リリーは言い逃げした
「グレイン」
「……いえグレイン卿」
何故かわざわざ言い直して、自分の名を呼ぶ声がした。
この王都で自分の事をファーストネームで呼ぶ女性などいない。
たまたま同名の者が居たのか、それとも幻聴か。
だってその声の主が王都に居るはずは無いから。
声が聞きたいと、自分の名を呼ぶその声が聞きたいといつも思っているから幻聴が聞こえたのか。
グレインはそんな事を思いながら振り返った。
「………………え?」
これは……夢か?
幻聴の次は幻覚か……?
だって彼女が、婚約者のリリーがそこに居る。
最後に会ってからいつの間にか一年以上が経ち、少し大人びていたが、相変わらず可愛い顔立ちをしたリリーがそこに立っていた。
「………リリー………?」
そんな筈は無いと思いつつも
思わずその名を口にする。
すると彼女はどこか悲しげな、でも何かに果敢に挑む騎士のような表情をして微笑んだ。
そして今まで聞いた事がないような声と堅い言葉遣いで話し出した。
「お久しぶりですグレイン卿。お取り込み中に申し訳ございませんが、少しお話ししてもよろしいでしょうか?」
「え……?」
「いえそんなにお時間は取らせませんわ。ただ、お二人は何も心配なさらずとも良いと申し上げておきたかったのです」
「え?」
「ヘイワード様のご友人の親切なお方が教えて下さって、お二人の事は以前から存じ上げておりました。既に婚約解消の手続きに入る段階に進んでおりますのでご心配なく。どうぞ末永くお幸せに」
「え?」
この目の前にいるリリーによく似た女性は何を言ってるんだ?
いや、混乱している場合じゃない、白昼夢を見ている筈はないんだ。
という事は……彼女は紛れもなく……。
「っリリーっ!?」
グレインはこれ以上ないというくらい大きな目を開けてリリーを凝視した。
リリーはにっこりと微笑み頷いた。
言いたい事はもう言った。
これ以上ここに居る必要はない。
かつて自分の手を取ったあの手が他の女性の手に包まれているのをこれ以上見たくはない。
「それではこれで失礼致します。お二人のお邪魔をするような不躾な真似をして申し訳ございませんでした。わたしはもう去りますので、どうぞ続きをなさって下さい」
「え?はっ!」
その言葉を聞き、グレインはそこでようやく今、自分が婚約者の目の前で他の女性に手を握られている状況だと気づく。
「ち、違うんだリリー!これはそうじゃない、誤解だよ、説明させて!リリー!」
グレインと赤い髪の女性は互いに慌てて手を離した。
かなり焦った様子で必死に取り繕うとしているのがわかる。
「いえいえ、もうわたしの事はお構いなく。それではご機嫌よう」
リリーはカーテシーをしてくるりと踵を返した。
「リリーっ!!」
グレインの追い縋る声が聞こえる。
今更何を言うというのか、何を聞かされるというのか。
もう沢山だ。
リリーはダッシュした。
田舎育ちのリリーは健脚で足が速い。
後ろからグレインが追いかけてくる気配を感じたが、運悪く辻馬車から降りた大勢の客が妨げになって思うように走れない様子だった。
リリーは思わず発車し始めた辻馬車に飛び乗った。
「っリリーっ!!!」
グレインの叫ぶような呼び声が聞こえた。
リリーは思わず耳を塞いでその場に蹲る。
もう何も聞きたくない。
何も知りたくない。
何も見たくない。
グレインなんか……もう知らない。
リリーは辻馬車に揺られながらその場に蹲り続けた。
通りの一本向こうで辻馬車を降りてホテルに戻る。
ヘイワードはまだ戻っていないようだ。
「あぁ……これでホントに終わった……」
後はこの書類一式を役所に提出するだけだ。
動くならこの勢いで動いた方がいい。
リリーはそう思い、すぐに役所へと向かった。
だいぶ日は傾いているが、役所が閉まる時間までには間に合うはずだ。
リリーは再び辻馬車に乗って中央貴族機関の窓口のある役所へと向かった。
◇◇◇◇◇
「な、なんで……?どうしてこんな事に……?」
リリーを見失ったグレインが呆然と立ち竦む。
「あ、あの……ライト卿……」
後ろから躊躇いがちに声が掛かる。
この数ヶ月間、
重要な証人として護衛してきたノーマ=コルベールだ。
ノーマは元王宮薬剤師で、勤め出してすぐに同僚の薬剤師と第二王子ルギスによる薬物犯罪に気付いた。
自分を除いての残業が多く、同じ種類の薬の調剤ばかりしていることに疑念を抱き、こっそりと調べたのだそうだ。
そうして掴んだのが、騎士の為の滋養強壮剤と銘打って、特別な薬材を王宮の名義で入手し、薬物を調剤して売り捌いているという事だった。
しかし告発をしたくとも相手は王族。
逆に不敬罪に問われる危険性がある。
そこでノーマは、ハトコであり、精霊魔術師として領地より出仕しているアミシュ=ル=コルベールに秘密裏に相談したのだった。
なぜハトコに相談したのかというと、そのハトコの婚約者が王太子直属の護衛騎士だからだ。
ハトコを通して婚約者から王太子へ話を通して貰うためである。
その密告を受け、王太子シルヴァンは直ぐに動いた。
手をこまねいている間に薬物が蔓延してしまうだろう。
当然、密告者であるノーマにも協力するように要請がかかった。
証人としての証言はもちろんの事、証拠集めや薬剤知識の提供など様々な役割を求められた。
しかしそれはノーマの身を危険に晒す事になる。
外部の人間と多く接すればそれだけ疑いの目を向けられる。
側室の子であり、王太子シルヴァンの異母弟にあたる第二王子ルギス。
表面的には従順で大人しい印象のあるルギスだが、その実は狡猾で残忍な一面があると、調べを進めて分かっていた。
ノーマの協力は不可欠だが、
内部告発を懸念したルギスに消される恐れもある。
では一体どうすれば周りに怪しまれずに彼女と接触し、身の安全を守れるのか。
ある一人の側近が言った。
「殿下の直属騎士の誰かが恋人役に扮すれば、怪しまれる事なく接触出来る」と。
恋人であれば、四六時中一緒にいても怪しまれない。
護衛の目的での送迎も、食事を共にする体で情報の聞き出しも、証拠品を受け取る為に家への出入りも怪しまれずに済む。
問題はその役を誰が引き受けるか……という事だ。
王太子が信用する騎士、6名の内3名が既婚者、あとの2名が王都に婚約者の居る者だった。
妻や婚約者に事前に裏で説明していたとしても、周りの人間にまで話すわけには行かない。不貞や裏切りだとあっという間に噂が広まってしまうだろう。
そこで白羽の矢が立ったのがグレインだ。
グレインにも婚約者がいるが、王都から馬車で何日も掛かる遠く離れた地に住んでいる。
流行も情報も何もかもが遅れて入るほどの距離だ。グレインが恋人役を演じたところで知られる心配はないだろうという事になり、グレインにノーマの恋人役兼、護衛兼、連絡役の任が下ったわけなのだった。
グレインは最初は辞退しようとした。
今は遠く離れていても、いずれリリーを迎えに行き、共に王都で暮らしたいと考えていたからだ。
婚約者のリリーの耳に入らなかったとしても、王都にいる周辺の人物の記憶には残る。
後から口性無い他者からその事を聞かされたリリーがどんな思いをするか……。
「俺が捨てられたらどうしてくれるんですかっ!」
グレインはそう言って激しく抗議した。
しかし側近の一人がここでまた打開策を立てた。
「では薬物事件の処理が全て終わったら、王太子殿下御自らに真相を発表して頂きましょう。どうせこの件は貴族や国民に報告しなければならないのです。そのついでにサクッとライト卿が恋人を演じて警護していた事も説明して貰いましょう!殿下が仰るのであれば、皆も納得するでしょうから」
シルヴァンが側近をジト目で睨め付ける。
「そんなお前、サクッとだなんて……まぁいい。
尽力してくれた部下の為だ。ひと肌もふた肌も脱ごう。グレイン、それでいいか?」
王太子にここまで言われて否とは言えない。
それに、リリーを薬物が蔓延するような場所で暮らさせたくない。
リリーを安心して王都に迎えられるように奴らを排除したいという思いもあった。
グレインは承諾した。
そしてノーマの恋人役を演じながら警護にあたっていたわけだが。
第二王子側は疑念の目を、ノーマだけでなくグレインにも向けてきた。
その事は当然覚悟をしていたし、ノーマの身辺にもより一層警戒を怠らなかった。
しかし、郵便局に手を回し、リリーや兄へ向けた手紙まで調べられていると知った時は流石に肝が冷えた。
グレインとノーマが本当に恋人であるか疑っているのもあるだろうが、私信に見せかけて何か外部へ情報を漏らしているのではないかと疑念を抱いたらしい。
それからはリリーへの手紙を控えた。
書いたとしても親戚のオジさんのような差し障りのない内容しか書かず、そして会いに行くのを我慢せざるを得なかった。
その甲斐あって、奴らの関心をすぐにリリーからは逸らせたが。
リリーに会えず、手紙も思うように書けない状況はとてつもなく辛かった。
「くそう、アイツら絶対許さない」
そうやって枕を抱きしめて眠る夜を何日数えただろう。
ようやく奴らを捕らえ、事件は解決したはずなのに。
無事に証人としての役割を終えたノーマが故郷のコルベール領に帰るのを見届けたら、その足でリリーに会いに行こうと思っていたのに……。
別れ際に感極まったノーマに手を握られ、警護への感謝を涙ながらに述べられていたのだが、リリーの目には違うものに映ったのだ。
「なんでこんな事になるんだよぉぉぉっ~!!」
グレインは通りの真ん中であるにも関わらず、もの凄い音を立てて膝から崩れ落ちた。
肩を抱いていた言い訳はグレインが直接リリーにするそうです。
次回、最終話です。