Day33-1
day33
一
三日後、スイートから連絡があった。フロストさんの目が見えなくなり、【安寧地区】から退居する時がきたらしい。
私はレーシャに伝えるべきか悩んだが、彼女とフロストさんが一緒に出かけていたことを思い出し、そのままの事実を彼女に伝えた。彼女は関心があるのかないのかわからない声色で生返事をして、淡々と事実を聞き届ける。最後にフロストさんに会いに行くか聞いたが、会わなくてもいいとのことだ。
最近、彼女はぼんやりしている場面が多く見られる。『廃忘病』の症状に起因するものだろうか。
そろそろ本格的に物事を忘れていくころだ。今まで以上に注意して観察しなければならない。彼女の日課となっている散歩にも、同行する必要があるかもしれない。
残りの期間は約一か月。私はちゃんと彼女の心に向き合えているのだろうか。
診療にあたる時はいつもそんな漠然とした不安が襲ってくる。患者と向き合うのが干渉医の仕事。その役目を果たせているのか……わからない。過去の患者の中には、私の行いのせいで泣かせてしまった人もいるし、自殺してしまった人もいる。そんな私がなぜ一級干渉医として扱われているのだろう。レーシャが悲しい思いをすることが、私は怖い。
だが、私は歩みを止めない。干渉医という道を歩むためだけに私は育てられ、そして使命を背負わされたのだから。
彼女は今も二階で何かをして暇を潰していることだろう。一緒にいてあげるべきなのか、そっとしておくべきなのか……それすらもわからない。本当に干渉医は掴みどころのない職業だと思う。
「はあ……」
机に置かれたロストフィルズの書類を見ながら、ため息をつく。
『干渉医という存在にはね、実質的な価値がないんです。奇病は『世界という怪物』が生んだ意志力であって……消すことはできない。治すこともできない病を抱える人間に、寄り添う価値がありますか? 労働力を割く余裕がありますか? 私にはあなた方……干渉医が何のために存在しているのかがわからない』
父親の言葉が頭の中で木霊する。
正論だ。何も反論する余地はない。でも、
『ですが、それでも……あなたが干渉医の道を進むのなら、覚えておきなさい。いかなる道であろうとも、夢を諦めないこと。あなたが夢見る理想がその道に横たわっているのなら、必ずたどり着きなさい』
私の生涯を定めてしまった父の言霊。
私は干渉医という職に意味があると思う。
だって、自分が奇病を抱えてしまったら……不安になる。そのときに支えてくれる誰かがいてくれたら、私は嬉しい。それだけの意味が。
論理的な根拠なんていらない。奇病を持つ人を世界が切り捨てるのは簡単だ。でも、私の理想は患者を切り捨てる道の先にはない。すべての人の心を安寧に導くことは不可能だろうけれど、できるだけ多くの人の心が安寧の内にありますように。それが私の……妥協した理想だ。
――これ以上、私が『人の心を助ける道を歩めているのか』について考えるのはやめよう。
そうしなければ、私は……自分で自分を壊してしまうことになる。
私は今も、理想を追い続けている。
二
消失、消失、消失。
忘却、忘却、忘却。
――喪失。
白いシルクの布に、金色の糸を通す。
そのたび、なにかが喪われていく感覚が襲ってくる。針で布に穴を開けるたびに、私の記憶にも穴が開いていく。新しい金の色がシルクに加わるたび、私の記憶は空白に侵食されていく。
でも、手は止まらない。紡ぎ、紡ぐ。
もうすぐハンカチができる。これをデートに贈ろうと思う。この地区で作った物は外部には持ち出せないから……あんまり意味はないかもしれない。でも、私にとっては大きな意味があるのだ。
生まれ変わる私が唯一遺せるもの。すべてを喪ってでも、遺したいもの。
「……ふふ」
誰かが、笑っていた。
笑っていた。
――私の声だった。
私はどうして笑っているのだろう。糸を通すのが気持ちいい。喪うのが気持ちいい。デートが喜んでくれる瞬間を想像するのが気持ちいい。
「……あは」
私の声が聞こえる。
でも、私って……
「私って、誰だっけ?」
光なき部屋で、私はひとり呟いた。
……まあ、どうでもいいか。