グレン・ヴァンプ1
◇
冷えた夜。静寂の街を見下ろす赤い月。鈍い羽音が空を裂き、飢えた獣の低い唸り声が世界を震わせた。
小刻みな震えが大地を揺らして、長く続く振動に人々は目を覚ます。導かれるように外に這い出て、赤い月を見上げて囁き合う。大地の震えは止まない。静かな路地裏で、硬いアスファルトがビキッと鋭い音を立てて避けた。裂け目から這い出た黒い影は四方に散り、闇を味方につけて空を覆う。
「なに……なん、だ、あれ」
囁き合う声が徐々に大きくなる。人々は身を寄せ合い。奇妙な影が覆う空を凝視した。意思を持つように動く影の端。ギョロッと向いた赤い目玉と視線を交わした人は、ヒッと喉を締めて短い悲鳴を上げる。
ゾワッと足元から這い上がる影が、その人の体を駆け上がり、首筋に到達した。
「ひぅああああああッ!」
皮膚が裂かれ、鮮血が噴き出す。人群れの中から突如上がった悲鳴は周囲に伝播して、反射的に割れた人群れの中で影に噛まれたその人はガクリと膝を着き、赤い空を見上げて吠える。
じゅるっ、じゅ、じゅるる。吸い上げる音と指先から滴る血液。ドウッと倒れたその人の背中がボコッと盛り上がり、中から黒い影が生まれる。
「ひ、ああ、ああっ」
三角の翼を生やしたコウモリのような生き物は、翼を広げて飛び立ち周囲の人に襲い掛かった。
そこから連続で繰り広げられる、血祭りの連鎖。影は次々と人を襲い、襲われた人の背中を裂いてまた影が生まれる。あっという間に膨れ上がった影は空を、大地を覆って蔓延った。一夜にして侵略された街に、クスクスと低い笑い声が響く。生まれた影は笑い声を立てるひとりの始祖の元に集い、夜明けと共に、姿を消した。
◇
天まで突き上げるような白い塔の先端に、ドーナツ型の楕円形が刺さる巨大な建物。権威の象徴のようなそのシンボルタワーから伸びる幹線道路に幾台もの車が行き交う。周辺を歩く人の多くは灰色の制服に身を包み、中には背中に銀の十字架を掲げる軍服姿の者も多い。灰色の一団は皆シンボルタワーの麓で足を止め、IDを翳して建物の中へと足を踏み入れた。
「お疲れ様です! 確認しました! お疲れ様です!」
真新しい守衛バッチを胸に着けたミナミは、翳されるIDを凝視しては姿勢を正して敬礼を返すのを繰り返した。仕草も服装も「新人」を主張するミナミの仕草に、チェックを受ける人も皆苦笑を堪えて通り過ぎる。
ミナミは周囲の視線にカァと頬を赤らめつつ、気合の息を吸い込んで、ガチガチに緊張させた背筋をピンと伸ばした。
「お疲れ様です! んあああ、ストップ! ストップ願います!」
「んぁ?」
灰色の一団の中でひときわ目立つ白。丈の長い白衣を揺らして、寝ぐせのついた後頭部をガシガシと引っ掻きながら手ぶらでゲートを潜り抜けようとする不審者の前に立ちはだかったミナミは、両手を前に突き出し彼の侵入を阻止した。
「なんだい、お嬢ちゃん」
「いやあの、ID出してください! あと制服着てないんで、ちょっとダメです!」
「ID……あー……部屋に置きっぱなしだなあ……顔パスでなんとかなんない?」
「なんないと思います! 規則なんで! ダメです!」
「規則ねえ……」
男は無精ひげの生えた顎を指先で引っ張ってぼんやりと呟いた。ミナミは鼻息荒く両脚を突っ張り、今が一番輝けるときと言わんばかりに全力で男の行動を妨げる。
「なんか君の先輩とか、指導係の人とかいない?」
「現在席を外しております!」
「このレーンだけ空いてると思ったら大ハズレだったな……」
チッと口の中で舌打ちをした男は、白衣のポケットに手を突っ込んでスマートフォンを操作する。
「これ、俺なんだけど。これで通してもらえない?」
「ふぇ?」
鼻先に突き出された画面を目にしたミナミは、大きな瞳を瞬いて首を傾げた。表示されているのはネットの記事で、見出しのトップに書かれているのはこの組織の名前と、そして。
「吸血鬼殲滅策の開発に成功した若き天才科学者、ハスミ……?」
記事を読み上げたミナミは、文字列とハスミとに交互に視線を向ける。
「どこが若いんですか?」
「業界的には十分若いんだよなあ! まあお前さんの若さには敵わないですけどねえ」
「ハスミンうっさーい。朝から新人の女の子脅してなにやってんの?」
背後から響いた高い声。ハスミは肩越しに振り返り、ミナミはハスミの体越しに声の主を見た。またもや現れたイレギュラーな2人組。揃いの白のブレザーにグレーのシャツ、緑のネクタイ。ブレザーと同じ生地のミニ丈のプリーツスカートにグレーのハイソックス。白いスニーカーを合わせた少女は、長いオレンジの髪を掻き上げ艶然と微笑んだ。つり目気味のアーモンド型の瞳は美しいカーネリアン。白い肌に鼻頭に散るベージュのそばかす。薄いピンクのグロスで飾った唇の端を吊り上げて、華奢な掌をヒラッと振る。
「こう、こう、せい?」
呆然と呟くミナミの声を聞いて、ハスミはハァと呆れた溜息を吐いた。
「るせえよツバキ。学校はどうした」
「ミーティングするってシドウから呼び出し。ハスミンとこにもきてない?」
「なんか寝起きで言われた気すんな……朝飯買いに外出たら通勤ラッシュにかち合っちまったんだよ」
「そんで止められてんの。ウケる」
「俺の功績知らねえ新人をゲート係にした人事の配置ミスだろうよ」
「わざわざ新人のゲート選んで通ろうとしたのはハスミンの判断ミスじゃない?」
「選んでねえよ。空いてたんだよ」
「空いてる理由に考えが至らない自分のミスじゃん。てかそこどいて。ウチらも遅刻するし」
「あ、あの、IDをっ!」
口が達者なツバキのペースに飲まれかけていたミナミが、首を伸ばして必死に声を上げる。ツバキはああ、と明るく応じて、スカートの裾を翻して背後を振り返った。
「ヒイラギ、IDだって!」
「え? あー……これでよくね?」
ツバキと同じ髪色と瞳の色。毛先がツンツンと跳ねた短髪に乗せた白いヘッドホンを外しながら、ヒイラギはぼんやりとした声を出す。スッと掲げた左手の甲に刻まれた印を目にしたミナミは、グッと息を詰めて背筋を伸ばし、敬礼の姿勢を取った。
突っ張っていた両手が外され前につんのめりかけるハスミには目も暮れず、緊張した声を張り上げる。
「お疲れ様です! どうぞお通りください!」
「ありがとね」
ヒイラギが掲げた左手の甲に自身の左手の甲も掲げて並べて見せたツバキは、ミナミにソッとウィンクを投げてゲートを通過する。横切る一瞬、2人から視線を逸らしたミナミを見たツバキは、寂しそうに表情を歪めた。エントランスに足を踏み入れた2人は、じゃれ合いながらエレベーターの方角へ消えていく。
「吸血鬼見んのは初めてか?」
ポソッ、とハスミが投げた言葉にビクッと体を震わせるミナミ。薄い茶色の瞳を瞬いて目を逸らしたミナミは、体の前で両手を組んで身を縮こまらせる。
「初めてなわけないじゃないですか。この組織にいる人は大体、なにかしら吸血鬼の被害を受けてて、吸血鬼を恨んでます」
「……だろうな」
真横から見下ろすミナミの首筋に、ポツッと2つ並ぶ赤黒い跡が見えた。ハスミはフゥと短く息を吐いて、黒髪の後頭部をガシガシと引っ掻く。
「でも、お前が見た吸血鬼とは見た目も全然ちげーだろ。ここに出入りしてる吸血鬼は人を襲うことはねえから、安心しとけ」
「……人間と番関係を結んでいて、番の血以外飲めない。吸血鬼の番になった人間は、吸血鬼と命を繋いで不老不死になり、その血は不可侵で、吸血鬼を殺す」
「そうだ。俺が発見した法則、な」
「じゃあ、あなたも」
静かに向けられる瞳と視線を交わしたハスミは、ミナミの視界に自身の左手の甲を掲げて見せる。影も傷もない肌を目にしたミナミは瞬きして小さく息を呑んだ。
「俺の番はまだ見つかってない」
「あ……」
「てなわけで通して」
「いやダメです!」
◇
「だからIDはちゃんと持ち歩いとけって言ったでしょ。なんのために僕が組織全体のシステム改革までしたと思ってるの」
シンボルタワーの最上階、特徴的な楕円形のでっぱり部分に据えられた「対吸血鬼討伐研究所」のミーティングルーム。楕円形テーブルの一辺に並んで座らせたハスミ、ツバキ、ヒイラギを前に、ハァと深い溜息を吐きながら青髪青眼に細いフレームの眼鏡を掛けた青年が行き来する。細身の白いシャツにチャコールグレーのベスト。長い脚を交互に組んで、ストレートの前髪越しに呆れた視線を据えた。
「制服着用も免除してるんだから、簡単な義務くらいちゃんと守って」
「体に埋め込むとかしてくれたらいいんじゃねえの? 携帯させようとするから忘れるんだし」
「自分で縫い付けたらいいでしょう。止めないよ」
「皮膚にかよ」
「なんか文句ある?」
「どうぞ」
スッと無駄のない動作で差し出された裁縫キット。ハスミは差し出された腕の先を見上げて、げんなりと目を細める。
「おいシドウ、リクに冗談通じてねえぞ」
「冗談言ってないからね。いい子だね、リク」
「はい、マスター」
シドウが両手を広げて迎える先に、彼より長身の影が近づいて頭を差し出す。サラッと流れる藍色の長い髪。項の付近でまとめた髪の房が肩の前に垂れて柔らかく揺れる。
シドウは差し出されたリクの頭をソッと撫でて、柔らかな笑みを浮かべた。
「ねー、シドりん! 私たち学校戻んなきゃなんないから、ミーティング早くやっちゃって」
「はいはい、そうだったね。って言っても、大した話はないんだけど」
「ないのかよ。行こうぜ姉ちゃん」
クァッと欠伸を吐いて、ヒイラギが席を立つ。シドウの目配せを受けたリクが素早く動いて、ヒイラギの進路を塞いだ。
「座ってください、ヒイラギ」
「あんたのマスターの切り出しが悪いからな」
「マスターを侮辱しますか?」
「やるか? 新作武器お前で試してやってもいいぜ?」
ヒイラギは後ろ手に手を回し、ブレザーの下に着たベストの裾から奇怪な形の機械を取り出す。リクの青眼が光を揺らし、ヒュッと細い息の音を立てた。
「だーめ、ヒイラギ。シドウの話が終わるまでちゃんと座って」
「リクも。戻って」
「はいよ、姉ちゃん」
「失礼しました、マスター」
ヒイラギとリクは静かに睨み合う視線を交わして離れる。ハスミはひとり蚊帳の外の態度で膝の上に置いたタブレット端末を眺めている。
「来てもらったのにはちゃんと理由があるよ。ツバキ、体調はどう?」
「私? んー、特に変なとこないよ」
「ヒイラギから見たらどう? 同じ意見?」
「まあ、確かに新しい武器の負荷はデカイと思うけど、変わった様子はない、かな」
「私より大変な思いしてるのはヒイラギでしょ? 実質私は銃口向けて引き金引いてるだけだし。照準とか出力の調整は全部ヒイラギがやってくれてるんだから。最近授業中でも寝ちゃうこと多いし」
「授業は別にいいだろ……いいんだよ俺は。頭使うしか脳がないんだから」
「もう、そんなこと言って」
コツンとヒラギノ頭を拳で突くツバキ。ヒイラギは視線を逸らして唇を尖らせる。ツバキはダメ押しのようにヒイラギの肩に頭を寄せた。
「新しい戦闘スタイルでの負担は半々か……新作のロケットランチャー、あれかなりいいね。ツバキも身体的負担がないなら、自在に操れるところまで訓練してほしい」
「でしょ? ヒイラギ作の武器は最強なんだから」
ヒイラギの肩に頭を寄せたまま、ピースサインを掲げるツバキ。照れたように顔を歪ませるヒイラギの仕草に苦笑したシドウは、手にした端末に文字を打ち込む。
「で、ハスミだけど」
「んぁ?」
「なにかの分析中?」
「大丈夫だよ、シドウ。ハスミのおっさん株やってる」
ケッと呆れた息を吐きながら密告するヒイラギ。ハスミはギクッと体を強張らせ、ぎこちない視線をシドウに向けた。
「資金稼ぎに熱心なこと。研究成果示さないから出資打ち切られるんだからね?」
「50年は食ってける世紀の大発見しただろうが、タダで資金寄越せよ世間」
「発表したときは5年は食ってけるって言ってたよね? そこから10年経ってるんだから文句言えなくない? あといつまでも若手気取りもそろそろキツイでしょ」
2重のパンチを食らって深く項垂れるハスミ。涼しい顔でいるシドウを睨みつけ、昨日から髭を剃っていない顎を撫でた。
「ハスミンさあ、ゲートマンの新人の女の子に10年前の記事見せてゲート通ろうとしてて、そんで『若くない』ってツッコまれてんの、ウケるよねえ」
「なかなか見込みがあるね、その子。ウチの事務員で採用しようか」
「若くない若くないってうるせえな! 若かったろうがよ! 現に今でも結構若いわ!」
ガァと吠えたハスミに全員が白けた目を向ける。ハスミは周囲の気配を察して椅子に座り直し、グッと強く顎を引いた。
「焦る気持ちも分かるよ。それに、番を見つけてほしいという願いは何もハスミだけのものじゃない」
静かに息を吐きながら指導が言う。ハスミは歪めていた唇を解いて、フッと短く息を吐いた。
「見つけるもなにも。俺の番は決まってる」
「……実際に出会わなきゃわからないもんじゃないの?」
「実感こもってねえぞ、シドウ」
ハスミが向けた鋭い視線に、シドウは冷めた目を返す。
「そもそも番は引き合うようにも出来てんだ。最前線に立ってりゃ、いずれ出会えるだろうよ」
「いずれ、じゃ困るんだって言ってるんだよ」
「じゃあ、今夜だ」
「へえ。大きく出たね?」
「俺の勘は当たるんだよ」
ハスミはハッと息を吐き出すように笑って椅子から立ち上がる。白衣の袖を強く掴む手が微かに震えているのを見て、シドウは静かに目を伏せた。
「最前線に、ね。確かに、血清打ってるって言っても武装してない丸腰で一番危ないとこに立ってる度胸は本当にすごいよね、ハスミン」
ツバキはオレンジの毛先を指先に絡め、くるくると遊ばせながらぼやく。
「事実、焦ってんだよな。人間の寿命は短いし」
「一番寿命を欲しがってんのは、ハスミンなんだもんね」
黒いネイルで飾った指先に自身のオレンジの瞳を映してツバキが言う。ヒイラギはギュッと唇を引き結び、静かにツバキを見つめるシドウの横顔にリクが複雑な目線を向ける。
「そもそも今夜、戦闘になるのかな」
「わかんねえけど、当たるんだろうよ。おっさんの勘は」
「勘っていうけど、実際天才なんだと思うよ、あの人。だってずっと吸血鬼に対する対抗手段見つかってなかったのに、番の力発見して、即実践投入させてくれるなんてさ、本当にすごいよね」
ツバキはネイルから視線を逸らして、ぼんやり天井を見上げて呟いた。シドウはタブレットに視線を落とし、前回の戦闘データを表示させながら独り言のように呟く。
「吸血鬼が人間を襲い始めてから200年以上。最初の災厄で一気に数を増やしてからは100年単位での侵攻にはなったわけだけど、その度に人間は成すすべなく捕食されてたっていうしね。ハスミの発見と、実際の番であるツバキ達が機能し始めてから対処は劇的に進化したわけだけど、同時に吸血鬼が襲ってくる頻度も増している」
「もう、人間が全部食べられちゃったエリアもあるんだっけ」
ツバキは虚ろな表情のままでエナメル質のテーブルを撫でた。
「人間を捕食したいって欲、しんどいって思うのは私の家族がみんな人間だからで、私が割と特殊な立場なわけなんだよねえ」
「だがハスミの理論で言えば、番関係を結べるのは吸血鬼と人間の間だけってことでしょ。だから本能的に人間を襲うことを躊躇う吸血鬼もいる」
「いつかどこかで出会えるって、運命信じちゃってるのかな。それでも、食欲に勝ることは稀なんでしょ?」
「ツバキ」
どんどん表情が固く、声も冷たい響きになっていくツバキの掌を、包み込むようにヒイラギが握る。ツバキは自身の手の上に乗ったヒイラギの手を見てフッと淡く微笑んだ。
「ヒイラギは優しいねえ」
「優しいとかじゃねえから」
「私は幸せだと思うよ。吸血鬼が幸せになるには、番に出会うしかないんだと思うしね」
2人のやりとりに目を細めるシドウ。リクはシドウの表情を見て、痛そうに顔を顰める。
「吸血鬼に幸福追求欲があることを願うばかりだね。とにかく、体の負担がそんなに無いならよかった」
「うん、私は平気。ヒイラギの作る武器はちょー凄いし、それに最近はリクも腕上げてるよ。シドりんちゃんと褒めてあげて」
「それはもう。リクは僕の自慢のパートナーだからね」
ピクッと背中を震わせたリクは、シドウと視線を合わせて柔らかく表情を緩めた。
ツバキは椅子からピョンと飛び降りて、スクールバッグを肩にかける。ツバキに倣ってヒイラギも椅子から降り、首にかけていたベッドホンを頭に戻した。
「んじゃ、うちら学校いくね!」
「うん、朝早くからごめんね。気をつけて」
「はーい」
陽気な声で言いながら、ツバキはヒイラギの腕に体をぶつけるようにして寄り添い、自動ドアをくぐる。閉じ際に振り返り、同じ色のオレンジを室内の2人に向けた。
「じゃあ、また夜に」
◇
車通りの絶えた車道の上に踏み出す革靴の足。丈の長い白衣の裾が風を受けて静かに揺れる。大きな掌に乗せたノートパソコンの画面には、縦横の線に変化された一帯の地図が表示され、ハスミは眼鏡の内側で瞳を細め、唇から細く息を吐いた。
「当たったろ? 俺の勘は」
シンとしたまま応答しないインカムにグッと唾を呑んで。片手でキーボードを弾き、展開させていく情報と計算式。レンズに反射して流れていく白い数字の羅列。男は文字列を追って瞳を動かしながら、ゾワゾワと湧き立つ背中の気配に舌打ちをした。
「……結局、どんな計算式より感覚の方が制度が勝るなんて、認めたくない話だな」
『ハスミ? 何か言いましたか?』
『ハスミン、はっきりしゃべってよ! 聞こえなぁい』
集中していた意識を搔き乱す音。反応してほしくない独り言にはあえて反応を返してくるリクとツバキの声に、ハスミはグッと喉を締めて苛立ちをやり過ごし、頭に装着したインカムに向けて低い声を出す。
「シドウ、ヒイラギ。リクとツバキを黙らせろ」
『リクは正常に反応しただけだよ。いい子だね』
『ツバキも同じく。姉ちゃんナイス』
「……っだあ、もう」
それぞれに盛り上がる2組とそれ以上のやりとりを放棄したハスミは、PC画面から顔を上げた。ハスミを最後列に配置した武装部隊。それぞれの隊服に刻まれた銀色の十字架は、いにしえから語り継がれる伝承に由来するお守りのようなもの。
一点に向けて並ぶ銃口に苦笑を浮かべたハスミはゾクッと湧く背筋の感覚を堪えてPCのエンターボタンを押した。
高い周波数の警告音が鳴り響き、銃口が地平線へ向けられる。――ザッ、と。赤い月影に逆光になって出現するシルエット。ヒッと次回悲鳴を上げて銃口を避けた隊員の元へ、漆黒の影が飛んでいく。
「上空に1体、中級吸血鬼を確認!」
「速い……!」
打ち込まれる弾幕を搔い潜り飛翔する影は、怯んだ隊員の元へ一瞬で到達し、彼の上に圧し掛かる。
「ぐわ……ッ!!」
アスファルトに蜘蛛の巣所に広がる亀裂。ジュウッと鈍い音が立ち、またヒラリと影が飛び上がった。
「隊員が噛まれた! 低級吸血鬼の出現に備えて、総員、構え!」
隊長の号令を受けて、地面に倒れた隊員の上に一斉に向けられる銃口。隊員は意識を失い、呼吸もなく動かない。やがてヒクンと体が跳ね上がり、うつ伏せに向きを変えた背中の十字架を突き破って羽根の生えた生物が飛び出す。
「もらいます!」
引き金が引かれる前に、先頭で銃を構えた隊長の目の前に翳される掌。ヒラリと青い影が舞う。高い位置で結んだ豊かな青髪が翻り、冷たい夜の空気を撫でた。
闇夜を一閃する銀の切っ先。生まれたばかりの影は真ん中から上下2つに割られて裂け、シュウと音を立てて霧散する。
口布でした半分を隠した顔。忍者を思わせる濃い紺の服装。胸の前に袈裟懸けに吊り、背中に負った鞘の中へ刃を納めた戦闘スタイルのリクは、伏し目の瞼の隙間に蒼玉の瞳を静かに覗かせた。
「うわあああ!」
続いて上がる悲鳴と、次々飛び出して来る影。隊員の群れが割れて、銃声が次高く鳴り響いた。
「はいはーい、お任せえ!」
陽気な声と舞い踊るオレンジ髪のツインテール。そばかすの鼻頭を指先でピンと跳ね上げたツバキは、自分の背丈の2倍はある武器を構えて、飛び出した影群れに向けてロケットランチャーの砲弾を放った。
「どーん!」
声と同時に白煙が起こる。たっぷりのパニエに重ねたスカートがはためき、白いフリルが踊った。立ち上る煙の中に立ち消えていく影の欠片。
「みんな、ちゃあんと避けた? 全部やっつけてあげるからね」
パチンと片目を閉じる溌剌と輝くカーネリアン。妖艶に微笑む顔に、隊員たちの視線が釘付けになる。
ハスミは迅速な対応を傍観しつつ、手元の画面に目を落とした。縦横に交わる線の上に、ポツンと光る赤い点。
「赤……。来たな」
『どうした、ハスミ』
「すまない、シドウ。現場指揮は任せる」
『え、ちょ……どこ行くの!?』
『おっさん!? ひとりで行っちゃ危ねーって!』
「いいから。ヒイラギもシドウのサポートを頼む」
『はあ……もう。高くつくぞっ』
ハスミはPCとインカムをその場に置き、頭に記憶した位置に向けて走った。
すぐに疲労がたまりダルさを覚える脚と、上がり始める息。不格好な息を吐きながら、ハスミは胸の前を押さえて、痛み始める胸から懸命に意識を逸らす。
「この、ポンコツ……」
ジワッと滲み出す汗と、酸欠でキュウと締まったように痛みを訴えてくる脳。揺れる視界を瞬きで慣らしたハスミは、壁に手をついて抜けそうになる膝を支えた。
「はぁ……は……ハァ……」
俯けた頭に、徐々に濃く染み込んでくる獣の息遣い。ハスミは口内に溜まった唾を強く飲み下して、霞む眼を細めながら前方へと視線を向ける。
月影の死角。沈んだ暗闇に微かに動く塊。低い唸り声と、息遣い。ハスミはふらつく膝を叩いて上体を起こし、革靴の足を地面に擦り付けた。
「よお……ようやく見つけたぜ、“赤の吸血鬼”」
暗闇の影はハスミの声に反応してビクッと身を竦める。薄闇の中で凝らす瞳。見返して来る双眸のルビー色に、ハスミは唇の端を吊り上げながら目を細めた。
膝を抱えて蹲っていた影は、ハスミの姿を凝視したままゆっくりと顔を上げる。ハッと開いた唇の内側に覗く異常に発達した犬歯。ヌラッと光る唾液の影に、ハスミは一瞬息を詰めた。
「……ッ!」
その僅かな隙をつくように、刹那内に視界から影が消える。ハスミの視界は大きく反転し、視界の先に赤い月が映る。ビリッと強い痛みの走る背中に顔を歪め、顔の横に散った地面の破片に乾いた笑いを吐いた。
「ハ……ッ……」
空気が鋭く動く気配に、反射で顔の前に掲げた腕に鋭い痛みが走る。
「……っ、ぅ……」
突き立てられた牙が沈む度、熱い痛みがジワジワ肉を裂いて脳を焼いた。ハスミは強く息を吐いて痛みを堪えつつ、表情に湛えた笑みは消さないままに口を開く。
「腹減ってんのか? なあ。その割には、飲みかた下手くそだな」
「ふ……ぅ……ッ……ン……」
間近で見交わす瞳の赤。表面を潤ませた瞳は苦痛のように歪み、顎を伝って血液が滴り落ちる。腕の影に覗く喉は、一度も上下していない。ハスミは一度目を伏せ、ハァと長く息を吐いてから体を起こした。
「なあ、違うだろ?」
ジワァと滲み出す脂汗。けれどもそれより、逸る鼓動で心臓がはち切れそうな程にドンドンと強く内側を叩く。ハスミは噛まれた腕をグゥと押し返し、突き立てられた牙を引き抜いた。
「痛ってぇな……」
ジンジンと強く脈動する痛みを無理やり無視して、ハスミは噛み跡の残る腕を強く振った。
反動で後ろに尻をついた彼は、口の端から血を滴らせ、小刻みに震えている。ジッとハスミを上目遣いに見つめる瞳には覚えた色が滲んで、血で濡れた唇からは荒い息が零れた。
「は……あ……ぁ……」
「飲んでねえか。口に合わないってことはねえよな。一度は意識飛ばしかけたんだから」
ハスミは目の前の彼に視線を這わせ、ジィと静かに観察する。長すぎる前髪と、薄汚れた服装。銀髪の隙間から覗く印象的な赤の他は、色素が薄く白の印象が強い。
フム、とひとつ息をついて。ハスミは自身のシャツのボタンに手を掛けた。止めていたボタンを外して前を開き、グッと下に引っ張って彼の前に晒す首筋。
視線を据えたままでいた彼の瞳の赤が零れそうに見開き、一瞬、金色に輝くの目にする。
「こっちだ」
息を呑む一瞬。揺れる影の残像を追う間もなく、深く首筋に沈む牙。
「……ぅ、ぐぅ……っ」
飛び散る雫が地面に散り、ゴクン、と嚥下する音が耳底に貼り付いた。
ハスミは目を閉じて、自身の体の反応へ意識を向けた。体中を巡る血液が湧き立ち、ボコボコと音を立てて脈動する。駆け抜ける感触は指先まで渡り、全身を熱く発火させていく。
「は、ぁ……」
ゾクゾクと震える背中。体の中央で、心臓が弾けたような熱の感触が廻った。吐き出す息が熱い。脳細胞のひとつまで、現れ、生まれ変わる感覚。
「ふ、ぅ、ぅ、ッ……あ、ぁ……」
パキンッ、と。何かが割れるような音が脳内で閃く。植え付けられる種のイメージから、ツタが伸び、根が張っていく。
シャツの襟を掴んでいた手が力を失い、地面に落ちて。血管を突き破り伸びたツタが意思を持ったように動き回り、ハスミの甲に紋様を刻んだ。
「ん、ぐぅ……ふ……は……ァ……ン……っ、はぁ……あ……あれ……?」
赤目の男は突き立てていた牙をズルリと抜き取り、両肩を下げて淡い息を吐く。金色に光っていた目は元の深いルビー色へと変化して、白い頬に微かに赤みが灯った。
「オレ、どうしたんだっけ……」
パタタと瞬きして取り戻していく体の感覚。周囲の光景を認識できるようになったところで、ズルッと自身に乗りかかる体に気づく。
「ヒッ……!? うわ、えぇっ、死んでる!?」
「ギリ、死んでねーわ……」
反射で突き飛ばされた体を揺らして、ハスミは頭を押さえて起き上がった。パタッと瞬きして男と目線を交わした瞳は、赤い色に変化している。
「上手くいったか……っしゃあ……!」
フハッと破顔したハスミは、拳を握ってガッツポーズをした。男は混乱した表情のままでパタタ瞬きを繰り返し、ゴクッと強く喉を鳴らす。
「お前、名前は?」
「あ、……アスカ……」
「俺はハスミだ、よろしく」
ハスミは開いたシャツの前を閉じながら、袖丈の余ったシャツをグッと引っ張った。
「は? だいぶ若返ってんな……お前、若いだろ」
「うぇ、たぶん……ってか、あの」
「なんだよ」
「噛まれたのに、生きてて、ザコバンプも生んでないって、あの」
「……ああ」
「お化けさんですか?」
「吸血鬼のくせになんだそれ。ってかまあ、俺も同族になったわけだけど」
「ど、どうぞく……?」
「初めまして、俺の番」
「つが、い?」
空を裂く低い咆哮。赤い月が陰り、2人の姿を薄闇が包んだ。ハスミはハッとして耳に手をやるも、そこにインカムがないことを思い出して舌打ちしながら立ち上がる。
「話は後だ。行くぞ」
「行くって……この声、上級吸血鬼の」
「だからだろうが」
「うぇええ、い、いや、むり、怖い! オレ、吸血鬼って言っても全然、力も弱くて、人間の血吸ったのも、さっきが初めてで……!」
「は……?」
ハスミの見開いた瞳に、アスカは身をビクッと震わせ縮こまった。ハスミはフッと息を吐いた後で、明るい笑い声を立てた。
「ハハッ、初めてってマジか。それにお前、怖がりなの?」
「う、はい……」
「心配すんな。お前はもう、二度と人間の血を吸わなくいい」
「ぅえ……?」
「というか、もう吸えない」
ハスミはアスカに歩み寄り、左手を取って掌を返す。
「えっ、なに、コレ……?」
アスカの見開いた瞳に草が絡みついて炎のような図柄を浮き立たせる紋様が映った。ハスミは自身の掌も返して、アスカと同様の印の刻まれた左手の甲を見せる。
アスカは食い入るように紋様を見つめた後で、恐々した視線をハスミに向けた。ハスミはアスカの赤目を見つめ返して唇の端を吊り上げ、持ち上げたアスカの指先に唇を添える。
「お前は俺のものだからな」
キラッと一瞬、アスカの瞳に光が揺れた。アスカは控えめな喉仏をゴクンと大きく上下させ、肩を強張らせて少しだけ身を引く。
「ひぇ……イケメン……」
「言語センス染まってんなー。はいじゃあ、行くぞ」
「ぅえええ……」
ハスミがアスカの手を引いて路地を出た瞬間、ブワッと強い風が吹き抜ける。
「……わぉ」
「え、なに、なになに……っ、ひっ……!」
路地から顔を出して周囲を見回したアスカは、短い悲鳴を上げてハスミの後ろに身を隠した。白衣の影からもう一度目にした光景。広い車道を埋め尽くすように倒れた隊員たち。一様に背中の十字架が裂け、周囲には黒い影が大量に浮いている。
「ザコヴァンプ……どんだけ……」
「まあ、ザコは問題ねえだろ」
「問題ない、って……!」
焦って声量を上げたアスカの声に、黒い影が反応して一斉にこちらを向いた。アスカは再び悲鳴を上げて、ハスミの背中にしがみ付く。シャァァァと空気を裂くような方向と、足元に降り積もり濃さを増す影。一斉に襲い掛かる気配にも、ハスミは静かに呼吸するだけで動かない。アスカは何度か顔を上げようとするも、白衣をただギュッと握りしめることしかできずに、強く目を瞑った。
「アスカ」
ふと、脳天から突き刺すように全身をビリッと震わせる声。アスカは指先まで駆け抜けるその感覚に促され顔を上げる。
目にしか視界の先。黒い膜のように覆いかぶさりかけた影が一直線に裂け、次いで、横から放たれた衝撃派で散り散りになり霧散した。
「え、ぁ……」
「ハスミンじゃん。おかえりぃ!」
「遅かったですね、ハスミ」
銀の切っ先を閃かせたリクと、巨大な銃身を抱えたツバキが揃ってハスミに手を振る。
「え、ねえ待って? ハスミンなんか若返ってない!?」
「本当、ですね……? マスター・シドウより若いかも……」
リクがポソッと呟いた後、リクは耳を押さえて蹲った。なにやらブツブツと低い声でやいとりを交わして、リクは再び何事もなかったように立ち上がる。
「戦況がだいぶ悪いようだが、お前ら2人ともダメージ少なそうな状況でこれはどういうことだ?」
「ダーケストのレベルが高いです。今まで対峙したどのヴァンプよりも、ずっと」
「そーそ。ザコも次々沸いてくるし、キリがなくてやんなっちゃう!」
「なるほどな。元を断つしかねえか」
空気を一掃するように吹き抜ける強風。ハスミは掲げた腕の内側に顔を隠してやり過ごし、パタッと瞬きした目で空を見上げる。
「もうすぐ夜明けだ……マズいな」
「プロフェッサー・ハスミ、何か手はありますか?」
ジッと無言で注がれる青い双眸とオレンジの双眸。ハスミは頭上を悠然と飛ぶ影を見上げたままで口を開いた。
「俺が行く」
「え?」
「はあ?」
怪訝な声を上げる2人の前に、ハスミは左手の甲を突き出して見せる。
「それ、契約の印……えっ、ハスミンの番見つかったの!?」
「さっきからお前らの目の前にいるだろう」
「え?」
「あ、ほんと」
「う、ぅ、んぇ……?」
ハスミの背後を覗き込んだ2人から捕捉されたアスカはビクッと身を震わせ戸惑いの声を上げた。
「子供? ではないか、一応大人だね。私より年上っぽい?」
「僕よりは確実に年上でしょうね。それでも、吸血鬼としては若い方でしょう」
「あ、ぅ……オレ、おれ、は……」
「いずれにせよ初陣だからな。2人ともサポートを頼む」
「かしこまりました」
「おけおけ」
リクは長い髪を翻し、ツバキは癖毛のツインテールを揺らして方々に散っていく。ハスミは上空の影を睨みつけて、ゆっくりと左手を持ち上げた。
「ハスミ、さん……なにを」
「あいつらもお前と同じだ」
「え……?」
「これで俺もやっと戦える」
背中から覗き込んで目にしたハスミの微笑に、アスカはゾクッと背中が震える感覚を味わう。ハスミの赤い瞳は愉悦を湛えて輝いて、頬に仄かな赤が滲んでいた。
「たたかえ、るって……」
「血の契約だ。お前の体、借りるぞ」
「うぇ、え……っ、えぇっ」
「融合」
振り上げた左手の甲を噛み跡の残る首筋に当てるハスミ。短く発した言葉を合図にして、手の甲に刻まれた印が動き、首筋に吸い込まれていく。
「ひぅ、う、あ……わぁああ!?」
絡みつくツタはハスミの白衣を裂いて、アスカ目掛けて伸びてきた。眼前に迫るツタを反射で背中を反らして避けたものの、ツタは目的地を定めたように角度を変えて、アスカの左手を捉える。ハスミのツタが届いた先で、アスカの手の甲の印も動き、シュルシュルと滑らかに絡み合った。美しく編まれていくツタに目を奪われたアスカは、絡み合ったまま自身の中に入り込んで来るツタのイメージを目を閉じて受け入れる。
「……ッ……ん、ぁ……」
鼓動が全身で鳴り響く。喉が焼けるように熱くて、微かに開いた瞼の下で熱い雫が滲んで揺れた。
「は……っ……」
息を吐いて、ぼんやり滲む視界に映す像。斜め下を向いて目にした自身の両手は赤い装甲で覆われ、軽く握るだけで力が行きわたるのを感じる。
「は……ぁ……なに、が……」
戸惑い見回した視界に、路地の角にあるショーウィンドウが映った。掌を覆う赤い装甲は全身も覆っていて、ヘルメットのような装具の隙間に僅かに瞳が覗いている。装甲は緑や青に変わる不思議な光を反射していた。
「うぇ、なに、これ……!」
『上手くいったな』
「ハスミさん! どこに」
『本体は、お前の足元』
「んえぇぇっ!?」
身元で直接響く声とは裏腹に、ハスミはアスカの足元に倒れていて固く瞼を閉ざしている。
「え、どういうこと? ハスミさんやっぱり死」
「死んでねえって。俺は今お前と融合してる。お前の力で、お前の脳だ」
「オレ、の……って、なんで……」
『戦え、アスカ。お前がダーケストを倒すんだよ』
「う、うそ……っ!?」
戸惑う間にまた強い羽音と低い咆哮がアスカの頭上で渦巻く。アスカは襲ってくる巨大な影に頭を抱えて、その場に蹲った。
「む、むり、むりむりむりぃ……っ!」
『怖がりにいきなり実戦は荷が重いか……わかった。ちと負担はデカイが、代われアスカ』
「変わ……っ……」
フッと真っ白になる視界。反射で瞑った目を再び開いた時、さっき目の前で見ていた像が遠く、穴の中から覗くような形で見える。
「ハスミ、さん」
「お前はそこで見とけ。大丈夫、絆が強けりゃ、パワーも強い」
「きず、な……?」
アスカは無意識に重ね合わ太両手を強く握った。左手の甲がずっと熱を持っていてヒリヒリ痛む。全身に分からせてくるような感覚にハァと息を吐いて、アスカは目の前で展開される戦闘ビジョンを祈る思いで見つめた。
放たれる金色の弾丸のような軌道はハスミの放つ攻撃。美しい曲線を描いて次々飛来しては巨大な影に打ち込まれてその形を削り取っていく。影の咆哮は高く苦し気に変わり、確実な手ごたえを覚えた。
「すごい……」
息を詰めて見つめていたビジョンがガクンと揺れる。アスカは遠い像に向けて身を乗り出し、声を張り上げた。
「ハスミさん!? どうしたの」
「く……っ、は……体が、重くて」
「えぇ……」
『ハスミン! ねー、やっぱ見た目若くなっただけで体力ザコなの全然変わってないんじゃん!』
『ハスミ、無理しないでください』
「っても……、俺が無理しないで、どうすんだよ……あいつ、倒さねえと」
「あ、ぅ……ぁ……は、ハスミさん!」
地面を映すビジョン。アスカは冷たい指先を握りしめ、自身の内側を執拗に叩く鼓動の音に硬く目を瞑る。
「オレ……オレが、いく。代わってください」
「……いいんだな」
「だって、このままじゃ、ハスミさんが」
俯いた視界の端に映る、手折れたままのハスミの体。壊れた建物から落ちた破片が降りかかり、顔に傷も出来ている。
「怖くないか?」
「こわい、けど……オレも、ハスミさんみたいにできるんですよね」
「まあな。言っただろ? 絆が強けりゃ強い。腹決めろ、アスカ」
「……はい! オレは、ハスミさんを守りたい。口悪くて強引だけど、オレの願いを叶えてくれそうだから」
「いいぜ、叶えてやる」
静かに左手を持ち上げたアスカは、自身の首筋に手の甲を強く押し当てる。一度出て行ったツタが再び体に入り込むイメージ。編み込まれたツタが一度視界を覆い隠し、開けるクリアな視界。そこにバッと飛び込んで来る巨大な影。アスカはヒュッと息を呑み、背中側に引いた拳を一気に前へ突き出した。
巨大な影が二つに折れて、強い風を起こしながら空へ舞い上がる。傾きかけた月に掛かる影。アスカはヘルメットの隙間の視界からゆっくりと落ちてくる影を見つめ、落下点に入り込みスゥと息を整えた。足元に倒れたハスミを一瞥したアスカは、金色に輝く瞳を目の前に向ける。
「守る、絶対に」
低く呟き、強く握りしめる拳。意識を集中させ力を込めた先に、碧と緑の頬が宿りブワッと大きく燃え立った。
「この人に、触るなあ!」
渾身の叫び共に上空に向け突き上げた拳から光の炎が立ち上り、一直線に影を引き裂く。聴覚では聞き取れないほどの高い咆哮を上げた。
影が完全に消えた後で、白く染まり始める空。俯けた頭を上げると、全身の装甲が消えているのが目に入る。
「あ……、あ! ハスミさん!」
ハッとして視線を向ける傍ら。相変わらず倒れたままのハスミは、埃や破片に埋もれて顔が見えない。アスカは半泣きになりながら降り積もった塵を避けて、うつ伏せになったハスミの顔を覗き込む。
「うっ……やっぱり、死……」
「え? ハスミン死んじゃった?」
「本当? それは困るねえ」
「え、あ? え、え」
突然背後に現れた長身の男性と、制服姿の男子高校生。朗らかな笑みを湛えたシドウは、ヒラッと優雅な仕草でアスカに手を振る。アスカは彼にペコッと頭を下げて応じた。
「俺はシドウ。よろしくね」
「あ、ぇ、は、はい……えと、……っ!?」
自己紹介をする流れに乗せて、アスカはシドウの隣に立っていたヒイラギに視線を向けようとした。けれども、そこに彼の姿はない。
「こっち」
「ひゃあお、ぁ」
いつの間にか至近距離まで近づいていたヒイラギの顔に、アスカは驚き飛びのく。
「へえ、お前がおっさんのパートナーか。名前は?」
「あ、アスカ……」
「アスカな! 俺はヒイラギ! よろしくな!」
「あ、はい、よろしく……」
「ねーえ、私も挨拶したい!」
「姉ちゃん!」
ヒイラギと同じ高さに突き出される目線。2つ並んだ同じ顔にアスカは戸惑う視線を向けつつ、ゴクッと強く唾を呑む。
「さっき会ったよね。私はツバキ。ヒイラギの双子のお姉ちゃんだよ」
「ツバキ、さん……あ、さっきの、でもあの、格好が……」
「うーん?」
ツバキは目線を下に落として自身の服装を見た。ツバキは今、元と同じくヒイラギと揃いの高校の制服を着ている。
「あれは戦闘服だよお。アスカっちの赤いスーツと一緒。あれカッコ良かったねえ」
「ちょ、姉ちゃんアスカと顔ちけーって。あとしゃがむのダメ、パンツ見えんだろ」
「中履いてるし! 私の方が先にアスカっちと面識あるんだから。ねー、アスカっち」
「姉ちゃあん……」
情けない声を出すヒイラギに苦笑で返して、アスカはもう一人増えた気配に視線を向ける。
「あ……」
「りっくん! おっつー!」
「お疲れ様です。ツバキ、ヒイラギ。それに、アスカ」
「あ、オレ……?」
「僕はリクです。分かりますか?」
リクは目を細めて言い、口元を掌で隠して見せた。戦闘時に目にした口布姿を思い出し、アスカは強く頭を振って頷く。
「ハスミは死んだんですか?」
「あ、そうだった」
「どいつもこいつも、勝手に俺を殺すな……ギリ生きてんだよ」
うつ伏せの姿勢のまま、フハッと塵を吐き出しながら低い声を出すハスミ。
「よかったあ……生きてたあ」
心底安心した声を出すアスカに、ハスミはパタッと瞬きして視線を向けた。
「俺は死なねえさ」
「う、そう言っても、人間は死んじゃうし……」
「おっさんはもう人間じゃねえだろ」
「え?」
しゃがんだままの姿勢のヒイラギが言う。キョトンと目を丸くして首を傾げるアスカの左手に指を引っかけたハスミは自身の左手を持ち上げ掲げた。
ハスミの動作に倣うように、他の全員も左手の甲をアスカに向ける。それぞれの手に、微妙にデザインの異なる形で刻まれた印。
「吸血鬼と番契約をした人間は、番となる吸血鬼と命を繋ぐ」
柔らかい口調で言ったシドウは、傍らのリクと視線を交わした。リクはシドウに向けて甘い笑みを浮かべ、彼に寄り添うように腕を触れ合わせる。
ヒイラギとツバキも、お互いに立てた小指を絡めて笑い合っていた。アスカはハスミと視線を交わし、自身と同じ色の赤い目を覗き込んでゴクッと強く喉を鳴らす。繋ぎ合わない左手の模様を見つめて、アスカは瞳のルビーを揺らした。
「そういうことで、君ら吸血鬼の命は俺らのものだし、俺らの全部は、お前らものってこと」
「ざっくりいうと、まあそうだ」
シドウの言葉を受けて、ハスミはノソッと体を起こす。しかし背中がわずかに浮いただけで、すぐ潰れたハスミは地面に伏した。
ビルの隙間から差す朝陽が戦闘の傷が残る街を染め上げる。倒れたいた隊員たちはめいめいに起き上がり、瓦礫の処理などを始めていた。
「よろしくな、相棒」
「……はい」
ハスミの言葉に躊躇いつつも頷いたアスカは、動き出す運命の予感に、乾いた瞼をヒタリと伏せた。
《1/END》