転倒しました
「それ」は午後の鍛錬中に起きた。
ユーフォノス王国のバリントン公爵家は文武両道の家訓の下、男女関係なくその教育を受ける。バリントン家の第二子で長女のフローレンス・バリントンも例外ではなく、3歳から武芸の教育を受けていた。
そして8歳になった冬のある日。兄と一緒に自主鍛錬をしていたところに、フローレンスはうっかり足元を滑らしバランスを崩してそのまま転倒し、後頭部を打撲した。転倒中、不思議と時間がゆっくりと流れる中、上手く受け身が取れそうにない事を恥じて目を瞑ったところに、後頭部の衝撃後すぐに「それ」が頭の中に流れ込んできた。
「まさかの頭を打った拍子に前世の記憶を思い出すパターン…」
ボソリとつぶやいた一言は、一緒に鍛錬中だった兄の必死に呼びかける声に消された。そして、兄の呼びかけに答えられないままフローレンスは意識を手放した。
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自分が前世で読んでいた異世界転生ものの知識では、比較的若い方たちが不慮の事故や過労などで転生していたのが一般的だった気がする。
前世での名前はミカ。享年91歳で苦しむ事もなく大往生。ひ孫もいて、わが生涯に一遍の悔いなしレベルで大満足の生涯を終えたはずなのに。
前世では年相応の考え方や話し方をしていたはずだったけれど、この世界のご都合設定か、今世のリアルな年齢のためか、気持ちが若い。いや、前世でも自分の子供世代の親戚たちから「ばぁば」と呼ばれ、世間一般でいうところのカテゴリ「後期高齢者」となってはいたけれど、気持ちだけは若かった(はず!)。
転倒から数時間後、目を覚ましたらメイドのシンシアがそばにいてくれて、目覚めたことを急いでみんなに知らせてくれた。
すぐに部屋に駆けつけた家族が、意識が戻って良かった。大丈夫か。目が覚めなくて心配した。と、矢継ぎ早に言われてその勢いに戸惑う。でも、家族を心配する気持ちはとても…わかる。
後頭部を強く打ったため、まだ少し痛みはあるが、それ以外は無事だった。
正直、自分の中にある前世の記憶を整理したかった私は「大丈夫。心配しないでください」と、家族に訴えるので精一杯だった。できれば前世の年の功で気の利いた言葉が出ればよかったのだけれど、余裕がなかった。
かなり戸惑っていたところに、医者が「身体には問題ありませんが、突然の事で混乱しているかもしれません。とにかく今日はこのまま安静にしてください」と、やんわり言って家族を部屋の外に出してくれたのはありがたかった。
今世のフローレンスの記憶と、前世のミカの記憶を照らし合わせれば、ここが前世で一番ハマっていた乙女ゲーム『シンフォニーシリーズ』の第一作目の『シンフォニー・アラカルト』の世界である事は間違いなかった。
魔法が存在する世界『シンフォニア』の中でも屈指の大国『ユーフォノス王国』。
そのユーフォノス王国の誇る最大教育機関『クロマティック学園』を舞台に主人公が攻略対象者達と親交を深めたり、深めなかったり、恋愛したり、しなかったりする恋愛シミュレーションゲーム、いわゆる乙女ゲームだ。
乙女ゲームはそれまで遠巻きにしていたゲームジャンルだったけれど、大好きな声優さんが出演するのがきっかけでプレイしたら見事にハマった。そして妹のマイに布教して、すっかり姉妹でドハマリし、以降はシリーズ続編が出れば学生時代は姉妹でお小遣いを出し合い購入し、社会人になってハードが変わっても大人の財力で続編はもちろん、スピンオフ、リメイク版、シリーズの後半にはお決まりだった初回特典版や予約限定のファンディスクまで余すことなく手に入れてプレイした。もちろんルートもスチルもフルコンプだ。シリーズ最後として発売された「シンフォニー・アラカルト・フィナーレ(終楽章)」でが出た時には、寂しい思いをしたけれど、数年後、アニバーサリー版として新作が出た時には、小躍りして喜んだものだ。結局アニバーサリー版以降『シンフォニーシリーズ』は続くことはなかった。ミカが天寿を全うする何十年以上も前の話である。それでも、人生で一番ハマったゲームだったからだろうか、ご都合設定のアレコレだろうか。ゲームの内容はバッチリ覚えている。
とにかく、その愛すべき世界に転生したというだけでも幸せなのに、全シリーズの中でも屈指の人気のキャラ、記念すべき第一作目のヒロインのライバル、フローレンス・バリントン公爵令嬢に転生をしていたのだから。嬉しすぎて叫びたい。というより、SNSで大々的に自慢したい!!できませんけれど!!
フローレンスは、ライバル令嬢役だからといって国外に追放されたり、葬られたりするいわゆる「ざまぁ」な結末を迎える事もないので、フラグ回避の為に必死になる必要もない。
現在の時間軸は一作目のゲーム開始前。ゲームの中では知る事のできなかったシンフォニアを知る事ができる。うまくいけば、一作目以降の世界だって見る事ができるかもしれない…と思うと、ニヤニヤが止まらない。
実際、私が今いる場所はゲームには出てこないフローレンスの寝室だ。ゲームの舞台は学園だし、ヒロイン視点で物語も進む。そのため、ゲームには一切出てくることがない場所である。
そして、美人でライバル設定のためか、ゲームでは、持ち物やドレスに濃い色系が多かったフローレンスだったけれど、8歳の今は、年相応の淡い色系で小物も可愛らしいものが多い。今世で見慣れている部屋ではあるが、改めてよく見てみたい。
今すぐにでも部屋の中を探検したいが、医者から安静と言われているから、さすがにそれはやめておこう。
それよりも。と、転んだ時に受け身を取れなかったことを思い出す。3歳から始めた武芸の身のこなしには多少自信はあった。でも、転倒してしまうなんて、まだまだ修行が足りない証拠だ。
明日から体幹鍛えるメニューを多めにしようかしら。お父様に相談してみよう。明日には痛みが治まっていればいいのだけれど。
「ま、明日は明日。ケセラセラね」
思わず前世の口癖を口にする。「なるようになる」。この世界にはない言葉だ。
そうしている内に、うとうとと眠気が襲ってきた。とりあえず今日は色々ありすぎた。このまま寝てしまおう。本当に夢みたいだわ。
そう思って、幸せな気分で目を瞑ったけれど。
…いや、やっぱり都合がよすぎる。夢かもしれない。