2
「私達体の相性が良いみたいね」
初めて体を交わした翌朝、彼女がそう言った。
行きつけの酒場の常連客で、年度は違うが同じ学園の卒業生だということがわかって会話が弾み、親しくするようになった。
卒業後学園で教師をしている彼女の話を聞くと、遠い青春の日を思い出して懐かしい気持ちになった。
遠いと言っても、卒業してまだ三年しか経ってない。
父から受け継いだ商会は開発した新商品が軌道に乗り始めて経営は上向きになっていたが、だからこそ余計に限界が見え始めていた。
子爵家から娶った妻のおかげで貴族社会に人脈は出来ていたものの、上を見れば切りがなく、これ以上は上がれないという区切りだけがはっきりしていた。
そんなとき、妻のライサが言った。
──あなたと結婚して、本当に良かったわ。
心からの言葉だったのだと思う。
貴族令嬢を平民の商家が娶って苦労ばかりをさせてきた。
だからこそ、経営が上向きになってきたことが本当に嬉しく思えたのだろう。その言葉で俺も嬉しくなった。限界を感じたことで沸き上がっていた不安が消えていった。彼女と結婚して本当に良かったと思いながら、莫迦な俺はくだらない言葉を口にした。軽いからかいのつもりだった。
「俺以外と結婚する当てがあったのかい?」
「ふふふ。これでもね、伯爵家のご子息にも婚約を申し込まれていたことがあったのよ」
「……ふうん」
ライサは子爵令嬢だった。
実家に借金はなく、だからといって裕福過ぎることもない。
平民に降嫁しても少し高い身分の家に嫁いでも問題のない、ちょうどいいご令嬢だった。絶世の美女ではないが、地味過ぎることもない。側にいると心が落ち着いて、言葉を交わすと元気が出る。そんな彼女の存在に気づいていたのが、俺だけのはずがない。
俺が選ばれたのだと自慢に思えば良いのに、俺はなぜか酷く傷ついた。
天秤にかけられていたのだと、ライサを恨んだ。
自分が選ばれたのにもかかわらず、裏切られたような気分になっていた。ライサのことを浮気者だと感じてしまった。ほかに男がいたくせに、俺が酒を飲んで遅く帰るのを咎めていると怒りを覚えた。ライサ自身は外に出る暇もなく家のことと商会のことに忙殺されているというのに、俺には外へ飲みに出る自由を許してくれているということを忘れてしまった。
身勝手な感情に駆られて浴びるように酒を飲んだ俺は、彼女──行きつけの酒場の常連客ジャージダと一夜を過ごしてしまった。
体の相性が良いという言葉に、俺は浮かれてしまった。
俺以外を知らない妻のライサはまだ性的に未熟で、俺を求めることも称賛することもなかった。それを不満に思っていたのもあったのかもしれない。よく考えれば、商会が落ち着くまでは子作りを控えようとふたりで決めて、夫婦の営みも少なめだった。俺達が夫婦として成熟していくのはこれからだったのだ。
ジャージダと一線を越えた俺は彼女に溺れ、ちょっとした言い争いが元でライサと離婚した。
親父の死後、残された借金を母とふたりで必死に返済し、ライサと結婚後は彼女とふたりで新商品を開発し、やっと軌道に乗り始めた商会が傾きかけるほどの慰謝料を支払った。
浮気されるような女が悪いんだから、そんなもの支払わなくてもいいのに、とジャージダは囁いたが、そんなこと出来るわけがない。そんな不義理な真似をしたら、ライサとの結婚で結ばれた人脈だけでなく、これから作らなくてはいけない新しい人脈も結ぶ前に断ち切られてしまう。
ライサと別れて数ヶ月が過ぎたが、今のところ俺はジャージダと再婚するつもりはない。
商会の建て直しが大変で、それどころではないのだ。
仕事が終わって家へ戻ると、冷たい部屋が待っている。通いの家政婦は雇ったのだが、ライサがいたときとはまるで違う。どんなに気をつけていても、俺は自分の身繕いすら完ぺきには出来ない。昔……昔は完ぺきに出来ていたはずだ。学園在学中は片想い相手だったライサに見苦しい姿を見せたくなくて、結婚してからはライサがそっと乱れを直してくれて。
「……ライサ……」
最初は高嶺の花だと思っていた。
父が遺した借金を返せるほどではないけれど、在学中に出した新商品が当たって懐が温かくなったとき、笑われるのを覚悟で子爵家に話をしたら卒業までに借金を返せていたら婚約を考えてもいいと言われた。
それからは必死に働いて、婚約者候補として彼女に話しかけて上手く話せない自分に落ち込んで、でも彼女の笑顔を見るだけで元気が湧いて出て──ライサに会いたい。彼女に会って謝りたい。時間を戻してやり直したい。
仕事から戻ったところだったが、俺は冷たい部屋を出た。
ライサはまだ王都、この町の子爵邸にいるはずだ。