Day33-2
三
陽が落ち始めたころ、レーシャが二階から降りてきた。
私は視界の端で明滅していた計算機を消し、書類をまとめた。
「デート!」
「レーシャ。どうかしましたか?」
彼女は私の問いかけにハッとした表情をして足を止めた。なにかしらの異物を目にしたような戸惑いが瞳に浮かんでいた。
彼女の両手は後ろに隠されており、なにかを持っているようだった。
「レーシャ……?」
「……?」
ああ――もう、『その時』になったんだ。
「いえ、ごめんなさい。なんでもないです」
「レーシャ……それが私の名前かな」
私は答えなかった。
彼女は、自分の名前を忘れた。ついさっき……午前中までは覚えていたのに。『廃忘病』は、突如として記憶を奪っていく。徐々に忘れていく記憶もあるが、人格の形成に関わる大きな記憶はステージの進行とともに一斉に失われる。
第四ステージへ進んだ。次は最終ステージだ。もうすぐ、彼女はすべてを忘れるだろう。忘れたくない記憶も、素晴らしい思い出も忘れていく時期になったのだ。
「私の名前はレーシャかぁ……変な名前だね。まあ、覚えてもすぐに忘れるだろうから覚えなくてもいいよね」
「そうですね。あなたはあなたです」
彼女がレーシャという名前を記憶したとしても、数分後にはきれいさっぱり忘れている。認知症の症状に近い。
目の前の少女は自分の名前を忘れたことなど気にも留めない様子で、笑顔を振りまいた。
「そんなことより。渡したい物があるんだ」
彼女は後ろに隠していたものを私に見せる。
白いシルクに、金色の線が通っている。手のひらほどの大きさで……それに触れた瞬間、なめらかな感触が私の手を通して伝わってきた。
「ハンカチ、ですか?」
「うん。せめて何か形に残そうと思って」
「ふふ……嬉しいです。ありがとうございます」
嬉しそうにハンカチを渡してくる彼女がとても健気で、そして虚しかった。
いま彼女は笑っている。その笑みは、心からの笑みだろうか。辛苦を堪えて、無理に作った笑みではないのだろうか。
「よかった。デートに喜んでもらえて、私も嬉しい」
「ええ……大切にしますね」
ハンカチを懐へと仕舞う。
私の宝物だ。【安寧地区】から出る際に、こっそり持って帰ってもいいだろうか。その程度の小細工ならばいくらでも思いつくが……出るときに考えよう。実のところ、地区間の検閲はかなり緩い。表立っては厳しく見えるが、裏側を知る者からすれば回避方法は無数にある。
「……このハンカチのお礼がしたいのですが、何か私にできることはありますか? 困っていることとか、つらいこととか……」
私はさりげなくレーシャの懊悩を聞き出そうとした。
だが、彼女は本当に悩みなどないかのような調子で答える。
「うーん。特にないかな……じゃあ、久しぶりにユリフィドールに行きたい」
……それは、どうしたものか。
きっとユリフィさんとドールさんは、彼女の事を『レーシャちゃん』と呼ぶだろう。彼女が『廃忘病』の患者であることを夫妻には伝えていない。べつに干渉医と患者の組み合わせはこの地区では珍しくもないので……あらかじめ話を通しておくべきだろうか。
「わかりました。では、今度行きましょうね」
「うん、わかった……! あ、そろそろ夕食の準備しないとだね」
それから彼女はキッチンへと駆け込み、冷蔵庫を開けるのだった。そのうち楽しそうにしている料理もできなくなってしまう。せめてそれまでに、たくさん料理をさせてあげよう。
四
とある航空機の船内。
干渉医スイートと、『色喪病』患者のフロスト・ウォーシェは中央地区へと向かっていた。沈黙を抱え込んで、航空機は空を超え、大地区の境界にあるワームホールの断層を超えていく。
少女は中空に視線を向けていた。その先にあるのは、無機質な航空機の灰色の壁。なにかを見ているわけではない。何も見えていないからこそ、少女は一点を見続ける。
「フロスト、そろそろ着くみたいだよ。あと十分くらい」
スイートが彼女に語り掛ける。いつもの溌剌とした調子ではなく、彼女の声色には患者を労わるような優しさが含まれていた。
「……うん」
彼女は暗闇の中でうなずく。一面の白に覆われていた【安寧地区】の景観から一転して、世界が暗黒に染め上げられた。だというのに、彼女はどこか落ち着き払っていて、視覚が奪われたその瞬間でさえ動揺することはなかった。
スイートはそれを疑問に思っていたが、口には出さない。これまでずっとフロストと向き合ってきた彼女にとって、その反応は異様なものだったのだ。臆病で、負荷がかかればすぐにでも泣き出してしまいそうな娘で……視覚をすべて失った時には発狂するかもしれないと予測していたほどだ。
『色喪病』の最終到達点、つまり完全な失明に陥ったとき、彼女は家の窓から雪を眺めていた。奇病の症状は突如として進行する。例に漏れず、彼女もまた予兆なしに光を失うこととなった。
そのとき、彼女はそばにいたスイートにこう言ったのだ。
『スイート……終わったよ』
鮮明に、その瞬間をスイートは覚えていた。忘れたくとも忘れられぬ、異様な一瞬。
衝撃と違和とが一体となって彼女の脳裏に焼きついた。なぜ、彼女は取り乱さないのか。なぜ、彼女はかえって落ち着いているのだろうか。あたかもすべてを知っていたかのように、受け入れていたかのように。
最終的に視覚を失うということは、知識としては知っていただろう。だが、知識と経験はまったく別のものだ。スイートは彼女を決して強い人間だと断じていなかった。ゆえにこそ、失明を経験した彼女が落ち着き払っていることが不思議でならなかったのだ。
「なあフロスト。アンタ怖くないのかい?」
何が、とは聞かなかった。漠然と何が怖いのかを聞いただけ。
しかし、二人の意思はその短い言葉だけで通じ合った。
「……怖かったよ。でも、今は平気。私は懺悔したから」
「ん……? ザンゲ?」
「そう。奇病を患う人はね、患者本人の心にも問題があるから。ボクは……こんな人間に育ったことを、そしてこれから世の中の荷物になってしまうことを謝った」
スイートには彼女の言っている意味がわからなかった。スプリングデートならば一瞬で彼女の言わんとしていることを理解できたのだろう……そう考えつつも、スイートは彼女の言葉を頭の中で咀嚼する。
「どうしてアンタが謝るんだい?」
それは率直な疑問だった。たしかに、奇病の原因が患者の心にあるという説も唱えられている。しかし、それは確実な説ではなく、仮にそのとおりであったとしても奇病に罹る人は無数に存在する。奇病は避けようのない厄災と言っても過言ではない。彼女が何かを悔いる必要はないのだ。
「それはボクにしかわからないよ。……それでいいんだ」
そして再び静寂が訪れた。干渉医であるスイートは、それ以上なにも言うことはなかった。患者本人が納得している事項について、詮索は必要ない。今までの彼女であればさらに問い詰めていただろうが、この前のスプリングデートの言葉を思い出し、踏みとどまった。
航空機の駆動音が淡々と響く。薄い窓から断層のターコイズブルーの光が射し込む。このワームホールを抜ければ中央地区だ。
大地区と大地区を超えるこの瞬間、美しい光が迸る。その光景がたまらなく好きな人は多くいて、スイート自身もまた安らぎを覚える瞬間だった。しかしながら、隣に座る少女は光を失っていて、その瞬間を迎えることも叶わない。世界を巡ることを愛していたフロストは、彼女のすべてを奪われたのだ。そんな彼女にスイートが憐れみを覚え、手を握ろうとした刹那。
「ああ……終わりが、奪われた」
光喪いし少女は、微かに呟いた。
彼女の双眸は、たしかに暗黒を脱し――窓から射し込む光に目を細めたのだ。