第2話:魔王様の不幸の始まり
「行け、速いぞ」
「魔王様、余りはしゃがないでください。危ないですよ」
完全にドラゴンの姿に戻った側近に乗り、リュシカは空の旅を満喫していた。ユニコーンに噛まれ一時はどうなるものかと、能天気なリュシカでも思っていたが、側近が付き添ってくれたので怖いものはなかった。
側近の背中の上で、辺りの景色は信じられないスピードで変わっていく。
空気の層を作って側近が飛んでいるので、音速を超えてもまったく無事であった。むしろ、快適と言っても良い。
魔王城から出たことがほとんどなく、外の世界を知らないリュシカにとって、側近の背中から見える外の世界は、物珍しく夢の世界に思えた。
「ところで魔王様」
「何だ、側近」
「どこの国を侵略するおつもりですか」
「一番弱い国だ」
側近はため息を漏らす。
「やはりそうですか、そういうと思ってその国に向かっています。進路はこのままで良いですね」
「さすが側近ちゃん、出来る女」
「だから、ちゃんを付けないでださい。前もいいましたよね。忘れたんですか?」
「良いではないか、良いではないか」
いつもなら、側近の剣幕に直ぐに引き下がるリュシカであったが、今ばかりは調子に乗っていた。外の世界に出て、テンションが跳ね上がっていたのである。
「側近、もっと早く飛んでよ」
そのテンションは、側近の背中の上で聖剣を振り回すほどであった。子供が木の棒なんかを意味もなく振り回すように特に意味はなかった。もちろん危険な聖剣なので、鞘にしまってである。抜いたらどうなるかくらい、リュシカにでもわかった。
「あっ、ちょ止めてください」
リュシカにとっては、全く理解できない反応が返ってきていた。
切られれば、雷に打たれたがごとく衝撃が走る聖剣であったが、鞘に入れれば無力。そう思っていたリュシカであったが、鞘から抜いていない聖剣であっても、魔族である側近にとって、その効果は絶大である。鞘に収まってなお抑えきれない魔力が漏れだしていた。
その魔力がスパークになって、側近の体にちょうどよいくらいの甘い痺れを与えた。リュシカが意味なく振り回すたびにスパークがはしるのだ。
「やっ、駄目です魔王様」
「えっ、えっ」
側近のその声にリュシカは困惑した。どうすれば良いか分からなかった。所詮リュシカは魔王である、聖剣の詳しい使い方など知らない。
揺れまくる側近の背中の上で体制を崩したリュシカの手から、聖剣が滑り落ちる。聖剣はあや越しで側近の体に当たると、強い痺れを与えた。そえは臨界点を超えており、聖剣とともに落側近は落ちていく。色んな意味で・・・
「もう、駄目なんです」
「えっ、冗談でしょ。頑張ってよ」
馬鹿な魔王は、今さらながら自分が愚かだったことに気づくが、時すでに遅しだった。
中堅国・グレートヴァリア王国。
王都近くの森で、少女は嘆き悲しんでいた。
清浄なる湖畔に涙が落ちる。
愛する勇者の死を、彼女は嘆いていた。
会ったことは一度もない。しかし、王国の王女として、彼女は勇者が魔王を討ち取った後、勇者に嫁ぐことが決まっていた。その美貌で隣国のみならず大陸中に名が知られる姫を、各国の王たちは、勇者に褒美として与えると確約したのである。
大国の姫ではなく中堅国の姫なら、勇者が大きな権力を持つこともなく、王たちにとって非常に都合が良かった。
しかし、そんな婚約であったが、姫自信にとっては意味が違う。笑ってしまうかもしれないが、話の中でしか知らない空想の勇者に彼女は恋していたのである。つまり、純愛であった。
彼女は泣いた。勇者が生前愛用していた聖剣。それが刺さっていたという湖畔の岩の前で……当然そこに勇者はいない。死体も何もない。しかし、彼女にとってそこは勇者にとっての墓標に近い場所だった。
「姫様、そろそろお帰りにならなければ、陛下がしんぱいします」
「アレン、もう少しだけ、もう少しだけ祈らせてください」
王直属の騎士団。その騎士団の若き副団長であるアレンは、辺りを常に警戒しながら、神経質に姫を守っていた。
魔界から近いグレートヴァリアである。魔族の出現に警戒していた。しかし実際に警戒しているものはもう一つあった人間である。
勇者が死んだという報は、多くの人間を絶望に叩き落し、王都と言っても治安は荒れていた。
人間の中でも、抜きんでた強さをもっていた勇者である。その強さは、邪魔になるから仲間も連れていなかったほどである。単騎で魔王を倒した勇者、その勇者を倒した新たな魔王、人間にとっては絶望でしかなかった。勝てる人間がいるとは想像することすらできなかった。
リュシカは、物量で魔界を攻められることを恐れていたが、人間たちはそんな気がないものがほとんどであった、何故なら、物量攻めとは死に行けと言っているのと同義であるからである。誰が勇んで死にに行くか、少なからず、勇者のおかげで魔族たちが人間を襲うことがなくなっていた現状、望んで攻めるものはいなかった。何もしなければ、魔族は攻めてこないのではないかと言うものまでいた。それが学者なのだからたちが悪い。
それは、一時的な平和を享受した恩恵であり、弊害であった。
前線で勇者が一人で戦い、安全な場所で勇者を支援することに特化していた兵士たちに、勇者があらわれる以前の殺さなければ、殺されるという狂気は既になかった。
だから、いつ王が魔界を攻めると英断を下すか国民たちは恐れていた。
王は安全な場所にいられる、しかし自分たちは前線で、生きた伝説である勇者を殺した新たな最強の魔王と戦えというのだ。権力の犬と言える国民といえども心はある。嫌でしかなかった。
だから、悪意は向かう方向を間違えさせる。
「死ね」
悲鳴が上がる。
徒党を組んだ国民たちが、姫を誘拐し国王を脅すために、騎士たちに襲い掛かったのである。
グレートヴァリアは中堅国である。他国に対して強く出ることが出来ず、王も賢い人物ではなかった。乗せられた王は、王たちの会議で、娘婿になるはずであった勇者亡き後は、先陣を切ってを攻めることを約束していたのである。そのため、国民たちの恐怖心は他の国よりほんの少し大きく、ほんの少し早く狂気を生んだのである。
「何だ」
騎士の悲鳴に、アレンが大声をあげる。
アレンは、素早く事態を察知することができた。
武器をもった国民を見れば、その殺気を感じ取れば事態は一目瞭然である。
「姫様は私の後ろに」
アレンは、自分の後ろに姫を隠し剣を引き抜いた。騎士たちはアレンを中心に姫を囲む。
「副団長さんよ。姫様を渡しな」
国民たちのリーダー格の男が、アレンの前に武器を構えることなく進みでた。
「断る」
アレンは、はっきりと言い切った。
「アレン様、私たちは姫様に危害を加えるつもりはありません。ただ、国王陛下に魔界を攻めるなんて言う馬鹿な選択を選んでいただきたくないだけです」
国民の参謀役の女がアレンに懇願した。
「……国王様には、普通に進言すればいいでしょう。私から伝えますよ」
アレンは少し悩んで否定する。アレンの中にも迷いはあった。
「それでは駄目だ。確実ではない。俺たちは、魔王と戦うなんて馬鹿なことを絶対にしたくないんだ」
「…………」
その恐怖に染まる瞳に、アレンは一瞬黙り込む。アレンもまた魔王に恐怖する一人だった。しかし、彼の心は弱くなかった。
「それでも駄目だ。こんなことは間違っている」
「そうかい、馬鹿が」
リーダー格の男は諦めたようで、憎たらし気に呟いた。
「ふざけるな、お前たちは前線で戦わないからそう言えるんだ」
「王だけ守ればいい、王の犬め」
「俺たちは、国の盾じゃない。国を守るの騎士たるお前たちだろ」
リーダーの静かな怒りとはうって変わって、国民たちの怒りの声が上がる。圧倒的な怒りに、姫は震えあがった。花を蝶よと育てられた姫にとって、その怒りは自分に向けられていないものでも、恐怖以外の何物でもなかった。震えあがり、アレンの背中に抱きつく。
「姫様」
それを一瞥するアレン。それが一瞬の隙だった。
「やれ」
リーダーの言葉とともに、騎士団の一人が、アレンの鎧の隙間に短剣を刺しこんだ。
「アレン、嫌」
姫が、アレンを指した騎士に捕まる。アレンは地面に突っ伏した。副団長の怪我にも冷静に、アレンの部下たちは、裏切った騎士を取り囲むが、姫が捕まっていては、どうすることも出来なかった。
姫は祈った。『助けて勇者様』と何処までも盲目に……姫とて勇者が死んだことを知らない訳ではない。勇者は助けてなどくれないのだ。
はるか上空
「死ぬ、死ぬ、死ぬ」
リュシカは重力に引っ張られ、高速で落下していた。リュシカは人間よりも丈夫に出来ているが、今のスピードで地面に落下したら死ぬ可能性があった。ゆえに、側近の上に隠れ、側近を盾にして落下した。
爆音。それとともに湖の水を、数10メートル近く巻き上げ辺り一面に雨を降らす。
そして、奇跡としか言えないことが起こった。リュシカの手からすべりおちた聖剣が、リュシカから少し離れ、かつて刺さっていた岩に突き刺さったのである。
生きてるよ。私生きてるよ」
湖から、ずぶ濡れのリュシカが出てきた。湖におちたおかげでリュシカに大した怪我はなかった。それなりに丈夫である。
リュシカが出てきた場所。それは偶然にも、姫を捕まえた騎士のすぐ後ろだった。
「誰だ貴様は」
裏切りの騎士は、リュシカを警戒するように怒声をあげた。しかし、辺り一面が静まり返っていることに騎士は気づき、皆が自分でも姫でも、リュシカでもない場所に視線を送っていることに気づいた。
「嘘だろ」
裏切りの騎士は、姫を離すほど惚けてしまい、その言葉を搾りだすかのように呟いた。
伝説の聖剣が、元の岩に刺さっていたのだ。
「奇跡です」
解放され、地面に手をついた姫はそう言葉を漏らした。姫もその奇跡を処理するのに脳が追い付かず、逃げることをしない。
動く人間が誰もいない中、魔王であるリュシカは一歩踏み出した。
そのリュシカも、人間たちが固まっていることに戸惑っている。
しかし、自分の愛刀である聖剣がなくなってしまっていることに気づき、剣を抜きに岩まで移動する足は止まらない。
「あれって」
「黙っていろ。変な希望は持つな」
希望を見出そうとした国民に、リーダー格の男が厳しい態度で応じる、しかし、反乱のリーダーも期待せずにいられなかった。もしかしたら……もちろん違うのであるが……
聖剣は主であるリュシカの手により、岩からすんなり引き抜かれた。
「ああ、おかえり愛しの聖剣」
リュシカが剣を握ると一瞬発光したが、それも鞘に収まると光が消える、リュシカは鞘に収まった聖剣を愛おしそうに頬ずりした。
それを見た人間たちの間に、歓声が上がった。
「……何、いったい何」
魔界でも聞いたことのない喉が張り裂けそうな歓声に、リュシカは驚き声を上げた。
「……あの、あなた様は?」
解放された姫が、ようやく今起きた奇跡に頭が追い付きリュシカの前に進み出た。
リュシカは、その姫を見つめる。リュシカは、姫から怯えと期待の感情を読み取った。
では、ご期待に添えるとするかと思い、リュシカは口を開く。
「ふはははは、よくぞ聞いた。私こそが唯一絶対にして、最恐のま……」
高笑いを浮かべ、人間どもを恐怖のどん底に叩き落そうとしたところで、リュシカは、自分の使命に気づく。自分は勇者に化けて王に謁見し、ぶっ殺すために、ユニコーンに噛まれてまで人間界にきたのだ。
その苦労が水泡に帰してしまう。魔王と名乗るのはナンセンスだ。しかし、この期待の目を、恐怖でゆがめたという悪魔的な欲求も、リュシカは強く感じてしまっていた。魔王とは、本来かくあるべきなのである。
「……最恐の魔王を打ち倒す、聖剣に選ばれし勇者。生ける伝説リュシカ=フルフォールである」
リュシカあ言い直した。リュシカは魔王と名乗るのを辞めたのだ。それは保身からである。何処かもわからない国で、魔王と名乗って殺されては、勇者を倒した意味がなくなってしまう。夢も希望もかなわない。リュシカは夢のために魔族の本能を抑え込んだ。
「……勇者」
姫は、一言、噛みしめるようにつぶやいた。自分の求め続けた存在が目の前に現れたのだ。様々な感情が頭の中を駆け巡った。
それを見たリュシカは、つまらなそうな冷え切った目で姫を見る。リュシカとしては、人間の喜びの感情ほどたちの悪いものはない。
「勇者の復活だ」
反乱のリーダー格の男が歓声をあげた。
姫だけではない。周りの人間すべてが、喜びと希望の感情を持っている。それも、自分に向けられるのだ。リュシカにとってこれ以上の屈辱はなかった。
争っていた騎士と、反乱を起こした国民たちも、武器を投げ捨て、一緒に肩をくんで喜んでいる。彼らの問題は勇者復活という事実だけで覆ったのだ。
「勇者様」
「勇者様」
「勇者様」
人間の歓声ほど耳障りなものはない。そう思いながらもリュシカは耐えた。これも魔界を統べ、人間と戦争するために必要なことなのだ。その暁には、この国から攻め落とし、地獄に変えてやる。リュシカは心に強く決める。
「あの、勇者様?」
姫が勇者に話しかける。
「何です?」
リュシカは、それに優しく返す。勇者としての好感度を上げて、王に謁見させてもらうためである。姫だとは気づいていないが、リュシカは姫の身なりから、相当身分が高い人物であることを察していた。
「どうして空から落ちてきたのです」
「どうして空から……」
理由なんて決まっている。聖剣を振り回していたら落下したのだ。しかし、そんなこと馬鹿正直に言ってもつまらない。どうしたものか?そう詮索していた時、騎士の一人が答えた。
「姫様決まっていますよ。このドラゴンと戦っておられたのです」
「えっ、姫……」
リュシカは、自分により一層尊敬のまなざしをむけるようになった少女を見た。利用できるんじゃないか?姫なら親である王のもとに案内させられる。そう思考しリュシカは王抹殺計画の成功を確信しようとしていた。
もちろんこれと言った中身のある計画などはない。
しかし、計画の成功を確信したのもつかの間である。どうしようもない問題が発生していた。完全に伸びている側近を、あろうことか騎士の馬鹿どもが、小突いているのである。
リュシカは恐怖する。自分への怒りと人間に小ばかにされている怒りで側近が暴れだしたら、人間はもちろんとして、自分まで殺されてしまうかもしれない。否、土下座すれば側近は優しいので許してくれるか?
側近に土下座する魔王など前代未聞である。
「止めろ。乱暴に扱うな」
「勇者様?」
疑念の視線が集まる。ドラゴンなんて人間にとっては憎しみの対象でしかない。それを乱暴に扱うなと言っているのである、疑念を持たれてもおかしくない。リュシカは考える。良い言い訳はないものかと……リュシカの頭では何も思いつかなかった。
「……もしかして、勇者様」
魔王とばれたかと、リュシカは姫の言葉に身構えた。
「勇者なだけではなく、伝説の竜騎士であられたんですね」
「竜騎士……」
そんなものリュシカは存在すら知らなかった。だが……
「ああ、それそれ。そのドラゴンは私の部下で信頼できる相棒なんだ。扱いは慎重に頼むよ。気性が荒くて手が付けられないんだ。今日も乗りこなすのに失敗してね、このざまだ」
完璧だ。完璧に誤魔化した。リュシカはそう思った。
「前の勇者は、ユニコーンに乗ったというが」
「ああ、今度の勇者様は竜だ。格が違うぞ」
「これなら、前の勇者様を倒した新魔王も倒せるんじゃないか」
「希望が見えてきた」
上手く誤魔化せたな。国民たちの反応にリュシカはそう思った。だが、それも一瞬のことであった。
側近が目覚めて自分を睨みつけているのが見えたのだ。皆殺しにされる。リュシカの頬に嫌な汗が流れた。
ドラゴンが切れているかは目を見れば一瞬で分かる。ドラゴンは切れると全身の血が沸騰したように体の中を駆け回り、目が充血したように赤く染まるのだ。側近の青く透き通った目が、今まさに真っ赤に染まっていた。
「おい、あれ」
「ひっ」
人間たちが、ドラゴンの怒りに気づいて悲鳴を上げた。怖いだろうな。私だって怖いのだからと、リュシカは頭を抱える。
「勇者様」
姫がリュシカの後ろから抱き着く。その体は恐怖で震えていた。
その姿をアレンは途切れる意識で悔しそうに見ていた。可哀想なことに刺された彼を気にするものはいなかった。
姫の大きな胸がリュシカに密着する。リュシカはそれを見て、心底嫌そうな顔をした。人間に触られるのが嫌だったのだ。
リュシカは思考する。ここでの選択肢を間違ってしまったら死ぬからだ。まず、目前の側近は自分を殺さない可能性は……絶対、殺される。切れた竜には土下座や謝罪の言葉など見えも聞こえもしないだろう。
では戦うかと考えるが、側近と戦って殺してしまったら、自分が人間界から逃げる方法がなくなる。勇者とばれたら、人間に袋叩きだ。逃げる手段として、側近には生きていてもらわなければ困る。
「皆、私から離れていろ」
リュシカは姫を突き放し、意を決して聖剣を引き抜いた。生かさず、殺さず……魔王らしくない。そんな思いを抱えながら……
鞘から抜けるとともに、雷音がとどろき聖剣は再び輝いた。光は青白い雷に代わり刀身にまとわる。リュシカが魔力を与えると聖剣の周りには鞘越しのスパークとは比較にならない放電現象が発生し、リュシカの周りには、人が立ち入ることのできない。異空間が形作られた。
「すごい」
誰とは言わない。人間たちは口々にそうつぶやいた。
人とは隔絶された圧倒的な力。それが勇者の力なのである。
リュシカは勇者の力が仕えた。さらに魔族最強の魔神族としての力も一部ではあるが持っている。ゆえに決して弱くはない。むしろタイマンで戦わせてもらえば、世界でも5本の指に入れる実力がある。しかし、度し難い弱点があった。
冷静さを失った側近も人間同様、リュシカの力に生き物としての本能から怯み一瞬の隙が生まれた。その隙を突くこともなく、リュシカは圧倒的な強者として悠然と進む。隙があろうとなかろうと聖剣を抜いた時点で意味などなかった。
側近は恐怖から魔力を口周辺に集中させ、大きく息をすってそれを飛ばす。俗にいうドラゴンのブレスである。その強さは人間の世界では神話の一つとして語られるほどである。けれども、守る必要などリュシカにはなかった。ただ聖剣から発生しているスパークに触れるだけでブレスは消し飛び、意味をなさなかったのだ。
「ごめんね」
悠然と進んでいたリュシカは、湖の前まで来ると、そう一言呟くと聖剣を湖に突き刺した。
湖は一瞬で沸騰し、水蒸気へと変わり始める。側近は聖剣からの圧倒的な力にのたうち回った。
リュシカはその姿を見て思う。加減がわかんないな。
部下の断末魔と思える声を聴きながら、リュシカは側近が力尽きるのをまった。
側近の綺麗な白銀の龍燐がミディアムレアにしたあたりで、リュシカは聖剣を湖から引き抜き鞘に戻す。やりすぎた気もするが、ドラゴンを動けないようにするには、半殺しにするしかない。
100分の1の力でも、ドラゴンは人間を殺せる。基礎能力が他生物と違いすぎるそういう生き物なのだ。
「……殺したんですか」
人間の誰かが、リュシカに問いかける。
そんな不吉なことを言わないでくれと思いながら、リュシカは側近の無事を祈る。
黒く焦げたドラゴンの残骸は、魔力を失い砕け散り霧散する。霧散して消えていくドラゴンの残骸の中心で、人間形態の側近が倒れていた。
それを見て、リュシカは側近に駆け寄る。湖の水はほとんど蒸発し、リュシカの膝までの高さしかなかった。しかし、それでも人間状態の側近には深すぎて、顔が水の上に出ていなかった。
「よいしょ」
リュシカは側近を水から抱き上げる。
側近は一糸まとわぬ姿になっていた。いつもドラゴンの時は服が破れて全裸になるのだが、人間形態に戻るときは器用に魔法で服を作っていた。しかし、今は意識がないのでそれも出来ない。リュシカは、自分のマントを脱ぎ側近を包む。
「これで良し……おっと」
リュシカは体制を崩して膝を付く。
リュシカの度し難い弱点、それは、圧倒的な持久力の無さであった。1体1ではドラゴンを圧倒できる力があるが、連戦するだけの魔力がないのである。ゆえに、リュシカは他人の力をあてにするしかなく、優秀な駒を求めていた。
「大丈夫ですか、勇者様」
膝をつくリュシカの周りに、人間たちが集まってきた。
リュシカは思う。人間ども今しかないぞ、私を殺す好機なんてな……どうか、そんな気を起こさないでください。
「勇者様」
人間の姫が、リュシカの前に進みだした。その顔はリュシカを心配そうに見つめている。
「はあ、情けないことに聖剣の力に慣れていないのです。疲れてしまった。彼女と一緒に、休める場所まで運んでくれませんか?」
「そのドラゴンの女性もですか?」
姫の目に疑念が宿ったことをリュシカは感じ取った。
「ええ、少々暴れようとしましたが何の被害もなかった。しかし、あなたのような女性を怖がらせてしまったのも事実。怖い思いをしたでしょう。そのことは私から謝ります。許してやっていただけませんか」
「そのことはいいです。それよりも……勇者様は、そのドラゴンをどうするおつもりなのですか」
「かつて、ドラゴンを乗りこなした竜騎士のように、乗りこなして見せようと思っています」
竜騎士のことなど知らなかったが、リュシカは利用できると思い適当な嘘を吐いた。
「何と勇ましい」
人間の誰かが、リュシカを称えた。
リュシカは、姫を見る。その目からは疑念の色が消え去っていなかった。
やばいよこの子。賢いのか?とリュシカは困惑する。
「勇者様は……」
姫は歯切れが悪く要領を得ない。それを見て、リュシカはどうしたものかと考える。
「……勇者様は、そのドラゴンが好きなんですか?」
「えっ」
リュシカはさらに困惑する。どういう意味で聞いているのか、まったくわからないためだ。
「答えてください」
姫は不安そうな、どこか怒った顔をしていた。
「ふっ、大切な相棒ですが、好きや嫌いの感情を向ける相手じゃない」
それはリュシカの偽らざる気持ちだった。
「そうですか……」
真実ゆえに姫が納得する。
「何故……何でそんなことを聞くのですか」
姫の疑念が晴れて安堵した顔さえみれば十分なはずなのに、リュシカは思わず聞かなくてもよいことを聞いてしまう。失敗したことは自覚している。
「それは……勇者様がそのドラゴンを抱きかかえたとき、すごく優しそうな顔だったからです」
不思議なことをいうな。そうリュシカは思った。側近は駒である。優しさを駒に向けたことは一度たりともない。優しさなんて、魔王には欠落している。
「姫様、反逆者とらえました」
「アレン」
アレンの刺された腹部には簡単な応急処置が施されていた。それでも、激痛がはしるはずだが、姫の前では毅然と振る舞う。彼なりの意地であった。
姫は、アレンを捉えた国民に目線を向ける。
「姫様、この者たちを先導したのは私です。どうか罰を与えるのは私だけに」
反逆者たちのリーダーが、そう申し出る。
「姫様、このものたちはあなたに牙を向けましたが、それはあくまで魔王の恐怖からです。勇者様が復活した今、もう王国に牙を向けることはないでしょう。それを踏まえて、どうかご慈悲を」
アレンは、自分が刺されたのにかかわらず、国民をかばう。
「副団長」
そのアレンの姿を見て、アレンを刺した騎士は涙を流した。
殺せ・殺せとリュシカは心の中で思っていた。人間が死ぬのは実に喜ばしいことであった。
姫は考える。この者たちを許したいが、自分にはその権力がないのだ。父王の耳に入れば、間違いなく殺されてしまうだろう。姫は父から愛されていることを自覚していた、そして感情で動く人であることも分かっていた。自分に刃を向けたものの処遇はわかっている。
リュシカは、騎士と姫のやり取りを見て、そろそろじれったくなってきていた。何をやっているんだ。この状況なら選択肢は一つ、反逆者のリーダーと裏切った騎士に他の者たちを生かす代わりに自害を命じる。覚悟が決まり、皆が助かるならと腹を切って死ぬとなった直前に、生かすといったものたちの首でも見せてやれば、最高に悪魔的だろう。
それとも、これ以上の絶望があるのだろうか、リュシカはワクワクして、姫の采配を待った。
「私は……」
そう言って黙ってしまった姫は、勇者を見る。
リュシカは姫が自分を見ていたので、殺ってしまえという思いを込めて微笑んで頷いた。
それを見て、姫は覚悟を決める。
「アレン、このものたちを解放しなさい」
「ハッ」
姫の命で、反逆者たちは解放される。
「父にこのこと伝えることは、何人たりとも許しません。決して他言しないように」
何ごともなかったように解放されていく反逆者たち。その様子をリュシカは呆然と見ていた。残虐な処刑はどうしたんだ。なぜ殺さない。魔王であるリュシカには到底理解できなかった。
「これで良かったんですよね。勇者様」
姫の言葉に、リュシカは思う。何で私に聞くんだ?
しかし、勇者の振りをしているリュシカにとっては、NOと言えない場面である。
「無駄な血が流れなくて済んだ。これ以上のことはありません」
リュシカは、あえて姫の好感度があがりそうな答えを選ぶ。もちろん、本心とは裏腹である。リュシカにとって、人間なんて言うのは殺して楽しむくらいの価値しかないのだ。
「はい」
姫が満面の笑みを浮かべる。その姿は美しい。グレートヴァリアの姫と言えば、その桜のように美しいピンク色の髪から、春の妖精と言われている。絶世の美少女である。
しかし、リュシカはその笑顔を好意としてではなく、侮辱として受け取った。人間の笑顔など、リュシカにとってはもっとも見たくないものの一つであった。リュシカは一つ決意する。この国を真っ先に攻め落とした暁には、この姫を生きたまま捉え、その顔を恐怖でゆがめてやろう。その時こそ、自分も本当の笑顔を浮かべることができるだろうと。
嘘の笑顔を顔に張り付けながらリュシカは我慢する。長い引きこもり生活で、我慢するのには慣れていた。
ご機嫌をとり、気に入られ、必ず王の御前まで案内してもらうぞ。リュシカはそう心に誓った。
そしてそのチャンスは思った以上に早くやってきた。
数分後
「姫様、馬車の準備が出来ました」
リュシカと姫が話している間に、騎士たちが馬車の準備を着々と進めていた。
「はーい。ありがとうございます」
騎士たちに溢れるような笑顔で姫が答えた。その姿は美しく誰しも思わずため息を吐くほどであった。ただ、リュシカだけは、別の意味でため息を吐いていた。
姫が王に是非紹介したいと言うので、これは幸いとリュシカは姫に付いていくことを決めた。しかし、馬車の準備をしている間中、リュシカは姫に質問攻めにされたのだ。
その内容も、リュシカとしては意味の分からない好きな女性のタイプという、生産的と言えないもので、リュシカは答えに窮した。リュシカは異性に興味がなかった。愛などという感情を持たないリュシカにとって、異性だけではなく他人というのは、使えるか使えないかで判断する以外の価値基準をもたず、好きという感情事態が分からなかった。
表面上は愛という言葉を使えども、心の底から愛というものを感じたことがなかった。
ゆえにリュシカは、適当に姫の特徴ばかりあげることにした。姫は非常に上機嫌なのはそのためだ。もちろん、リュシカが適当に機嫌をとっただけである。
「勇者様ったら、私のこと……これって相思相愛?」
姫とは真逆の引きつった笑顔をリュシカは浮かべた。作り笑顔もいい加減、限界であった。そもそも、あったばかりの自分にここまで好意を向けていることを、リュシカはまったく理解できなかった。
馬車の中でもどうでも良い姫の質問が続く。馬車の中には怪我したアレンと意識のない側近も一緒に乗っていた。アレンは複雑な表情でデレデレした姫を見ている。
リュシカは、姫の話に飽き飽きして馬車の窓から、王都の街並みを見ていた。
そこに映ったのは、王都ゆえに華やかな街並みだった。今いる国が栄えていることがわかる。しかし、そこに住む人たちはリュシカには幸せそうには見えなかった。違和感がリュシカの中に疑問として残った。
モノに溢れかえっているのに、中身がない。リュシカにはそう見えた。
馬車はリュシカと言う最悪の魔王を乗せて城まで進む。
それはまさにトロイアの木馬のようだった。ただ、不幸になるのは招き入れた人間だけとは限らない。魔王リュシカの苦難に満ちた人間界での生活はここから始まったのである。