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息抜き

八千百九十二等分の後輩

作者: 揚旗 二箱

 本当はやることがあるのに暇だ。忙しいのに退屈だ。

 そんな経験はないだろうか。

 目の前の課題とそれをこなそうとしない自分とで板挟みにされ、怠惰と罪悪感による精神的自傷感が心地よい。

 一刻も早くこんな状況は抜け出した方がいいのだが……なんだかクセになりそうである。

「先輩なにしてるんですか」

 思考の静寂を破ったのは部室の蝶番と、後輩の声だった。

「思考の静寂を楽しんでいた」

「また変なことを……ボーッとしてただけじゃないですか。目の前のそれ、日本史のレポートですか?」

「期限が明日の昼でな。全く手をつけていなかったからどうしたものかと」

「要するにレポートも頭も真っ白ってわけですね?そういうのは先んじてやっとくべきですよ。いまさらですけど」

「山田よ、人にはやるべきことがあっても暇な時間があってだな」

「私を逃避のダシに使ってないでさっさとやってください」

 キッパリと言い放つ山田は今日も手厳しい。我が文芸部で一番ラブがコメしている恋愛小説を書いた人間と同一人物とはまるで思えないな。

 さて、このままでは後輩に怠惰を糾されてみっともないだけの先輩になってしまうのでそろそろ筆を動かすとしようか。平成も終わったというのに手書きしか認めない教員などただのレガシィコストにしかならないと確信しているが、俺にはそれを正す時間も権力もない。学校教育の犬らしく、盲目に手を動かすのみだ。

「……」

「……」

「山田」

「……」

「山田よ」

「……」

「山田、自分と全く同じ人格の分身を行使できるとしたら我々は豊かに暮らせるのだろうか」

「無視しても話だすんですよね、佐藤先輩は」

 山田はばさっ、と不機嫌そうに読んでいた『僕明日』を閉じた。

「で?なんでしたっけ、ドッペルゲンガーですか?」

「少し違う。俺と共に行動してくれる、俺と限りなく似た存在……言い方を変えるなら身体が二つあったらという話だ」

「そんなの怪奇譚の定番中の定番でしょう。片方に課題を分担できたとしても自分と同時にサボり始めるだけですよ。両方とも同じ人格なんですから」

「だが、流石に尻に火がつけば違うだろう。窮地に陥ってもなお不毛な押し付け合いで時間を浪費するほど俺は馬鹿ではない」

「現在進行形で時間を浪費している人に言われても説得力ないですよ。気は済みましたか?レポートに戻ってください」

「むぅ……」

 山田にはさもどうでもいいことのように流されてしまったが、俺にとっては五百年も前に行われた治水工事よりは重要に思える。

 同じ人間が複数いたとして、それらが協力し合える立場にあるのなら効率はいいはずだ。だというのにこの手の話はドラえもんがそうであるようにサボろうとしたのび太くんが最終的に後悔するという教育的な寓話しかない。努力の重要性を説くことが目的なら不自然とまでは言わないが、違和感がある。

「山田」

「ハァ……なんですか」

「お前は宿題とか残ってないのか?」

「私の静かな読書を邪魔してまでする話ですかそれ」

「どうなんだ」

「先輩と違ってちゃんとコツコツやってますので。期限の前日まで残している宿題なんかひとつもないです」

「やはりな」

 例えば山田だ。我が後輩はご覧の通りたいへん要領が良く、夏休みの宿題なんか最初の二週間で終わりましたけど、とでも言いそうな雰囲気である。むしろ要領良すぎだ。殺人的な量の宿題を全て期限以内にこなせているものなど全生徒のうちせいぜい三割、まして放課後に部活までしているとなると数は相当絞られる。

 だがもし山田が複数の『山田』と協力し合える立場にあるなら、全て説明がつく。

「行くぞ」

「現実逃避ですか?」 

「真実を解き明かす実験だ。レポートなんぞ知るか」

「はいはい、お疲れ様でした……って」

 俺がその小説と眼球の間にノートを差し込んで手元の視界を遮ると、山田の目線が滑るように飛び込んできた。

「お前もついてくるんだぞ」

「絶対イヤです!だいたいなんなんですかさっきから私の読書の邪魔ばかりして!!」

「本は歩きながら読むがいい。これは大いなる陰謀かもしれないのだ」

「陰謀って……だいたいどこに行く気ですか」

 こういう時に山田はなんだかんだついて来る。なぜだかはよくわからないが、今だって文句を言い、本気で怒っているがもう腰を上げてカバンに本を仕舞い込んでいる。

「まずはグラウンドに行くぞ」


「着替えてきましたけど」

「ご苦労。俺も着替え終わったところだ」

 今日は体育教師が病欠していたため山田も未使用の体育着を持っているはず、その考えは的中した。

「ではさっそく走ろうか」

「えぇっ!?私はやりませんよ」

「走るのだ」

 じっ、と目を見つめる。これは俺が意識的にやっている説得術のひとつだ。今のところ、教師にテスト問題を吐かせたり山田に言うことを聞かせるのに使っている。

「うぅ……」

「『YES』だな。行くぞ」

「ち、ちなみにどれくらいですか?」

 今回の実験の目的は山田の身体に変化をもたらすことだ。それには十分な量の運動をしてもらわねばならない。

「千五百」

「せんっ……!?」

 絶句する山田に構わず走り出す。もちろん山田はついてきた。

 陸上部の長距離選手に混じり走る文芸部員が二人。異常な光景ではあるが、体育着を着て走っているおかげかとくに言及はされない。さも当然のように走り続ける。

「よっ、しっ……!」

 流石にバテてきた頃、ずっと後ろにいた山田が俺を追い抜き始めた。息も絶え絶えながらニヤッと上げたその口角からは、どうしても俺には負けたくないという意志を感じた。

「よかろ、うっ……!」

 そちらがその気なら、年上の本気を見せつけてやろうではないか。


「さっ、佐藤先パッ……なんで、途中、速っ……」

「ふんっ、なんの、ことだか……」

 千五百メートルを走り終えた我々はまな板の上の鯉のように酸素を求めて喘いでいた。正直、千五百メートルは普段走らない人間が突然走るには長すぎる気がする。今更だが。

 だが膝に手をつき肩で息をする山田は読み通り汗だくになった。

 作戦は第二段階に移行する。

「次だ、山田よ。三十分後、駅前のスタバに来い」

「また急ですね……というか三十分って、普通に間に合わないような……」

「それまでこの『僕明日』は預からせてもらう」

「それ私の!いつの間に!?」

 我ながら手癖が悪い。

「集合時間に遅れたら俺は帰るし、明日はレポートに忙しくお前に会うことはできん。この意味がわかるか?」

「返却が最速で週明けになる……!」

「そういうことだ、分かっているじゃないか。では先に行っているぞっ」

「あっ着替えだけ持ってそのまま行くつもりですね!?体育着での下校は校則違反ですよっ!」

「ワハハハ、知るかそんなこと!気になるのならお前だけのんびり着替えてくるがいい!『僕明日』がどうなっても知らんがなぁ!」

 正直キツイが全力で走る。

 駅前のスタバまでは俺が走れば十五分ほどで着く。どこかで着替えるとして二十分。一方で山田の歩幅ではどんなに頑張っても二十五分はかかる、すなわち普通なら着替えはおろか汗を拭く余裕もないはずだ。

 そう、普通なら。だが俺の読みが正しければ……。

 とにかく急がなくては。俺は悲鳴を上げる筋肉に鞭を打ち、死ぬ気で駅前まで駆けた。


 駆けた、のだが。

「遅いですよ先輩」

「そんな馬鹿な!?」

 駅前に着くと、山田がそこにいた。

 呼吸が完全に整って、しかも私服の山田が。

「ちょっ、ちょっと待て!お前、いったいどうやってここまで……しかも、私服に着替えたのか!?そんなわけはない!まさか本当に複数個体存在するのか?」

「複数個体?なんのことですか……?」

「とぼけるんじゃない。俺は知っているぞ、山田。お前は思考を共有するたくさんのクローンを使役してこのようなことをブハッ!?」

 蹴られた。腹を。そこそこの威力で。

「落ち着いてください、あととにかく着替えてきてください。そのままだと恥ずかしいので」

「な……あ……?」

「スタバに入るんでしょう、私たち一緒に。話ならそこで聞くので」

 俺に蹴りを入れておいて、山田は少し頬を赤らめながらそう言った。


「なるほど、私の要領がいいのはたくさんいるからだと思ったんですか。馬鹿馬鹿しいですね」

 俺が買う羽目になったキャラメルなんとかをつつきながら山田はため息混じりに言い捨てた。

「馬鹿馬鹿しくなどない。世の中には真実が大量に隠されているのだ。それを解き明かさずしてどうする」

「どうもしませんって」

「どうもしなくないじゃないか。あんなに走らせて汗だくにして、さらに制限時間がギリギリの場所を集合地点にしたにも関わらず、俺は息も絶え絶えで、お前は余裕なことに先回りしてさらに私服で現れた。こんなことは複数人いないと不可能だ」

 思わず一息で喋ってしまった俺を鼻で笑うと、山田は得意げな顔をした。

「実は不可能じゃないんです。まず私は学校に私服を着替えで持っていっていました。また、着替えそのものは急げばそんなに時間がかかるものでもありません。そしてタクシーさえ捕まえればここまで十五分強で来ることができます」

「タクシー使ったのかお前」

「はい。だからタクシー代もよろしくお願いしますね先輩」

「くっ……」

 なかなか予算が厳しくなってきた。真実の探究とはかくも厳しい道程なのか……。

「そこまでして『僕明日』を今日中に読みたかったのか……?」

「えっ?あ、ああそうですよ。はやく返してください」

 俺が差し出した小説をひったくると、山田はそのままカバンに押し込んだ。思ったよりは大事にしていないみたいだ。

「で、この後どうするんです?」

「この後?予定では何もない。今日わかった事実をまとめるべく帰宅するつもりだったが……」

「なら先輩にはカラオケに付き合ってもらいます。先輩のおごりで」

「何っ!?」

「私にあらぬ疑いをかけて逃げられるとは思わないことです」

 山田の手にはいつのまにか俺の財布が握られていた。

「手癖が悪いのはお互い様というわけか」

「いいえ、私は先輩に仕返しをしているだけなので。さぁ行きましょう。先輩には汗だくになるまで歌ってもらいますよ」

「レ、レポートがだな……」

「問答無用です」

 山田に手を引っ張られ、俺たちはスタバを後にした。


「くそぉ……確実に複数いるはずだったのに……」

「まだ言ってるんですか?まあでも」

 俺の手を引く山田は振り返って言った。

「私ともっとたくさん過ごしてたら、その証拠が掴めるかも知れませんよ?」

「じゃあまた来週」

「お゛う゛」

 ようやく山田から解放される頃にはすっかり夜になり、喉が完全に死んでいた。俺の番だけでなく山田の番にもデュエット曲を歌わされたのが原因だろう。

 山田と別れた住宅街の路地からは人の気配が消えている。

 とにかくもう帰ろう。レポートがそういえばまだ残っている。

「……ん?」

 道に何か落ちている。

 拾い上げてみれば、それは我が校の体育着だった。

「山田……まあ山田ならいくらでも学校にいるか」

 山田と刺繍された体育着は湿っている。今日雨は降らなかったから、おそらく今日ここに落とされた物だ。

「……」

 なんの違和感だろう。なんとなく、嫌な予感がする。

 なんとなく、振り返る。

「あ、先輩……」

 制服姿の山田がそこに立っていた。

「山田か。これ、お前の?」

「それ探してたんですよ、落としちゃってたみたいで。ありがとうございます」

 体育着を渡す。山田は遠慮がちに受け取った。

「それじゃ、また。『僕明日』を早く読み進めたいんですよね」

「ああ」

 山田はさっきの山田が去った方へと再び去っていった。

 その制服からは、もちろん、カラオケ屋の匂いはしなかった。

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