582 殻にひびが入る日
今回はミュリエッタさん視点。
「ミュリエッタ?」
「……お父さん」
手紙が、来ない。
わざとあんな風にまでしたのに、あたしの行動を咎める人も現れなければ、あたしが会いたいと思っているあの侍女さんからの連絡もない。
時々、今地方に出ているリード・マルクからの贈り物や手紙が届くけれど、それだって婚約者としての義務を果たしているって感じの儀礼的なものだ。
別にラブレターがほしいわけじゃないし、お説教とかそんな鬱陶しいモノじゃないことはいいんだけど……。
何もないってことが怖いって、今のあたしは、知っているから。
イライラしてどうしようもなくて、また爪を噛み始めてしまった。
その痕が痛々しくなって、自分に治癒をかけて傷は誤魔化せても爪は誤魔化せない。
「どうしたの? お父さん」
「お前こそどうしたんだい、ミュリエッタ」
「あたし? ……あたしは大丈夫よ」
「そうか……。ええと、リード・マルク殿とは上手くやれそうかい?」
「ええ、勿論」
にこにこといつものように笑顔を浮かべて、お父さんを安心させようと心掛ける。
一人にしてほしい、でも不安だから何も言わず傍にいてほしい……そんな矛盾した気持ちがあって、でも八つ当たりしちゃいそうだからできるだけ会話を早く切り上げたい。
そんなあたしの気持ちを、きっとお父さんは見透かしている。
お父さんはあんまり頭を使うことが得意じゃなくて、あたしに頼りっきりなお父さんだけど……それでもずっとあたしを見守ってきた保護者だ。
愛して、大事にしてくれるお父さん。
(あたしが危ない真似をしているって知ったら……叱るかな。怒るかな。それとも呆れて偉い人に報告しに行っちゃうかな)
そうされても仕方のないことをしているって自覚はある。
けど、あたしは自分の物語を始めるために今足掻くしかないのだ。
それがたとえ、良くない方法だとしても。
「……俺が貴族になって、お前も国一番の商人の跡取り息子と縁談だなんてなあ。母さんが聞いたらどれほど喜ぶだろうな」
「お父さん……?」
「俺は頭も悪くて、要領も悪かったから本当に母さんとお前には苦労ばかりかけちゃったからなあ」
泣きそうな笑顔で、あたしの頭を撫でるお父さん。
いつの間にか目尻に皺が増えていたお父さん。
ちょっと前まではいつも汗と泥の匂いがして、無精ひげをはやして……早くお風呂に入ってよってあたしが言って、エールを出しておいてくれってゲラゲラ笑いながら井戸に向かっていたお父さん。
今は石鹸の香りがして、身綺麗になって、無精ひげなんて生えてなくて。
どこからどう見たって、前よりもいい生活を送っている。
(あたしが、そうなるようにした)
お酒が入るといつも死んでしまったお母さんの話をしていたお父さん。
優しくて美人で、自分には勿体ない人だったって。
恋を実らせて一緒になれたことが幸せで、そんな人との間にできたあたしは宝物だって……。
いつも、そう言っていた。
だからあたしは、あたしのことが誇らしかった。
この世界のヒロインだから見た目も可愛いし、中身は前世の記憶があるから頭もいいし、愛されてしかるべき存在だと思っていた。
思っていたけど、やっぱり親から愛されているのが、何よりも誇らしかった。
でも、あたしは知ってしまった。
お父さんとお母さんは、愛し合っていた。
愛し合っていたけど、誰にも認めてもらえない関係だったから駆け落ちしたってこと。
そしてその先でお母さんは死んでしまった。
お父さんは自由を選んで冒険者になったっていうけど、本当は……そうじゃなかったのかもしれない。
二人で逃げ出した先で選べたことが、それしかなかったのかもしれないということに気がついてしまった。
「……お母さんは、本当に喜ぶのかな」
「どうした?」
「だってお父さんとお母さんは本当に好き合って結ばれたじゃない。あたしみたいに、婚約者を勝手に決められることもなかった」
「それは……」
「聞いちゃったの。お母さんとお父さんは駆け落ちだったって。ねえ、二人はそこまでして愛を貫いて、後悔しなかった? 後悔しなかったなら、なんであたしには『婚約者が決まって良かった』って言うの? 相手がお金持ちだから? 王様が決めたから? でもあたしの気持ちなんて誰も……!」
止まらなかった。
ああ、そうだ。押しつけないで。
二人は愛し合っていたから誰からも、環境からも逃げたとしても、幸せだったんだろう。
あたしという子どもにも恵まれて、あちこちを旅しながら愛を……。
(でも、それは本当?)
お父さんは幸せだと言う。
でもそれはあたしが貴族にしてあげたから、今は生活に困っていないからであって、もし冒険者をしていた頃に大怪我を負っていて……あたしに前世の記憶がなかったら?
それでも同じことを言えただろうか?
お母さんだってそうだ。地元に婚約者だかなんかがいたって話で、そこから二人が逃げてきたんなら、あたしと同じじゃないか。
お金があって生活に苦労しない相手を選んでもらっても、幸せじゃなかったんでしょう?
もしかしたら放浪の生活がいやだったかもしれなくても、あたしがいたから地元に戻れなかったのかもしれない。
愛した人を裏切るのが怖くて言い出せなかったのかもしれない。
(わかんない……わかんないよ)
「……ミュリエッタ、少し話をしようか。茶を淹れような、キッチンへおいで」
「……」
「さ、おいで」
手を差し出される。
不安からとうとう怒って八つ当たりしてしまった。
でも大きな声であたしの中に渦巻いていた気持ちを吐き出せたおかげなのか、少し冷静になれた。
お父さんは、怒っていない。
少し、悲しそうだけど。
その表情を見たら、いやだってなんでか言えなくて……あたしは、それでも大人しくしたがいたくなくて、差し出された手を無視してお父さんの横をすり抜ける。
よくない態度だってわかってる。
あたしが勝手に知って、勝手に怒ってるだけだ。
お父さんは、きっとお母さんが苦労したからこそあたしの婚約を素直に喜んでいる。
でもあたしは素直に喜べない。
あたしは、お父さんたちみたいに恋をしたかったのよ。
誰からも祝福される恋ができるんだって、小さな頃から思っていたの。
ミュリエッタに生まれ変わったんだもの!
それが約束された未来だったはずなのに!!
(もし、アルダールさまと結ばれていたら……)
お父さんは、今みたいに喜んでくれていただろうか。
自分の娘が、自分と同じ冒険者の道を歩むことを応援してくれただろうか。
(もう、何が正しいかわかんないや……)
逃げ出したかった。
でもどうやって逃げ出していいのか、まるでわからない。
助けてほしかった。
誰でもいいから。
(幸せって何かな)
あたしが求めていた幸せって、なんだっけ。
ふとそんなことを思いながら、キッチンの、所定の位置に腰掛ける。
向かいに座ったお父さんの顔をちらりと見れば、優しい目をしていた。
そのことに心からほっとして、まだ愛されているんだって安堵する自分がいやだ。
あたしがいなきゃ英雄になれなかったお父さん。
いつだって使われる側で、失敗ばっかりだったお父さんを支えていたのは、あたしだったはずなのに。
なんでだか、このお父さんから与えられる愛情に、あたしは泣きたくなったのだった。




