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「出会ったのは、半年前くらいで、大学関係の何かのパーティでした。彼女はご主人と一緒で」
「ちょっとまったー!」
いきなり佐藤君と声を合わせることになってしまった。おい、一発目からこれってこの先ドンだけ地雷敷き詰められてんだ。
「その魔性の女って人妻?!」
さすがの佐藤君も愕然としている。
「そうですが」
「エリックさん。それはどうなんですか……」
「いや、僕だって、普通なら惹き付けられたりしませんよ。だってよそ様の奥さんなんですから。でも」
「でも、って」
おっと、佐藤君が引き気味だ。
ただ私はうっすら思う。でも仕方ないんだ。きっとそういうことも起こりえてしまうんだろうな。
「でも、あの人は特別だった」
エリックさんは淡々と話を続けた。ちょうどご主人が席をはずしたときに彼女から声をかけてきたのだということを。エリックさんの話は結局彼視点でしかないわけで、どこまでが真実かなんてわからないけど、でもそもそも自分の視点しかもてない『恋愛』で、真実なんて存在しているんだろうか。
「本当に普通の話をしただけなんです」
それでも彼女は恐ろしいほどの力でエリックさんを惹きつけた。エリックさんの説明は途切れがちで、肝心なことを覚えていなくて説明しない割には、彼女の着ていたドレスとか手にしていたカクテルとかどうでも良いことは詳細だ。そんなつたない説明なのに、なぜかその風景は妙にはっきりと見えた。
長い髪と白い肌。多分、わかりやすい美人じゃない。笑うと右側の八重歯がちょこっとだけ姿の覗かせるファニーフェイス。でもそれが絶妙なバランスとなってその他の部分の造形の端正さを際立たせる。
魔性の女なんて言葉が必ず含む暗さや影なんてまったくない、明るくてくるくるよく変わる豊かな表情。
……ああいかん。だめだ思い込むな。エリックさんのその女があの人だなんってことはありえない。落ち着こう。
「気が付いたら電話番号を交換していました。その後は僕から連絡して。信じて欲しいんですけど、僕は本来こんな性格をしていない。別に亡くなった妻に固く誓ったわけじゃ在りませんがエミリが成人して自立するまでは、恋人を作るつもりすらなかった」
それでもエリックさんは彼女に連絡した。
「あとはもう、なにがなんだか」
エリックさんが伏せた部分と言うのは、どうなんだろう。我々未成年には聞かせるに忍びない大人の関係と言うのが含まれているんだろうか。
いや、逆になにもないのかもしれないな。
それならそれこそ言えないか。ものにしたわけでもない女に、根こそぎ大事なものを奪われたわけだから。スーパーへタレというやつだ。
エリックさんは彼女と出会ってから大事なものを渡してしまうまでの出来事を反芻して具合が悪そうに見えるくらい暗い顔をしていた。
「怖いのは、以後も彼女から普通に連絡が来ることです。僕は妻の作品を返して欲しいと重ねてお願いしている。いくらでもいいから買い戻したいとも。最悪の場合しかるべきところに出るとも伝えています。でもそれを彼女はにこにこしながら『作品を返すのは無理よ』と切り捨てるんです。でも僕から逃げない。まるで……自分が悪いことなんてしているつもりもないくらいだ」
エリックさんはそこまで言ってついに頭を抱えてしまった。
「そして僕の一番愚かなところは、そんな彼女でも魅力的に見えてしまうところだ」
妙に重苦しい沈黙に包まれた。
話としては、都市伝説みたいに「そんなんあるの?」と聞きたくなるようなことだ。でも表情をみても横の佐藤君も冗談だとは思っていない真実味があった。
「……彼女のご主人は」
「だめです。話にならない」
エリックさんはため息をついた。
「彼女の奔放さをご主人は知ってます。知って放任している。せざるを得ないみたいだ。彼女の行動を妨げたら自分が捨てられると知っているから。彼女の代わりはいないけど、彼女の夫に成り代わりたい男は沢山いて、隙を狙っている」
「エリックさんだけじゃないのか」
「おそらく。僕はエミリのことを考えると少し冷静になれるので、彼女に妻の遺作のことを相談することもできますが、それでもとても強気に出られない。彼女に嫌われることが怖いからだ」
「いったいどうなってるんだその女の人」
佐藤君がため息みたいに吐き出した。
「でもエリックさんは彼女に強く言ったことが無いんですね……それなら俺が代理で言ってみましょうか?俺、こんなでも寮長だから、交渉とかしたこ」
「やめておけ!」
佐藤君の言葉の終わりをまたずして、私とエリックさんは怒鳴っていた。
「君は僕の話をちゃんと聞いていたんですか。彼女には魔力がある。君みたいな若い子があんな女にひっかかったら一生をだめにします」
「やめておきなよ佐藤君。きっと大人の世界は我々の手に余る」
「そうかあ……」
佐藤君は私を不思議そうに見つめた。
「三嶋は落ちつているなあ。俺はなかなか信じられないのに、ちゃんと受け入れちゃっているよ」
「う、うーん。まあそういうこともあるだろうなって思っているから」
だって私達まだ、社会の端っこを知ってもいないんだよ、という私の言葉に佐藤君は納得してくれたみたいだった。
「ありがとう」
エリックさんが微笑んだ。
「誰かが話を聞いてくれることで気持ちは少し楽になりました。ここしばらく良く眠れなかったから」
そういわれてみれば、エリックさんは、先週初めてあった時より痩せているみたいだった。
「エミリにどうやって打ち明けるかはこれから考えます。高校生の君達に話して気持ちが楽になるなんて、どれほど情けない大人かと思うだろうけど、話せる相手もいないんだ。こんな話。君達があまり関わり無い高校生だから言えた」
エミリには内緒にしておいてくれと言う。あたりまえだ。こんな地雷持ってることだって本当は嫌なんだ。暴露なんてしてこちらへ延焼したらどうしてくれる。
「エミリにうかつな形で知られてしまうくらいなら本当に死にたいよ」
「話しませんよ。信用して下さい」
佐藤君もちょっと心外そうに繰り返した。うん、佐藤君は凄く信頼に値すると思うのだ。
「そろそろ昼だね」
そういってエリックさんは立ち上がった。
「よければ外に行こう。お昼をご馳走するよ」
エリックさんというのは、私達は出会った瞬間にドヘタレなところしか見ていないけど本当は想像するよりずっと、手堅く『大人』をやっているんだろうな。教授というのももちろんその一端なんだけど、香坂エミリの前ではきっと父親なんだろう。今までそれを優先させて香坂エミリを育ててきたんじゃないかと思うのだ。
本当なら、別に私だって良いんじゃないかと思う、恋愛くらい。
だって十年も寡夫なんだよ。普通だったら別の誰かと再婚していたって全然不思議じゃない。でも娘を優先してきたんだろうなと思う。
でもエリックさんはその反面自分のことをものすごく犠牲にしてきたんだろう。話をできる友人すらいないくらいに。
そもそも我々は丑の刻参り女と女装男だよ?そんなのに話をしなきゃ誰もいないくらい周りに話をできる人がいないんだ。
気の毒、なんてたやすくは言えないけど。
「俺、エリックさんが気の毒になってきた」
佐藤君が言ったのは、エリックさんと別れてからだった。送るといったエリックさんに別れを告げて駅に向かう。
シックなお店でてんぷらそばセットを頂いて、また来週も来る約束をして別れてからだった。そばはおかわりした、佐藤君はさらに追加で食っていた。なんなんだ、そばって。あの、腹にたまらなさ加減は食物としてやる気あるのかと問いただしたい。
「まあね……結局実務的なことは彼自身がやるしかないにせよ、そういう愚痴を言う場も無いって追い詰められるよね」
「そういうこと」
私達は、寮に帰る路線の切符を改札前で買った。
「俺、なんとか励ましメールを送ってみるよ」
「そういう佐藤君もつられて追い込まれないように気をつけてね」
「ああ」
しゃれにならない、とばかりの真面目な顔で佐藤君は頷いた。
「私は香坂エミリと話してみようかな」
「え、なんで」
「うーん、いざとなったらお父さんの味方してあげたいじゃん」
「ああ……でも友達ってどういう風になるんだろう」
まったくだ。夜中に女装して歩いている男子のほうがよほど簡単に打ち解けられた。
改札に入ろうとした時だった。小さな音だったけど携帯電話のコールがバッグのなかから聞こえた。
「三嶋、電話」
「あ、うん……」
私は仕方なく電話を取り出した。予想していて無視したかった電話番号がきらきらと液晶で光っている。私はそれをそのまましまいこむ。
「え、でないの?」
「うん、いいの」
そういって私は改札に入った。