初めての刺繍
私、フローレンスが前世の記憶を思い出してから数か月が経ち、季節は春。
お母様に誘われて淑女の嗜みとして刺繍を教わった時に、うっかりやらかしてしまった。
前世で多趣味だった事もあり、刺繍も少しだけ経験があった私は、お母様から道具をいただいて、基本的な事を教えてもらった後、初めてゲーム以外の知識が役立った事が嬉しくて、そのまま没頭してしまった結果、難なく刺繍を完成させてしまったのである。
完成させて、一息ついた時、不思議そうに私を見ているお母様と目があってようやく我に返った。
8歳の子供が、殆ど手ほどきを受けずに刺繍を完成させてしまうのは不自然すぎる。
何か言い訳を…と思ったその時。
「私が子供の頃の初めての作品よりはるかに上手だわ!!少し教えただけなのに。フローラはとても優秀だわ」
お母様が喜んでくれた。いや、喜んでいるように見えたが、私は見逃さなかった。お母様が、少しだけ、そう、ほんの少しだけ寂しそうな顔になったのを。
しまった!ついつい調子にのって、初心者を装うのを忘れてしまった。きっとお母様は私と「お母様、ここはどうしたらいいの?」「ここはこうするのよ」という母娘のやり取りをしたかったのだろうと、諸々の知識から予想する。それなのに、私が殆ど頼らずに完成させてしまったから、寂しい思いをさせてしまったのかもしれない。
うぅっ。私も前世で母の経験はしていたので、気合を入れた時に限って子供から何故か肩透かしを食らってしまって、少し残念に思う気持ちも少しはわかる。でも、完成させておいて今更わからない事が~というのは無理がある。
「お母様の教え方が良かったのですわ。褒めていただいてとても嬉しいです。よかったら、初めての刺繍の記念に、このハンカチをお母様に差し上げたいのですが」
お母様のおかげです!!と、アピールをして、貰ってくださいますか?と、完成したばかりの刺繍のハンカチを差し出す。
「ありがとうフローラ。ふふっ。気を使わせてしまったかしら?」
さすがお母様。私の魂胆はバレバレでした。
「でも、初めての貴重な作品。せっかくですから、私よりもお父様に差し上げてはどうかしら?きっと喜んでくださるわ」
お母様はいたずらを思いついた子供のように笑い、提案をしてきた。私はその笑いの意味を察したけれど、とにかく首を縦に振って賛成した。もう、ケセラセラだわ!
そして、その日。帰宅したお父様をお出迎えして初めての刺繍したハンカチを差し出した途端、無言でぎゅーっと息ができなくなるほど強く抱きしめられた。心なしか、震えているようにも思える。
娘から父親へのプレゼント。それも、手作りの品となれば、喜ばない父親はいない…と思う。そして、どこの世界もこんなものなのかしらと、父の腕の中で意識がぼんやりとしてきたところで、お母様と使用人達が私をお父様から引き離してくれた。
*****
「セレナ…この神々しい光を放っているハンカチは神器か何か?」
「グロッシュラー様。確かに私たちの天使から賜ったものには間違いありませんけれど、フローラが初めて刺繍をした普通のハンカチですわ」
夫のバリントン家の現当主、ロッシュラー・バリントン公爵は、先ほど娘からもらったハンカチを手に、喜びに打ち震えていた。そして、すでに何度目かになるグロッシュラー様からの問いかけに、妻である私、セレナは半分呆れながら答える。
8歳になった娘のフローレンスが武芸の鍛錬中に転倒事故を起こしてから数か月が経ったけれど、あの日の事は思い出すのも恐ろしい出来事だった。
バリントン家の家訓の「文武両道」と、それに伴う教育はバリントン家に生を受けた者は男女関係なく行われる事は社交界では有名な話だったし、バリントン家い嫁ぐ際に、私自身もそれは覚悟をしていた。しかし、実際に事故が起きた時には、自分が任されていながら守れなかったと、悲しむジェイドに「大丈夫。心配ないわ」と繰り返し声をかけることしかできず、知らせを受けたグロッシュラー様が急いで帰ってきたときには、わけもわからず涙を流すほど混乱していた。
フローレンスは母親の私から見ても、勤勉で真面目で自分に厳しい子ではあったけれど、ここ最近は自分に厳しい…というより、自分を追い詰めているような様子があった。バリントン家の家訓や、公爵家の子としての在り方が重荷になっているのではないかと思い、息抜きに最近評判の店のお菓子を取り寄せて、お茶に誘いフローレンスと話をしようと思っていた矢先に転倒事故が起きてしまった。幸い大きな怪我や後遺症もなかったけれど、もし、これをきっかけに、フローレンスが武芸を辞めたいと言った時には、離縁を言い渡されても、フローレンスの味方になろうと心に決めた。令息はともかく、令嬢は武芸ができなくとも生きていけるのだから。
しかし、転倒して数日後、朝食の時間通りに食事を摂る部屋に現れたフローレンスは、転倒して恥ずかしかった事、転倒に堪えられるようになるために早速受け身や体幹を鍛える練習をしたいと言い出したため、頼むからしばらく安静にしていてくれと、家族全員で説得をする事となり、私の心配は杞憂に終わった。
そして、転倒事件の日をきっかけに、フローレンスの様子がなんとなく変わった気がする。勤勉で真面目なのは相変わらずだが、以前のように自分を追い詰めているような感じがなくなり、毎日を楽しく過ごしているようだ。
更に喜ばしい事に、以前はこちらから誘わなければ、お茶や散歩を一緒にしなかったフローレンスが、自分からも誘ってくれるようになり、以前よりも積極的に会話をしてくれるようになった。
何か心境の変化でもあったのかと聞いてみたけれど、フローレンスは「良くわからない。自分でも説明ができない」と言って笑った。誤魔化された気もするが、言わないのは彼女なりに思う事があるのだろう。いつか話をしてくれる日が来るといいなと思っている。
そして本日、少し早いかしら?と思いつつ、淑女の嗜みである刺繍を教える事にした。興味を持てばこれからも一緒に時間を作って楽しみたいと思ったし、興味を示さないようであれば、もう少し年齢を重ねてから淑女の基礎知識として改めて教えれば良いと思っていた。
ところが、フローレンスは私の予想をはるかに超えてきた。
初めての作品は、ハンカチに慣れた者なら数時間でできる花のデザインの刺繍を、半日かけて教える予定だった。ところが、フローレンスは基本的な事を教えた後は、殆ど教える事もなく、そのまま慣れた手つきで数時間でハンカチの刺繍を完成させてしまった。手取り足取り、時間をかけてゆっくりと、自分に刺繍を教えてくれた母のように優しく教えよう…と、少しだけ夢に見ていた母娘の時間はあっさりと終わってしまった。
更に、初めての作品とは思えない出来の良さに驚いた。心から褒めたものの、出来の良すぎる娘に少しだけ寂しい気持ちになってしまったことを悟られてしまい、初めての刺繍作品を私にプレゼントすると気を使われてしまった。母親として少し情けないと思いつつ、本当、なんていい子に育ってくれたのかしらと、その気持ちだけで満たされた。
初めての作品をもらう栄誉は、最近フローレンスと私が仲良くしている事に嫉妬し「私だってフローラと一緒にお茶したい」「家族と一緒に過ごしたい」と、出かける寸前まで「仕事へ行きたくない」と駄々をこねて従者達を困らせているグロッシュラー様にお譲りする事を思いついた。
私の提案にフローレンスも快諾してくれた。そして、楽しみね。お父様はどんな反応をするかしら。今後は挑戦してみたいデザインはある?と、残りの時間はお茶をして母娘の会話を楽しんだ。
そして、打ち合わせ通り、帰宅したグロッシュラー様にフローレンスからハンカチをプレゼントした結果、娘を窒息寸前まで抱きしめた後、いつまでもハンカチ一つで感動に打ち震えている親バカ公爵様を作り出してしまった。
まだまだ動きそうにないグロッシュラー様を放って、私はソファーで寛ぐことに決めた。
ここ最近は、私とフローレンスの仲に嫉妬をしているグロッシュラー様だけれど、私もグロッシュラー様に息子のジェイドの仲を嫉妬している。
ジェイドは数年前に社会勉強の為にグロッシュラー様に連れられて城へ見学に行った際に、第一王子殿下の目にとまり、以降、王子の友人として度々城に訪問するようになった。
王子殿下とお会いする日は、ジェイドはグロッシュラー様と一緒に城へ行く。王子殿下と会っている時間以外は、グロッシュラー様の専用の執務室で資料の整理を手伝ったり、城内の図書館で過ごしたりしているらしい。
お仕事の邪魔になっていないかと心配したけれど。
「下手に城内をうろつかれるより、見えるところにいてくれた方が安心だ。それに有能な補佐が増えて私も嬉しいよ」
グロッシュラー様は、大喜びだし。
ジェイドはジェイドで
「王子殿下とお会いするよりも、城の図書館にしかないような貴重な本を読んだり、父上の執務室での手伝いや、城に到着するまでの父上との時間の方が有意義で楽しい」
と言っている。
さすがにそれは不敬にあたる発言になるのでは?とやんわり注意しようとしたところ、それを聞いたグロッシュラー様まで
「私も国の仕事や国王との時間よりもジェイドとの時間の方がずっと有意義だよ」
と言い始めたので思わず頭を抱えてしまった。
そんな私にグロッシュラー様のお仕事の補佐をしている従者のディアンが
「ジェイド様と一緒の時は、グロッシュラー様が出がけ仕事に行きたくないと駄々をこねられる事がありませんので非常に助かっております。お二人とも城ではあのような発言はしておりませんから、ご安心ください」
と言うので、もう注意する気が削がれてしまった。
将来、バリントン家を継ぐジェイドの為にもグロッシュラー様との時間は大事な事は理解しているし、父息子の仲が良い事は非常に良い事だし、男性同士の方が分かり合える事も多いだろう。それでも、羨ましいのは羨ましいのだ。口には出していないけれど。
子供たちに対する私とグロッシュラー様のお互いの嫉妬はさておき、家族を愛してくださるグロッシュラー様を愛しく思うし、改めて私達の子供たちの事を誇らしいと思う。
「素敵な家族に囲まれて私は幸せだわ」
「素敵な家族に囲まれて私は幸せだな」
つぶやくように口に出してみれば、いつの間にか私の傍に来ていたグロッシュラー様と声が重なった。それに少しだけ驚いてお互いに見つめ合う。それが可笑しくて、一緒に笑い出したところで、グロッシュラー様に抱きしめられ、改めて幸せな気分になるのだった。