533 幸せの定義
今回はミシェルさん視点。ちょっと暗め。
(なんで? どうして? あの人はアタシのことが好きだったんじゃないの?)
誰しも初恋は特別。
どんな劇作家だって、恋愛を尊ぶ神様だって、そう言うわ。
アルダール・サウル・フォン・バウムにとってもアタシはそういう存在だったはずだ。
(なんで? どうして?)
確かに三回しか会っていないと言えばその通りだ。
でも彼はその三回で、アタシを否定したことは一度たりとてなかった。
それに対してちょっとばかり図に乗ったのは認めよう。
相手が庶子だからって言い過ぎたりしたことも、反省した。
(でも! それこそアタシのことを気に入った証拠でしょう!?)
貴族の令息が、見合い相手とはいえ商人の娘相手に否定を一つもしないで静かに頷いてくれる。
それは将来を約束してくれたも同然ではなかったのか。
いいや、大人になった今ならそれが当主の意向に左右されると知っている。
(……そうよね? 当主が言ったからどうしようもなかっただけ、よね)
ただ、あの頃のアタシも子供だった。彼もまたそうだ。
アタシは彼に運命を感じ、彼はそんなアタシを否定しなかった。
(何もかもを受け入れてくれる名家の子息がアタシの婚約者になるのだと知ってどれほど胸を高鳴らせたことか!)
裕福な商人の娘、足りないのは身分だけ……そう思っていたアタシにとってアルダール・サウル・フォン・バウムという男はまさしくアタシを高みに連れて行ってくれる相手だと思ったのだ。
たかが商人の娘で終わるはずがないって。
なのに。なのに。なのに。
ちょっとした失敗で、アタシはバウムの当主さまに嫌われてしまった。
そこからは、転落人生だ。
挙げ句の果てには、牢屋にいるだなんて!!
(あの時は、伯爵さまの勘気を被った。でもあれは伯爵さまの心が狭かったのよ、だってアタシはまだ子供だった。世間知らずだった)
父が咎められたのは、子供に甘すぎたせいだから仕方ないのだろうけれど。
結婚を視野に入れる年齢だったから、お説教くらいで許してくれればいいのに。
その結果、アタシはしたくもない留学をさせられた。
シェルラーニ工房と遠い縁つながりの商会で働き始めたお父さんが、投資に失敗して……売られるようにしてアタシは金持ちの後妻に迎えられ、そして放り出されて。
(なんでこうなったの)
呆然とするしかない。
仕方がなく結婚するなら、初恋の相手が戻ってきたことに喜ぶと思った。
そうであってほしいと願った。
あの〝英雄の娘〟が彼に恋をして破れたと聞いて見に行って、ああ、小娘ごときって笑ってやった時は最高に興奮したのに。
アタシが彼の初恋だと言ってやったら、愕然としちゃってさ!
婚約者がホンモノの貴族令嬢で、王様も認める相手ならアタシが正妻に取って代わるのは無理だと百も承知。
愛人としてあの家と同程度のものを準備してもらえれば、後妻として生活していた頃よりも矜持は保たれるし惨めな思いはしないで済むって……。
「……本当に牢屋にいるのね。罪になるの?」
「まあ、憲兵たちの話によると侮辱罪と侵入罪あたりになる案件だというからね」
呆然とするアタシの前に、一組の男女が現れる。
それはアタシが見下したミュリエッタ・ウィナーと、見知らぬ男。
ただ、アタシの隣の牢屋に入れられていた父がのろのろとした動きで檻に縋り付いて、隙間から手を伸ばすのを横目で見た。
「リジル商会の若旦那……! どうか、どうかご慈悲を……!!」
「おや、僕を知ってるんだ」
リジル商会の若旦那?
あんな若いやつが? そういえば〝英雄の娘〟はリジル商会に嫁ぐんだったか。
貴族の端くれに名を連ね、平民たちからは持て囃され、恋した男にフラれても大商会の御曹司と婚約した女。
アタシと何が違うのか。
たかが冒険者の娘で、運良くのし上がっただけの小娘なのに!
「……どうする? ミュリエッタ」
「挨拶だけするわ」
「そう」
冷たい表情でアタシを見下すそのツラは、治癒師として持て囃される女がしていいものじゃない。
それを見上げて、アタシは笑う。嗤う。
「ああ、アンタはあの男に選ばれないのも頷けるわね! それがアンタの本性でしょ!?」
嗤う。
アタシとアンタは同類だ。
結局、欲しいものは何一つ手に入らないんだから。
「そうね。でも、おかげでわかった。あたしは恵まれている。望んでなくても、まだあなたよりマシ」
「……!」
「おかげで、また一つ現実を見ることになったわ」
「は? それって……」
「あなたが知る必要はないの」
どこまでも冷たい目は、アタシを見ているようで見ていない。
勝手に傷ついて、勝手に納得した〝英雄の娘〟は何かを言おうとして口を閉ざす。
「何よ、言いたいことがあるなら……!」
「あなたにはないわ」
被せるように、否定の言葉を放つその姿は勝手だ。
どいつも、こいつも勝手だ。
アタシは幸せになりたくて、幸せだったから調子に乗っただけだ。
その償いとして若く美しい時間をあんな老人の後妻になって費やしたのだ、次こそと思って何が悪いというのだ。
その間にこの女を見下げることで傷ついた矜持を保とうとしたのは我ながら性格が悪いと思ったけれど、それだってアタシの独断ってわけじゃない。
「行こうかミュリエッタ。きっとあちらもそろそろ片がついているだろうし、これ以上ここにいてもいいことはないよ」
「……ええ」
にこりと微笑む青年は、彼女を先に行かせてアタシたちの前にやってくる。
そして満足そうに笑った。
「下手を打ちましたね。シェルラーニ工房はビクともしないというのに……甘言に乗せられるよりも地道な積み重ねこそが親方の教える美徳でしたでしょうに!」
「そんなの!」
そう、アタシたちに声をかけてきたのはシェルラーニ窯工房の競争相手だった。
アルダール・サウル・フォン・バウムの結婚にケチをつけるか、あるいは愛人になれた場合は情報を流し、何かしらの便宜を取り計らってもらえるよう努めること。
リジル商会に嫁ぐ予定のミュリエッタ・ウィナーにも接触しておくように。
そういった指示を出したのは、誰かは知らない。
だけどどこかの商人たちだとは思う。
でもどうでも良かった。
とにかくアタシは、あの環境から脱したかった。
(おじいちゃんが地道な努力を説いていることは知っている。散々、耳にたこができるくらい聞いてきたもの)
だけど今更それを行ってなんになるというのだろう。
アタシは最も美しい時間を他国で、老人の妻となって失い、挙げ句に寡婦として追い出されたのだ。
これ以上、成功するかどうかもわからない中で惨めな日々を送るのはごめんだ。
アタシたちは賭けに出て――そして、負けたのだ。
「笑えばいいわよ! アンタに勝ち誇ったアタシが惨めにこうやって這いつくばってるのをわざわざ見に来たんでしょ!?」
遠ざかるあの女に向かってアタシが声を荒げても、きっと届きはしない。
アタシはどこで間違えた? おじいちゃんが言っていた通りにやればよかったのか?
地道に? コツコツ?
そんなの無理よ。今更。
「大丈夫。保釈金はリジル商会で持ちますよ」
うなだれるアタシたちに、彼が言う。
顔を上げると、彼はにっこり笑っていた。
「彼女がより現実を認識してくれた、そのお礼です。いやあ、予想外のことをしでかす人が現れたおかげで思いがけない幸運でした」
「……?」
何を言われているのか、さっぱりわからない。
ただわかるのは、アタシたちはどこまでも、利用される側の人間だったってことだ。
「必要以上に望まなければ生きていけるよう手配はします。これは感謝の気持ちですから」
ただ、それ以上を望めない。
突きつけられたのは、アタシの限界なのか。それとも。
「幸せは、人それぞれですからねえ」
そう言って去る彼の背中に手を伸ばす。
アタシは、何を求めているのか自分でももうよくわからなかった。




