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誰よりも愛されたくて愛したい寂しがりやで独りぼっちの神さまが最愛に出会うお話

サブタイトルは「最果てのエメラルド」


(https://novel18.syosetu.com/n3060jw/1/)の依澄の弟のお話。

前作を読んでいなくても読めます◎


氷雨(ひさめ)……竜神の弟で、禍いと嵐の神と呼ばれている。 本人に自覚はないが、実は犬系男子で好きな女の子には尽くしたいタイプ。 女性と間違われるほどの美形で女顔。 ヒメさんと呼ぶと海が荒れるので禁句。 誰にも愛されず誰も愛さず生きてきたため、自分を受け入れてくれた澪に依存している。


(れい)……海の切れ間、あの世とこの世の間に落ち、氷雨に拾われた少女。 記憶を全て無くしており、澪という名前は氷雨が付けた。



*合言葉は溺愛、執着、寵愛、狂愛!


*一人称や名前の表記がコロコロ変わるのは仕様です。


*人様の地雷に全く容赦がありません。

なんでもオッケー!な方はぜひお楽しみください!



ーー





──ぽつぽつ、ぱらぱら。



今宵も、この世界の辺境にある寂しい海に氷のように冷たい雨が降る。


それは、この灰色の海の化身、独りぼっちの神さまの胸中を表しているかのようで。


しとしと、ぽたり、ぽたり。


天から滴り落ちる雫が、水面に円を描く。



刺すように冷たい雨を一身に受けながら、男が一人海に漂っている。


元は空色だった灰色の着物、かつて虹の光を映していた羽衣、開かれることのない目蓋。

その全てが、今は世界の全てを拒絶していた。


ふぅ、と男が微かに息を吐けば、雲は渦巻き、空には稲妻が走る。 大粒の雨が、その陶器のような肌を叩く。


それでも男は目を開けない。

開けたところで、何も変わらないから。

何も己を抱きしめてくれないから。


心の中は、常に孤独が占めていた。




『存在が悍ましい』

と父は言った。


『何故良き兄に似なかった』

と母は嘆いた。


『可哀想なひと』

と妹は憐れんだ。


ただ、愛されたかっただけなのに。




ばらばら、ざぁざぁ。

大粒の雫が水面に叩きつけられる。



男は、雨が嫌いだった。

それでも、雨は降り頻る。


男は、泣くことができなかった。

泣き方を知らなかったから。


男は、愛を知らなかった。


愛されたことが、なかったから。






誰も訪れることの無い世界の最果て。


偶然、世界の切れ間に迷い込んでしまった一人の女に、男は恋に堕ちた。




二人が出会う運命の日までは、あと──。







ーー




揺れている。 否、揺らされている。


震える吐息も凍えそうな冷たい雨の中、傘も差さずに進む小さな舟があった。 漕ぎ手は二人、船客は一人。 おかしなことに、少女は白無垢を着ている。



目を開ければ、きっとここは海の上だ。 どこまでも続く水平線が見えることだろう。 だがそれは叶わない。 場違いの白無垢を着せられた私は、これまたこの場に似つかわしくない目隠しをされ、手足を縄で結ばれているのだから。



真っ青な海に純白の白。

波が荒れればすぐにひっくり返ってしまいそうな小さな小さな木舟。 お粗末な飾り付けがされた、花嫁を最果てへ運ぶ舟。



ゆらり、ゆらり。


私を乗せたそれは、真っ直ぐに沖へ沖へと向かう。


ちゃぷん、ちゃぷん。


海へと誘う水音だけが鼓膜を揺らす。



しばらく揺らされていると、少しだけ収まった。 船が止まったのだろう。


人が近づいてくる気配がする。 目隠しを外してくれるのではない。 縄を解いてくれるはずもない。


私は今から、この海に贄として捧げられるのだから。



「海は冷たいんでしょうか」


答えは返ってこないとわかっていても、平静を装って問いかけた。

真冬の海だ、冷たいに決まっている。 きっと、あまりの寒さに凍え死ぬのだろう。


「……みなさん、どうかお元気で」


贄として海に捧げられることに、恨みなどはなかった。 怒りも、憎しみもなかった。 心残りが一つだけあるとすれば、それは小さな弟の育つ姿が見れなかったこと。 そんな彼も随分前に亡くなっているけれど。


天涯孤独の女は、村にとっては目の上の瘤だっただけ。

私が選ばれた理由など、ただそれだけだ。


海が荒れて漁に出れず、廃れる村のために若い娘を竜神に差し出す。

どこにでもある物語の登場人物に選ばれただけ。


最近は特に海が荒れて酷い。

竜神様のご機嫌が良くないようだ。

しかし今日ばかりは、誘うように穏やかで私を歓迎しているよう。




両側から腕を掴まれ、立たされる。 一拍置いて、小舟から突き落とされた。 ふわりとした浮遊感に抱かれ、背中から海に転がり落ちていく。 ばちゃりと飛沫を上げて、あとはそのまま海に沈んでいくだけ。 海に落ちた衝撃で、目隠しの布が解けて漂う。


私が身を捧げる海は、澄んだターコイズブルーが綺麗な、眩い青の世界。 こぽこぽと私の口から溢れる白い気泡が少しずつ蒼に混ざっていく。 呼吸が苦しくなっていって、胸を掻きむしりたい衝動に駆られた。 そんなことをしても、吐き出した息は戻ってこないのだけれど。




落ちていく。

海に、落ちていく。


誰かに手招かれるように、ただゆっくりと沈んでいく。


落ちていく私と反対にこぽこぽと上へ上へと昇っていく軽やかな泡は、私の命の息吹だ。



一面は蒼の世界。



ふと、遠くから誰かの歌声が聞こえた。 男の人の声だ。 うっとりするほど綺麗で、澄んだ歌声。 この世に人魚がいるのなら、きっとこんなに素敵な歌なんだろうな。 これは最後の幻聴に違いない。


ああ、死ぬ前に良いものを聴けた。

幻聴でも、なんでも、よかった。


私の死を讃えるような、労るようなそれ。


なにも良いところのない、地獄のような人生だったけれど、最期にこの歌を聴けた。



願わくば、次の人生こそは。

誰かに心底愛されますように。

一途に、私だけを好きだと、愛していると言ってくれる人に出会えますように。



ああ、苦しい。

もうなにも、考えられない。



こぽ、こぽり。



最後の吐息が口から溢れ、


命が、消えていく。



海底へ沈んでいく私。 波に揺られる私。

全ての境界線がぼやけて、滲んで、私という存在が解けていく。


瞼が閉じ切るその瞬間に、鮮やかな碧が見えたような気がした。









「……ねえ……、ねえってば」



なにか、唇に触れた気がした。


手を引かれて、重たい瞼をなんとか持ち上げる。

まず最初に視界に入ったのは美しいエメラルド。 うっとりと見惚れるほどの綺麗な瞳。


息を呑むほどに美しいひとが私の顔を覗き込んでいる。 小首を傾げれば、雪のように白い髪がサラリと流れた。 海を閉じ込めた瞳を縁取る長いまつ毛が、瞬きの度にはたはたと揺れる。 灰色の着物に、光を反射してキラキラと輝く薄墨色の羽衣。 まるで天女様みたいだ。



……このひとは、誰だろう。

…………あれ、ここは、どこだ?

……………………私は、誰だっけ?



……私はまだ、生きているの?


………………まだ?




「海に迷い込んでしまったの……?」



あまりに優しい声だった。

一度も向けられたことがない、優しくて、穏やかな声。


嬉しくて、涙が溢れた。

生きているのが嬉しいのか、向けられた優しさが嬉しいのか。


「泣かないで、僕のお姫さま」


しなやかな指が、私の涙を拭ってくれた。


「……あなた、とっても優しいのね」

気づいた時には、自分は無意識に微笑んでいた。 何年も微笑んだことがなかったから、ちょっとぎこちなかったかもしれないけれど。


「……!」


彼の動きが止まる。

どうしたんだろう、変なことしちゃったかな?


彼の真っ赤に染まった顔を眺めていると、なんだか何か大事なことを忘れているような気がする。


あ、あれ? 私って、どこからきたんだっけ……? 私、なんでこんな白無垢なんて着て……。


「あ、あの、私……。 あなたは、誰…………?」



自分の名前も、自分が何者かも、どうしてここにいるのかも。

何も思い出せない。


まるで、海に全てを溶かしてしまったように。



「僕はきみの…………恋人だよ」



碧色の麗しいひとは、私の手を握って甘ったるく微笑んだ。





ーー








女の子が落ちてきた時、運命だと思った。

誰も近寄らないこの世界の最果てに、まさか自分以外の誰かが入ってくるなんて。


白い着物が、海に差し込む光を反射して、キラキラと輝いていた。


白無垢が波に揺蕩うさまが、天女のように見えた。 天使のように見えた。


こんなに綺麗な子を、見たことがない。


見惚れた。 目を奪われた。

心臓を、掴まれた。


この僕に向かって、微笑みかけてくれるなんて。


その瞬間、僕の身体を満たす冷たい血が、一瞬で沸騰して。


熱い、熱い。 全身が、熱い。


こんなこと、人生で一度もなかった。


この心臓を鷲掴みにされるような衝撃は、きっと、きみが僕の運命だから。


運命としか思えなかった。 欲しいと思った。 初めて何かをこんなに渇望した。



きみの全てが、僕のものになればいい。



白魚のように生白い手を引いて、抱き寄せて。 頬に手を添えて、唇を押し付ける。 ふう、と吐息を吹き込んで、空っぽになった肺を神の息吹で満たす。

……人工呼吸、って言ったっけ。 いつか見た、人の子の真似事。


酸素を失った肺を、神の息吹で満たせば、その子はもう人ではいられない。


人ではないなにか。

そうだなぁ、眷属、になるのかな。 僕が生み出した、少しだけ神に似た僕だけのお人形。


「此方へおいで。 僕の愛しい人」


力無く漂う手を引いた。 唇を押しつけた。 呼吸を吹き込んだ。 人の世から遠ざけた。

僕の世界に、引き摺り込んだ。


「これで、きみは僕だけのもの」


あれやこれやと真似をしても兄上のことが一切理解できなかったのに。

今や神域を作り出し、彼女を一生閉じ込めるための箱庭を創った。 逃げ出さないように。 僕から離れられないように。

たとえ記憶が戻っても、捕まえておけるように。


これで、この最果てには僕ときみのふたりだけ。

誰も入れないし、誰も僕たちを邪魔できない。

僕たちを引き裂くものは誰もいないよ。

たとえ居ても、僕が引き千切っておくから。


きみは僕に、ただ愛されていて。

僕は愛されたことがないから、拙いかもしれないけれど。 きみにうまく愛を伝えられないかもしれないけれど。

その分、きみが僕を愛して教えておくれ。


きみの愛を、僕に教えて。


僕を、愛して。


僕だけを、愛して。



僕は、きみだけを、

この世でただひとりだけ、愛しているから。





記憶のないきみ。 偽りの恋人。

でも僕は、きみを心から愛してる。

その気持ちに嘘はない。




でも、もしも、澪の記憶が戻ったら……?


そのとき、私は…………。




ーー




深い深い海の底。 御伽噺に出てくるような、豪奢な離宮。

そこが、私と氷雨が暮らすお家。

愛してくれる氷雨と過ごす、とっても幸せな日々。



「れい♡ れ〜い♡」

氷雨の長い腕が、私を抱きしめる。 布越しに背中に当たる熱が、心地よい。


「なぁに、氷雨?」

振り返ってエメラルドの瞳を覗き込めば、目尻を下げて満面の笑みを浮かべる。


「可愛いなぁと思って〜♡ こっち向いて、僕だけを見て、れい〜♡」

「はぁい」

「えへへ〜♡ 僕のれいは可愛いなぁ〜♡」


私を愛してくれる恋人は、なかなかに愛が深い。 溺愛、とも言う。




氷雨。 ひさめ。 私の恋人のお名前。

私は彼を、冷たい雨だなんて思わない。 優しくてあたたかい、愛に満ち溢れたひと。


真雪のような長髪に美しいかんばせ。 翠玉の大きな瞳に小振りの鼻、桜色の頬に口紅を塗ったかのように色付く唇。 お顔だけ見ると女性かと誤解してしまいそうだけれど、上背もあるれっきとした男性……男神。


彼はこの最果ての海を司る神さまだ。

厄災の神だとか呼ばれているらしいけど、私は絶対にそうだとは思わない。 だって、こんなにも愛情深いのだから。


「れい♡ れい〜♡ 僕たちはず〜っと一緒だよ♡ この海で手を取り合って暮らそうねぇ♡」


何から何まで世話焼きで、心配性で臆病で、それからとっても優しい、私にはもったいないほど出来た恋人。


「れいの手、あったかい……♡ 頬に当てたら蕩けてしまいそうだね……♡」


私の手を頬に添えて、心から嬉しそうに微笑む。 本当に蕩けてしまいそうだ。


「れい、だぁいすきだよ……♡」

氷雨の指先が、私の首元に触れる。 その爪先が弄ぶのは翠色の宝玉。 朧気な記憶の中で、氷雨が初めて私に贈ってくれた宝物。 波の光を反射して、穏やかに輝いている。


「僕、幸せだなぁ……♡」

うっとりと瞼を伏せて、すりすりと私に頬を寄せた。 どちらともなく唇を寄せ合って、柔らかな感触に浸る。



私たちはずっと恋人だったはずなのに、なんだか記憶を失って初めて、やっとこの幸せを手に入れたような気がしている。


幸せとは、このことを言うんだと思う。


愛してくれる相手に、温かなおうち。 氷雨の作る料理は全て美味しくて、痩せぎすの身体は少しだけ柔くなった。

欲しいものはないと思っていたのに、彼と居ると己がこんなに欲深いと知る。 あれもこれも、彼から与えられるものは全て自分のものであって欲しい。



こんなに幸せなのに、何かを忘れているような気がする。 こんなに幸せなら、それで良いのだろうけど。


でも、ひとつだけ気になるところがある。


特段これといった理由はない。 でも、私の記憶が戻ったかもしれないとなると、氷雨の狼狽えようが酷いから。 もしかしたら、何かがあるのかもしれないと、思っただけだ。





穏やかで幸せな日々が過ぎ、季節が巡って。


…………私は記憶を取り戻した。





前触れもなく、ふとした拍子に。


だから、私は気づいてしまった。

氷雨の、偽りに。

でも、もう彼を知らなかった頃には戻れないくらい、私は氷雨を愛している。

始まりは嘘だったかもしれないけれど、それがなくても私たちは運命だと思う。


もしも、彼の愛が偽りだったとしても、私は氷雨を愛したい。


……問題は、どうやってそれを氷雨に伝えるか。

私が少しでも記憶を思い出しそうな素振りをすればひどく狼狽える彼に、どうやって伝えたら良いものか。


そんなことを考えながら、縁側で編みものをしていたとき、とある歌が不意に頭の中を流れ始めた。 これはなんの曲だったかな、と鼻歌で記憶をなぞっていると……。


「れい……!」


ひどく慌てた様子で氷雨が駆け寄ってくる。


「……もしかして、きみ、記憶が戻ったの……?」


大きな目がもっと大きく見開かれる。 白い肌がもっと血の気を失って、今にも倒れてしまいそう。


そうだ、この歌は、記憶を失う前に聞いた……。 あの声は、氷雨だったのか。


「そ、そんな……」


白魚のような手が顔を覆うと、周りの海が灰色に染まり始める。 波が渦巻いて、雷鳴が轟く。


「氷雨! まって、私の話を聞いて……!」

俯く氷雨に私の言葉は届いていない。


「れい、僕のれい……」

氷雨はゆっくりと力なく顔を上げた。 唇は真っ青で、髪が一筋頬に落ちている。


「ねえ、れい。 僕の、可愛いれい……。

……きみは、僕をどう思った? 醜いと思った? 嘘吐きだと、思った?


……この愛さえも、偽りだと思った?」


海を溶かし込んだ碧色の綺麗な瞳が、仄暗い色に染まっていく。


「きみも、僕を拒絶するの……? 愛なんてなかったって思う? 私は、私は……こんなにもきみを愛しているのに」


昏い瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。

私たちを包む海が、荒れていく。


「……ああそうだ、私はきみを心から愛している。 きみはもう何処にも行けない、僕の神域からは誰も出られない、ねえ、そうでしょう、澪」


僕。 私。

氷雨の姿が揺れ動く。 本当のあなたはどっちなの?


「氷雨、お願い、聞いて」

「心配しなくて大丈夫だよ、澪。 僕はきみを心から愛してる。 もしもきみが、僕を嫌っても、僕はずっと、永遠にきみを愛しているから。 海の底で出会った私たちは、運命なんだよ。


はは、こんな時に兄さんの気持ちがわかるなんて。

世界を封じて仕舞えば、きみは僕から離れっこない。 きみを閉じ込めて仕舞えば、僕はきみと一緒にいられる。 そうだよね、澪。


ねえ、僕とずっと一緒にいてくれるよね?」


酷く狼狽え口調が定まらない氷雨に、言葉をかけてあげることさえできない。 私も、まだ混乱しているのだ。



「ねえ、れい。 どうして何も言ってくれないの……?


僕を、嫌いに、なった……?


……ああ、ああ……! そんな、れい! れい……!」


瞳が、氷雨の胸中を映し出したかのようにぐちゃぐちゃだ。 海底のように真っ暗。


「……れい、お願いだ、私から離れないで……、僕を捨てないで、僕のそばにいて……!」


氷雨の悲痛な声が響き渡るや否や、灰色の波が迫ってくる。 彼がハッと我に返っても気づいた時にはもう遅い。 幾重にも闇を抱いた波が襲いかかってくる。



氷雨の手が、伸ばされた。


「れ、い……!」


稲妻がバチンッと弾ける。


「痛っ、!」

爪先から背筋まで、一瞬で衝撃が走る。


「れ、れい……?」

氷雨の感情を表したように、波が戸惑ったように止まる。


「れい」

「っ、」

再度氷雨が伸ばした手を無意識に避けてしまう。


「っ! ち、ちがうの、氷雨……! これは、」


伸ばした手は、氷雨に触れることはなかった。


「……あ、あああ、ああ……!」


目を見開いて冷静さを失う氷雨。 何かがバキッと壊れる音がした。


「氷雨!」


頭を押さえる氷雨を取り囲むように波が渦を巻いて、その中から真っ白な竜が飛び出していった。 ものすごい衝撃で、立っていられない。


轟音の中、私だけが取り残された。




「……これ、氷雨の宝玉……」


足元に飛び散った、宝玉の欠片。 氷雨の力が暴走して、壊れてしまったらしい。 氷雨の力を抑えるために命を分けた、封印みたいなものって言ってたっけ……。 それが砕けてしまったから、氷雨はあの竜の姿になってしまったんだ。



……氷雨の手を、取れなかった。






迎えに、行かなくちゃ。



氷雨は私の、運命だから。



ーー





どこまでも深い海の底。 目を凝らしても見逃してしまいそうな暗闇の中、小さな洞窟に氷雨は蹲っていた。 光も入らない漆黒の海に、氷雨の鱗が煌めいている。


「……れい…………?」

微かな声が、私を呼ぶ。 この世で一番美しいエメラルドの双眼が、じっと私を見つめる。


「やっと見つけた。 これ、すごいのね。 接着剤なんかなくても元の形に戻っちゃった」


洞窟の中にはどこかに穴が空いているのか、数筋の光が差している。 手のひらの上にある、ヒビだらけの宝玉を透かす。 氷雨の命を分けた、翠色の玉。


「来てはいけない!」

鋭い声が私を拒絶する。 それでも、一歩踏み出す。


「どうして?」

出来るだけ穏やかな声色で問い掛ける。

私はあなたと共に帰りたいから。 私の大切な、温かいあの家に。


「また、きみを、傷つけてしまうから」

震える声が、痛々しい。 悔やんでいるのだろう。 自分を責めているのだろう。 私はあなたの手を取りたい。 辛いことも、悲しいことも、全て分け合いたい。


「大丈夫よ、氷雨」

大丈夫。 ふたりなら大丈夫。 何も怖くない。

一歩、二歩、氷雨に近づく。


「どうして来てしまったの……? 私はもう、きみに触れないかもしれない。 きみを酷く傷つけてしまうかもしれない。 私は……私は、それが受け入れられない」

一歩、二歩、氷雨が後退る。 それが私を拒絶しているようで、胸が痛む。 ……私は、氷雨にこんな思いをさせてしまったんだ。 もう離さないって、伝えないと。

気がつけば、無意識に稲妻が走った手の甲を摩っていた。


「……すまない、痛そうだね、れい。 今すぐきみの身体を掻き抱いて撫ぜてあげたいのに、それすらも出来ない。 ……醜いだろう? この姿。 全てを拒絶し、触れたものに不幸を与える。 これが、厄災の神、私の本来の姿だよ。きみを騙していた、卑怯者だ」

自嘲するように薄く笑った、ように見えた。

そんな、悲しい顔をしないで。


「そんなことない。 綺麗よ、氷雨。 それに、少しくらい傷ついたって平気。 私はあなたを愛しているもの」

あと一歩踏み出せば、氷雨に触れる。 手を伸ばせば、氷雨の手を取れる。


「っ、触るな! 今ならまだきみを逃してあげられる。 ……だから、良い子だから、その手を引きなさい。 ……封印が解けて、力が暴走しているんだ。 きみに何をしてしまうかわからない」


絞り出すような声が、痛い。あまりの圧に、全身の毛が総毛立つ。


「氷雨、大丈夫。 私を信じて」

「れい…………」

氷雨の翠色の瞳が揺れる。


「っ、れい! 離しなさい!」

一歩踏み出し手を伸ばして、氷雨の真白な肌に触れる。 私よりも何倍も大きな手。 鋭い爪は私なんか一裂きにしてしまうだろう。 ゴツゴツとした掌は雪みたいに冷たい。 触れた指先から、身体に稲妻が駆け抜ける。


手が焼けるように痛い。

それでも、もうこの手を離さない!


「いや……! 一緒に帰ろう、氷雨……!」

「……っぐ、ぅ、……! れい……! れい…………! ぁ、ぐ、ぁ、ぁ"ぁ"あ"……!!!!」


銅鑼を鳴らしたような鈍い呻き声が洞窟に響き渡る。 びりびりと鼓膜が震える。 あまりの衝撃に耳を塞いでしまいたい。

でも、私は絶対にこの手を離さない……!


「氷雨……!」


パキッと氷雨の額の宝石に亀裂が入って、それがたちまち全身に広がっていく。 バラバラと水晶の鱗が崩れ落ちて、一寸後には煌びやかな欠片の中に泣きそうな顔の氷雨が立っていた。 迷子の幼な子のように涙をめいっぱい溜めて、それが流れないように堪えている。 一筋流れてしまえば、瞬く間に決壊してしまうだろう。



「氷雨、一緒におうちに帰りましょう」

駆け寄って、抱きしめる。 もう二度と離さないように。 離れてしまわぬように。


「……一緒に、帰ってくれるの?」

小さな、絞り出すような声。


「もちろん。 だって私は氷雨の恋人だもの。 私の隣にいるのは氷雨がいい」


「で、でも……」

消えてしまいそうなほど小さな声が、耳元で紡がれる。


「氷雨って臆病ね。 触っても平気だったじゃない。 怪我一つないわ」

顔を覗き込めば、今にも泣き出しそうな瞳が私を見つめている。


「……臆病にもなるよ。 だってきみがこの世で一番好きなんだ。 愛してるんだ、失いたくないんだよ。


もしもきみが僕を恨んでも……僕はそんなきみを愛してる」


氷雨の大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。 綺麗な涙だ。 こんなにも美しい雫を、私は見たことがない。


「……ずっと、わかってたんだよ、僕が誰にも愛されないってことは。 誰からも愛されなかったし、愛されなくてもいいと思ってた。 独りでいいと思ってた。 孤独が心地いいと思ってた。


でもきみだけは!

きみだけは手放したくないんだ……!


ごめん、れい。 きみが好きなんだ……!

きみだけなんだよ、こんなに愛おしいと思ったのは! きみだけを愛してるんだ、きみしかいらない……! 僕の愛を、全てをあげるから、何処にも行かないって言っておくれ。 ねえ、れい、お願いだよ……!


僕はきみへの想いで……胸がはち切れそうだ……」


堰を切ったように溢れ出す言葉が、私を包む。 冷え切った手が、私の手を掴んで胸に押し当てた。 心臓が強く脈打って、氷雨が今ここにいることを証明している。


「そんなに泣かないで、氷雨」


指先で次から次へと流れる涙を拭い、両手で頬を包む。


「私はどこにも行かないから。


一生、あなたのそばにいるって決めたの」


こつんと額を合わせる。 涙がひとつ、ふたつ落ちるごとに、瞳が碧色を取り戻す。


「……本当に?」

「本当よ。 私を愛してくれた氷雨を一人にするわけがない」

「……嘘を、吐いたのに?」

「それはお互い様。

私も、記憶が戻ったことを内緒にしていたから」

「……どうして教えてくれなかったのか、聞いてもいい……?」

私の言葉に氷雨が小さく息を呑んで、それから恐る恐る口を開く。


「……怖かったの」

「こわか、った? ……私が?」

どこか受け入れるように、氷雨の瞳が寂しげな色を浮かべる。 彼はずっと、こうやって孤独を受け入れて来たのだろうか。


「いいえ、私が。 氷雨が愛してくれた私ではない、過去の私を知るのが怖かった。 過去の私を、氷雨に知られるのが怖かった。 私は誰にも愛されなかったから。 氷雨に愛された私はもう、愛されないことを受け入れられない。 もう、愛を知らなかった頃には戻れないの」


「それは、私だって……!


きみを知る前には戻りたくない……! 過去の私に、戻りたくない……! やっと、愛を見つけたのに、やっと愛してくれる人と巡り会えたのに! 厄災の神だと、誰もが私を恐れ、私を拒絶した! 澪、きみだけなんだ、私を愛してくれたのは……!」


氷雨の一人称が私になっている。 過去の彼はそうだったのだろうか。 僕、と呼ぶことで、別の自分になりたかったのだろうか。


「氷雨、愛してる。 愛しているの。

私、きっとあなたに出会うために生まれてきたの。 あなたと巡り会うために小舟に乗って揺られてきたの。 全て、あなたに、氷雨に捧げるために海に来たんだよ」

頬を両手で包んで、抱き寄せる。

私の全てを、あなたにあげたい。



例え世界があなたを拒絶したとしても、

私だけはあなたを好きでいたい。



「私の全て、氷雨に教えてあげる。

だから氷雨も全て、私に教えてくれる? 嫌いになんてならない。 さっき氷雨が、もしも私が氷雨を恨んでもそんな私ごと愛してくれる、って言ってくれたように。 どんなあなたも、私は愛してるから」


「……っ、れい……!」


ひと回りもふた回りも大きい身体が私にしがみつくように抱きついて、嗚咽を漏らす。 頭を撫ぜてあげれば、ぐりぐりと頭を擦り寄せられる。 まるで、大きな赤ちゃんみたいだ。


でも、そんなところも愛してる。

全部、愛してるから。





ーー




ぽつり、ぽつり。

灰色の海に、雨が降る。


しと、しと。

氷雨の瞳から宝石のような涙が落ちるたびに、きらきらと輝きながら雨の雫が海に落ちる。 海の中なのに雨が降っている、不思議な光景。


ひとつ、ふたつ。

水晶のような雫が跳ねるたび、灰色だった海が、蒼く染まっていく。





「ねえ、氷雨?」

「なぁに、れい」


最果ての海、そこに浮かぶ離宮で。

二人は手を取り合って海の見える縁側に座っている。


「私、氷雨のことをもっと知りたいの。 教えてくれる?」


「……もちろん。 なにも、特段面白い話ではないけれど。 れいが望むなら全てを教えるよ。


……さて、何から話そうかな。 私が厄災の神だと呼ばれていることは知っているね?」


こくりと頷く。


私はそうは思わないけれど。


顔に出ていたのだろうか、ありがとう、と頭を撫ぜられた。

氷雨にはなんでもお見通しらしい。



「私の家は竜神の家系でね。 ……私はあまり向いてなかったんだけど。 兄さん……ほら、以前にも話した今代の竜神が、あまりにも才能が抜きん出ていて。 私が生まれた頃には、もう彼が後継だと決まっていたんだよ。 私は神だというのに身体が弱かったし、この見た目だろう? ヒメだなんだと、散々言われたものさ。


ある日、父と大喧嘩をしてね。 今から何千年も前のことだけれど、よく覚えてる。 それはそれは海が荒れて、人の子達には悪いことをしてしまった。


……私は、神というより竜に近いんだ。 考え方も、生き方も。 だから、彼等とは相入れなかったのかもしれないね」


思い出をなぞるように、瞼を閉じる。

物憂げな横顔が美しくて、見惚れてしまう。



「兄さんは竜神、というひとつの存在だけど……私は竜に育てられたんだ。


親、というほど親密ではないけれど、他人というほど遠くもない。

気まぐれな竜に教えてもらったんだ、力の御し方を。 まあそれでも、私はまだ未熟だったから、力が暴発してしまって幾つもの海を消しとばしてしまった。

自棄になっていたんだ、きっと。

誰も愛されない、誰も愛せない、私には運命の番なんて存在しない……。 故に、私は永遠に一人なのだと。 孤独を常に感じて生きていくのだと。 神は、寿命がないようなものだから。 消える道を選びたくても選べない。 ただ波に漂うだけの今世に諦めていたんだよ。


……だから、幾つもの過ちを犯した。 私の力を認めて欲しくて……結界を消したり、兄の領域を侵したり。 私の能力を認めないなど愚かな……と。 愚かなのは私の方だ。 誰かの幸せを壊しても、自分が幸せになど成れはしない。 一番初めに竜が教えてくれたはずなのに。 私はまだまだ未熟者だな。 情けない」


氷雨は懺悔するように、私の手を握り込みながら吐露する。


「その竜はもういないの?」

竜になった氷雨の姿が脳裏をよぎる。 氷雨はあの姿を嫌がるけれど、上等な絵画のような、息を呑むような美しさがあった。


「いないよ。 本当に気まぐれなやつだったんだ。 教えることだけ教えてすぐ去っていったよ。 白い、雪のような竜だった。


その、竜がね、最後に言ってたんだ。 もしも運命に巡り会えたなら、その手を離してはならないって」


氷雨の大きな手が、私の指を絡め直す。 きゅっと握って、もう二度と離れないように。



「あのね、れい。 竜は一途で、人生でたった一人の番を死ぬまで愛する生き物なんだ。


だから、さ。

私は、もうこの手を離すつもりはないよ。

今まで、酷く遠回りしてしまった。 多くを失ってしまった。 でも、絶対にきみを諦めたくないんだ。 もしもきみを失うくらいなら、海の泡になって消えてもいい。 きみを失うならば、共に海の泡と消えたい」


こつん、と額が合わさる。

震えるまつ毛さえ見えるほど近く。 熱を帯びた麗しいエメラルドが、じっと私を見つめている。



「氷雨、愛してる。 ずっと私を離さないで」


「もちろん。 もしきみが離してっていっても離してなんかやらない。


愛してるよ、れい」


氷雨は泣きそうになりながら微笑んで、唇を寄せる。 ほんのり冷たい、けれども愛に満ち溢れたそれ。



神様らしくない、酷く臆病で優しいひと。


私は永遠に、この手を離さない。








「ねえ、見て、氷雨」


目を真っ赤にして顔を上げた氷雨は、再び目を見開く。


「きれ、い……」

煌びやかな宝石が降るような、美しい雨。 穏やかで優しい雫が、私たちに舞い落ちる。


「氷雨の涙が、こんなに綺麗な雨になったのね」


ちっとも冷たくなんかない、あたたかな雨。


「ねえ、氷雨。 私、ここの雨、とても好きよ」


あたたかくて、綺麗で。


まるで、みんなに見つけて欲しくて悪戯しちゃう、寂しがりやさんな天気雨みたい。


「澪……!」

私の言葉に、氷雨はまた涙を目にいっぱい溜めている。 私の半身は泣き虫さんかもしれない。 そんなところも、好きだけれど。



「れい、澪、愛してる。 ずっと、ずーーっと、死ぬまで、死んでも、この海の泡に溶けても、永遠に一緒にいようね」



ひとつ、最後の雫が海に溶けた。



「みて、夕焼けだ」


ぱぁあ、と穏やかな橙色の光が海に差し込んでくる。





「ねえ、氷雨」

「なあに、れい」

穏やかな音色。 お互いの心臓の音が聞こえてしまうほど、近くで。


「これで私たち、本当に家族になれたね」

「……!」


氷雨の瞳に、またじわじわと涙が溢れ出す。


「……私はずっと、家族が欲しかったんだ。 澪、愛してる……!」


ぽろぽろと流れる涙は、真珠を糸に通したよう。


「もう、氷雨ったら泣き虫さんなんだから……。

私も愛してる、氷雨。 いつか遠い遠い未来で、私が海の泡となるその時まで、あなたの隣にいます」





氷雨の涙を拭うその手には、宝石のように煌めく鱗の指輪が。 竜の喉の下にある逆さに生えた鱗、逆鱗で出来ている。 竜はやさしい生き物だが、逆鱗に触れると怒り狂って相手を殺してしまうという。 命と同じくらい大切なそれを、私に。

もう二度と竜化しないという誓いと、私を永遠に守るという契りを込めて。




海の色が橙から藍色に変わっても、星の光が降り注いでも、二人はずっと手を繋いで、二人だけの海を眺めていた。

漏れ聞こえるのは、くすくすと笑う楽しそうな声。


偽りかそうじゃないかなんて、些細なことだった。

二人は運命で、愛し合うために巡り会ったのだから。








「最果てのエメラルド」 完


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