアスカは、キュッと肩を竦めて縮こまる。シドウは頬杖をついてアスカの様子を眺め、フッと柔らかく笑った。

「大丈夫だよ。楽にして」

「う……シドウ、さん」

「ちゃんと覚えてるね。こっちは?」

「リク、さん」

「リクでいいです。僕の方があなたよりずっと生きてきた時間が短い」

「そう、なんですか?」

「敬語も結構です。あなたが敬意を尽くすべきは、あなたの番ただひとりですから」

「じゃあ、シドウさんにも敬語なしで」

「ダメに決まってるでしょう!?」

 リクは穏やかな海を思わせる深い青眼を見開き怒りの形相で言う。アスカは即座に背筋を伸ばし、地面すれすれまで深く頭を下げる。

「はいっ、すみません!」

 フンッと強く鼻から息を吐き出したリクは、高い位置にあるミーティングテーブルから、階段を数段降りた位置に置かれた檻の中にいるアスカを見下ろした。

「……まあ、あの双子はきっと、親しく話すことを許してくれるでしょう。そちらと仲良くどうぞ」

「リクも仲良くしたらいいじゃない。誰にも心開かないのは窮屈でしょう?」

 シドウの言葉に、リクは躊躇うように唾を呑んだ。

「僕は、マスターがいれば」

「こんなこと言ってるけど、いい子だからさ。仲良くしてあげてね、アスカ」

 アスカは怯えた視線をリクに向ける。リクの瞳に揺れる不満の色に、アスカは正座の姿勢でいる腿の上に乗せた手をギュッと強く握りしめた。

 しばしの気まずい無言の後、不意にフワッと漂ってくる匂い。アスカはフンフンと鼻を効かせて空中に視線を巡らせた。

「いい匂い……」

「あ、そっか。確か3日前くらいになんか仕込んでたね。ソースも冷凍してたから、きっとすぐ戻ってくるよ」

「ソース?」

「シドウ、檻開けてやれ。反省はもういいだろ?」

 ドアが開き、片手に皿を持ったハスミが入ってくる。グンと濃くなる香りに、アスカの腹がグゥと低い音で鳴いた。だらしなく開いた唇の端からはタラッと透明なよだれが伝う。

 シドウは心から笑ってない顔で朗らかな表情を貼り付けたまま、愉快そうな口調で言った。

「えぇー? もうちょっと独居房チックな空気味わってもらってもいいんじゃない?」

「荒れてんだったな、お前……いい趣味してんわ」

「その代わり、席は外してあげるよ。後で俺の部屋に鍵取りにきて」

 言いながら立ち上がったシドウは、リクを伴い部屋から出て行く。ハスミはすれ違った2人を見送ってから溜息を吐き、アスカのいる檻に近づく。

 アスカは正座を解いて尻を浮かせ、立ち膝の姿勢で柵を掴んだ。

 ハスミはアスカの前でしゃがみ、顔の傍に皿を差し出す。ふわり揺れる湯気と、甘い香り立てる濃い色のソース。センス良く散らした生クリームの線が溶け、付け合わせのポテトフライと艶のある膜を纏った人参グラッセが色を添える。

「これ、何」

「ハンバーグだ。食ってみ?」

「食っ、……え、る、んですか?」

「俺と命を繋いだって言っただろ」

 ハスミは持ってきた皿をどうやっても柵の間を通すことが無理だということに気づいて舌打ちを吐き、床に座り込んでフォークを柔らかな表面に突き立てた。尖った先端を倒して裂いた切り口から、ジュワァと透明な肉汁が溢れ出す。アスカは齧りつくようにハスミの手元を見ていた赤眼に光を揺らして、ゴクッと大きく喉を鳴らした。

 ハスミはアスカの様子を観察しながら、一口サイズに切った塊をフォークの先に差して柵の隙間から差し入れる。戸惑うように瞳を泳がせたアスカは、やがて意を決したようにパカッと赤い唇を開いた。

 差し出した塊にはくんと食いつくの待って、先端から外れる気配にフォークを引き抜く。唇を閉じてむぐむぐと口内を動かしていたアスカの表情はやがて期待のままの華やぎ、パタタと瞬きする度に星が舞うようだった。

「うん、ま! すんごい、うんまい!」

「そりゃよかった。全部食っていいぞ」

「いいんですか!? へへ……ありがとうございます!」

 フワッと目を細めて笑うアスカの口元に、ハスミは皿の上が尽きるまで食事を差し出す。アスカは目を丸くしたりジィと観察したりして、はくんと口に含む度に感動の表情を浮かべた。ハスミはその様をみているだけで自身の頬が緩むのを感じて苦笑する。

「ほれ、最後」

「はい! へへ……んあー……すっごく、おいしかった!」

「だろ? なあ、俺の血と、どっちが美味かった?」

 ゴクン、と。最後のひと口を呑み込むの同時に差し出した問いに、アスカは体を強張らせてフリーズした。ハスミは見開かれたままのアスカの瞳を見つめ、床にカランと音を立てて皿を置く。

「……ごめんなさい。あの時は夢中で、よく分かってなくて」

「まあ、そうだろうな」

「それに、もう血は飲まなくていいって、あなたが」

「ああ、言った。少なくとも、正気の時に飲むことはねーわ。また飲んだとしてもお前の記憶には残んねえから、安心しろ」

「記憶には、残りますよ」

 ジッと、アスカが視線を据えた先。ハスミの首筋に2つ残る牙の跡を見て、アスカは痛そうに顔を顰めた。

 ハスミはシャツの襟を引っ張って首元を隠し、フゥと、短く息を吐く。

「あの、食事、すごく美味しかったです」

「そいつはどーも」

「これからはオレもこういうの食べられるんですね」

「まあな。ただし、食事は当番制だけど」

「コレ、また食べたいなあ……」

 ぼんやりと夢心地のように呟くアスカを、ハスミは目を細めて見つめる。白い面立ちにくっきりと映える赤目。その色は潤んで、夜に見たような鮮烈な印象は感じない。

「もうちっと楽な料理にしとくんだった」

「んぇ?」

 ハスミは続きを零しかけた唇をハッと閉じて、背中を駆け抜けた悪寒に強く肩を掴む。肉の内側を這い上がるような気色悪い律動。血管を震わせ、脳を揺さぶる第六感。

 どこかで、吸血鬼が人間を食らい、暴走個体が生まれた証。昼の間は姿を見せずに暗躍し、夜になると上級吸血鬼となり姿を現す、人類の敵。

「あ……今の」

「まさか、お前も?」

 ポツリ零れた声に、ハスミはハッとして視線を向ける。アスカも同じように視線をハスミに据えていて、彼の問いかけにコクンと頷いた。

「背中が、ゾクッて。これ、上級吸血鬼ダーケストの気配」

「おま、マジか……ッ」

 立ち上がりかけたハスミは床に置いたままの皿を掴んで引き寄せ、掌でしっかりつかんで駆け出す。開いたドアの向こうからけたたましくシドウを呼ぶ声。扉を開けたシドウに皿とフォークを押し付けて、代わりに奪い取った鍵を持ってハスミがまた走って戻ってくる。

「ハスミさん、何……」

「いいから、今すぐ来い」

 焦った手つきで檻の鍵を開けたハスミは、鍵を床に捨ててアスカに手を伸ばした。アスカはパチパチと瞬きして、反射のようにハスミの手を掴む。

「う、わ……っ!」

 掴んだ細い手首を引っ張って、ハスミはアスカを引きずるようにして部屋を出る。開いたままのシドウの部屋の扉を蹴破る勢いで突破したハスミは、部屋の奥にある扉を開け、共有の実験室へとアスカを連れて入っていく。

「う、わ、ぁ……」

 速足で先を行くハスミに引きずられ、脚をもつれさせながら見回す視界。壁と床を繋ぐ幾つもの柱の中央に埋め込まれた試験管。培養液のような緑の液体が満たすそこには水泡が舞って、何かの胚芽のような塊が沈んでいる。

 緑が反射して染め上げる区画を抜けると、次は壁一面にびっしり本や実験器具が並べられた場所に出る。中央に据えられた診察台のような黒いリクライニングチェア。ハスミはそこにアスカを座らせ、手首や額にコードで繋がれたパッチを装着していく。

「ハスミさん……?」

「お前が感じたっていう感覚、俺も時々感じんだよ。感覚なんて不確かなもんに頼るのも癪だから、俺はその正体をちゃんと知りたい。どこでなにを感じて、どの部位が信号を送ってきて、あの気持ち悪い感覚を起こすのか」

「ぅえ……考えたことも、ない、けど」

 ハスミはアスカの頭にヘルメットに似た器具を被せ、そこに付属したアイマスクでアスカの視界を塞いだ。アスカは真っ暗になった視界でしばらく視線をさまよわせたが、やがて諦めたようにフッと瞼を閉じる。

 視界を閉ざすとそれ以外の感覚が鋭敏になり、アスカはドクドクと脈打つ自身の体内の音を聞いた。さっき食べたばかりの食事が血肉となり巡って、指先まで行きわたる感覚。アスカは息を吸い込み薄い胸を膨らませ、フゥとゆっくり吐きながら言葉を零した。

「ハスミさんの役に立てるなら、オレ、なんでもする」

「……そうか」

 ハスミはキュッと小さく唇を引き結び、器具のスイッチをオンにする。アスカに繋いだ器具から信号が送られ、モニターの反映されていく数値にジッと目を凝らした。

 生体反応や、脈も、アスカの肉体年齢から想定される人間の若者の標準値とさほど変わらない。ハスミの実年齢からしたら2周りほど異なる数値に目を凝らす。

「感覚を受信するとき、反応するのはどこだ?」

「んと……背中から、頭に抜けて、指先までビリッとする感じ。ゾクゾクする感じの強さで、中級ダーカー上級ダーケストが分かる、感じ」

クラス識別もできんのかよ。距離や場所は?」

「なんとなくだけど……方向と、近さは分かる」

「やっぱり俺より精度高けえな……」

(もう一回受信できたら話は早えが……それじゃどっかも誰かが犠牲になれっつってるようなもんだし)

(罪の意識なんざ、今更過ぎるが)

 ハスミは過りかけるビジョンをブルッと頭を振って追いやり、再びモニターに視線を戻して問いを重ねる。

「お前はいつからその感覚が分かんだ」

「えぇ……昔、から、だけど。ハッキリ感じるようになったのは、母さんがいなくなってから」

「お前の母親は……」

「ハスミ」

 背後から不意にかかる声に、ハスミは静かに視線を上げる。ハスミの研究エリアの境に立つシドウは、ぼんやりとした緑が照らす背景の前に腕組をして立っていた。

 アスカの暗い視界の中に固く響くシドウの声。アスカはハッと目を開いて背中を預けていたチェアから体を起こそうとした。けれども手首を固定されていて叶わず、チェアをガタガタと揺らすことしかできない。

「この研究バカ。大事な番に何をしてるの」

「こいつも俺と同じでヴァンプの出現を感知できる力がある。しかも多分だが、俺より精度が高い」

「それが何? 刹那の感覚を捕まえて分析するのなんて不可能だって言ってるだろ。そんなの君がいちばん身を以て知っているでしょうが」

「お前は結局匙を投げただけだ」

「はあ? 生物の肉体に関しては僕より君の方が素人だろうが」

「研究者の風上にも置けない言い草だな」

「ちょ、ちょ、ちょっと、あの……!」

 アスカは声の方向を頼りに2人がいそうな辺りを見て声を上げる。フッと2人の紫煙が向く気配にゴクリ唾を呑んだアスカは、恐る恐る口を開いた。

「あの……ケンカ、しないでください」

「……リク、あの子の拘束解いてやって」

「はい、マスター」

 影のように現れたリクは、アスカの手首についていた固定具を外して、ついで、ヘルメットも取った。アスカはブルッと大きく首を振り、パチパチと瞬きして2人を見る。

 ハスミとシドウは無言の視線を向け合っていて、やがてシドウが先に視線を逸らし、一度アスカの方に目を向ける。

「その子は生きてる」

「チッ……分かったよ」

 ハスミは黒髪を無造作に掻き上げあからさまな溜息を吐いた。

「ハスミさん」

 ポツリ呼ぶアスカの声に、ハスミは静かに視線を向けた。アスカはハスミと目を合わせると、眉尻を下げて曖昧に微笑む。

「オレ、役に立ちましたか?」

「……また今度、頼む」

「ハスミ」

「はい!」

 静かに呼ぶシドウの声を遮って、アスカの溌剌とした返事が響いた。アスカは「あっ」と小さく声を上げて口元を掌で隠し、首を竦めて身を縮こまらせる。

 その瞬間、またブルッと強く襲う震え。同様の感覚を覚えたハスミは、ハッとしてモニターを見ようとした。その視界を遮って、シドウがハスミに目隠しをする。

「……っ、テメェ……」

「精度が高いなら、これからはアスカに教えてもらえばいいってことだろ。なにをどう伝えてもらえばいいのかちゃんと話し合って。君らがやらなきゃならないのはそこでしょうが」

 ハスミの視界に翳した掌を外しながら、シドウは青眼をハスミの淡い赤眼に据えて淡々と言った。ハスミはグッと息を詰めて、唇の隙間から静かに息を吐く。

「変わったな、シドウ」

「いい方にでしょ?」

 茶目っ気を添えて笑ったシドウに、ハスミは呆れた息で応じた。シドウはフッと表情を消して、リクを呼んで自室に戻っていく。

「ハスミさん」

「とりあえず、分析はいったんやめだ。俺らも部屋に戻るぞ」

「戻って、なにするんですか?」

「……話をしよう」

「……っ! ……んへへ、はい!」

 上機嫌に笑うアスカに、ハスミもつられるように表情を緩める。ハスミはモニターの電源を落として、区画の照明を消した。



 陽が落ちて、薄明時に沈む光が夜に呑まれる。必然のように昇る赤い月を薄い雲が隠した。無人の街に立つ4体の影。

 オレンジの長いツインテールを揺らすメイド服に似た衣服を身に着けたツバキ。右手には巨大なロケットランチャーを携え、軽々と肩に担いで地平線に視線を向ける。

 忍び装束を身に着けたリクは、高い位置で結んだ長髪を風に流し、口布で隠した視界を真っ直ぐツバキと同じ方向に向けた。

 ツバキはフゥと長く息を吐いた後、インカムを2回叩いて呆れた声を出す。

「ねえ、大丈夫なの? それ」

 ツバキが一瞥した視界の先。戦闘前だというのに未だに融合していない2人を指して、再び視線を戻す。

「俺が聞きてえ……」

 ハスミの腕に引っ掛かるように項垂れたアスカは、重い頭を持ち上げながら途切れ途切れに声を上げた。

「ごめん……その、ちゃんと寝てなくて」

「立ってらんないほどって……、いつから寝てねえんだよ……」

『言ったでしょ? アスカは寝てなかったって。少なくとも、昨晩の戦闘で君がぶっ倒れた時からずっとね』

 インカムに割り込んで来たシドウの声に、ハスミは苦々しく舌打ちを吐いた。

「そういう意味ならちゃんと言っとけ」

『ずいぶん仲良く話してたみたいだから、そんなこと分かってるんだと思ってた。夢中になると自分の状態分かんなくなっちゃう限界行動タイプなのも、そっくりだね』

「お前はいい加減荒れてんのなんとかしろっつーんだよ……」

「マスターを侮辱しましたか?」

「ややこしくなるからいちいちツッコむんじゃねえよ、リク」

「マスターの怒りは僕の怒りでもあります」

「ああそうかよ。お前らこそ気持ち悪いくらいシンクロしてんじゃねーか」

「誉め言葉ですね」

 一切視線を向けずに言ってのけるリク。ハスミはゾワッとしたものが背筋を駆けるのを感じつつ、深い溜息をつく。重ねて起きる震え。背中の肉を割るようにゾワゾワと湧き立つ悪寒に、ハスミは前歯の裏を強く舌で弾いた。ハスミのリアクションに武器を構えるツバキと、背負った刀の柄を握るリク。背中に銀の十字架を背負った隊員も、前方に向け銃を構える。

「なあ、アスカ」

「ん、なに……」

「俺の役に立ちたいって言ったのと、俺を守るっつった気持ちは変わってねえな?」

「変わって、ない、です……力入んなくて、くやしい……」

「俺が力を与えてやる。選ぶか?」

 アスカは赤眼を見開いてハスミを見つめ、共鳴する瞳の赤を目にして苦し気に目を細めた。ハッハッと激しく上がっていく呼吸の音。開いた瞳孔の中で。細く鋭利に伸びていく黒目を映したハスミは、アスカの襟を掴んで自身の方へ引き寄せた。

 シャツの襟を引っ張り晒す肌。まだ傷が塞がっていない、鬱血した牙の跡を晒す。

「は……ァ……ッ……ぁ……」

「理性飛ばしてやる。さっさと片付けようぜ」

「が……ァッ……あ、ぁ……ッ」

「吸え、アスカ」

 生温い息が肌を撫で、皮膚を破り侵入してくる唾。血管が避けて、流れ込む先で血が暴れ、左手の紋様が赤く光った。

「くっ……、融合!」

 ザンッ、と。赤い月影を覆い隠す2体の巨大な翼。同時に伸びたツタが2人を覆い、赤い吸血鬼が地に膝を着く。

狂戦士バーサーカー、か……」

 リクは痛そうに青眼を細めて呟く。ツバキはフフッと柔らかな笑みを零して、上空を飛ぶ影に大砲を放った。

「つっよ」

 大砲が届く前に、赤い衝撃波が影を貫く。揺らいだ影の頭部にツバキの放った弾丸が当たり、揺れた影に向けてまた赤い影が猛スピードで飛んでいく。

 ツバキはアスカを見上げて佇むリクの背中に背中を着けて、ソッと囁いた。

「嫉妬しちゃだめだよ、リク。あれは絆とかそういうんじゃないじゃん」

「じゃあ、なんですか」

「使役と、服従」

「……どっちが、どっちですか?」

「さぁね」

 アスカは襲い来るもう一体の影に大砲を放ち、舞い上がる爆炎に紛れて跳んだリクが影の脳天に刃の切っ先を突き立てた。

 ザァと引いていく噴煙の中心で、上空で2つに裂かれる巨大な影を見上げたツバキは、赤い色が薄れていく月に掌を翳してオレンジ色の瞳を細める。

「私たちは、人のことどうこう言える立場かな」

 問いかけた先のヒイラギは答えない。ツバキはフゥと息を吐いてインカムをつけた左側に、寄り添うように頭を傾けた。

「弱いままだと、私たち負けちゃうよ」

『負けたっていいよ』

 耳元で聞こえる声に、ツバキは伏せていた瞼を開く。

『俺がまた強い武器作るからさ』

「かぁこいいねえ、ヒイラギ」

 ツバキは微笑んで言いながら、インカムのマイクにチュッと軽く唇を添えた。

 突き立てた刃の下で一瞬膨らみ、シュウと音を立てて萎んでいく影。リクは乱れた呼吸を整え立ち上がり、地面から切っ先を引き抜く。同時に影は灰になり消えて、低く鳴く夜風に吹き散らされる。リクは刀を背中の鞘に納めて、口布の内側で短く息を吐いた。

「……歪すぎます、彼らは」

 静かに見据える青眼の先に、地面に倒れたアスカとハスミの姿がある。ふらつきながら体を起こしたハスミは、億劫そうな動作でアスカの体を抱え上げた。

『じゃあ、僕らは正常?』

 静かな声音で囁くシドウの声。リクはインカムに指先を添え、瞼を伏せて応える。

「正常にしてみせます。必ず、僕が」

 フッと柔らかく微笑む気配。正常な色を取り戻した月夜が静かに照らす街。十字を背につけた隊員たちが動き出し、戦闘の後処理を開始する。

 戦闘の後で電池が切れたように意識を失ったアスカを背中に乗せて、ハスミは融合を解いた2組と合流する。まだ明けない夜の中、互いの表情はよく見えない。

「こいつ、命の扱い方から教えなきゃダメか?」

「野良なんだろお? 吸血鬼だし、まあ少なくとも死ぬような目に遭うこともなかっただろうしな。ちゃんと躾けないと、おっさんの命があぶねーかも」

 ハハッと軽く笑っていうヒイラギの口内で、棒付きの硬い飴が転がりカチンと微かな音を立てた。ハスミは背中で微かに声を立てるアスカを振り返り、ハァと息を吐いて体勢を直す。

「ってか、俺ために命懸けんな」

「んぇ……ぅ、いのち、共有して……ぅ……だいじに、する……オレが、まもる」

「そういうことじゃねーよ」

 ポツリ呟いて返すハスミの声の柔らかさに、2組は気付かないフリで目を逸らした。


《2/END》

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