513
アルダールはライアンに対して特に何かを思っている……ということはなかったようで、不思議なものです。
ニコラスさんの時はあんなに不機嫌になるのにね!
と思いましたが、ライアンとニコラスさんを同列にしてはいけませんね。
このことを口に出したらライアンからも苦情をもらってしまいそうです。
いけないいけない。
とまあ、そんな感じで婚約式までの準備は整いつつある中、侍女にしてもらいたいだのなんだのそういった手紙も減ったし愛人志望に関しては……まあ、残念ながら未だにちらほらといったところでしょうか。
それでも社交に足を運んだり新居に足繁く通うことで周囲からは私たちの結婚が上辺だけのものではなく、政略であったとしても互いに関係を築いている、もしくは築こうとしているものであるという認知が広がっているようです。
(おそらくはビアンカさまやアリッサさまがご尽力くださっているのでしょうけど。あとはキース・レッスさまもいろいろ動いてくださっているようだし……)
まあね、社交に顔を出さない夫婦よりは顔を出している方が噂を流すのにも信憑性は高まりますもんね。
これまでは私たちがあまり顔を出さなかったから、いくら上の人たちが頑張ってくれたとしても『でもねえ……』みたいなゲスの勘繰りをする人たちもいたでしょうし、そちらの方が噂としては楽しいでしょうからね!
でも社交場で仲睦まじい姿を見たとかそういう話があちこちで小さくとも聞こえてくれば、悪い噂にばかり興じる人の方が白い目で見られるというもの。
まあ噂にばかりかまけているようではそれこそ同類……ってやつなんでしょうけどね!
(愛人候補の人たちはどこまで食い下がるのかしらね)
私たちを貶めたいだけなのか、それとも本当に切羽詰まっているのか。
とはいえわざわざ話を聞いてあげるほど私たちも親切ではありませんので、やはりスルーです。
「おや、王女宮筆頭さま。奇遇ですなあ」
「あらこれは……フィッシャーさま、珍しいところでお目に掛かります」
私が統括侍女さまへの定例報告を終えて王女宮に戻る途中で声をかけてきた人物がいました。
そう、何を隠そうこの人こそスカーレットが『キツネ顔』と呼んでいた方なのです。
ボンド・エルランド・フォン・フィッシャー男爵。
そう、この人男爵なんだよね。
ちなみに経理部にあるいくつかの部署のうち決裁済みの書類を整頓する部署の室長補佐っていう微妙な立ち位置にいるんですが……。
この部署は過去にあった決済関連で前回と大きく異なるなどのチェックに用いられるわけだから地味に見えて結構大事なところです。
定期的に城内の各所の予算決めで他の部署がチェックを入れて予算会議に回すのでなかなか面倒な仕組みのところではあるし、普段はきちんと整理整頓しておけば平和な部署って私は聞いているけれど……まあこの補佐が嫌われ者なのです。
基本、仕事しない。
補佐っていう役職名で呼ばれるのを嫌う。
実際にはこの方の実家であるフィッシャー侯爵家の縁故で採用が決まったにもかかわらず『自分の実力だ』と声を大にして文句を言い続け、そして本来の室長にシメられているって話です。
自部署の過去書類を閲覧することができるのですが、スカーレットが以前シーツを買い替える際に少しグレードを上げたくてここ五年分の資料を閲覧しに行ったら嫌味を言われたらしいんですよ。
若い女性に絡んでは嫌味をネチネチ言うのが趣味な男性なのです。
当然、モテないので独身ですね! 確か四十は越えていたと思いますが……。
(先日は経理部の飲み会で『王城内の女はどいつもこいつも見る目がない』とか騒いでいたそうなので、侍女たちには気をつけるよう注意勧告が出てましたっけ……)
最近、内宮や外宮に配属される若い侍女たちに声をかけてはフラれて嫌味を言っているとかで話題になっていたのを思い出しました。
「いやはや、王女宮筆頭さまは暇そうでなによりですなあ。わたしなぞほれ、仕事が忙しくて昼休憩も取れずこのような時間ですよ!」
「あら、さようですか。それはご苦労さまです」
これみよがしに嫌味を言ってきますが、痛くも痒くもないんですよ。
ええ、今頃忙しいなんてありえませんもの!
決裁時期は確かに王城内の部署各所で異なるため、経理部は年間を通して忙しくない日はないと言われています。
城内の人間だけでかなりの数になるため、そのお給料の管理、経費など同じ時期に一括で……なんてかなり難しい話ですのでね。
とはいえ、ある程度は各部署でこの月までに提出、みたいに定めているのでそこに合わせてみんな計算していくのです。
ちなみに王女宮のように小さなところは経理部に直接赴きますが、外宮や内宮、騎士隊など大きなところは経理部の人間が常時駐在してある程度まとめたものを提出することになっています。
その分人員を多く割いていますし、なんだったらどこでも経理部の人はいる、みたいな感じではあるんですが……。
まあそこは宰相閣下の肝いりだとか。
ちなみに経理部のトップは大変優秀で厳しい方と有名です。
私から見たら物腰穏やかで、道理さえ通せば話は聞いてくださるし、改善案も一緒に考えてくださる方なんですけどね?
少なくともブラックな働かせ方はしていないはずですし、決裁書類の保管庫業務には機密も多いですから多くの人間が配備されているのです。
だから彼一人が苦労する……なんてことはなく、あちらがそれこそお昼の時間をずらしてまで作業をしていたなんてことになれば、それは業務が滞っている……つまり、どこかの部署でトラブルが発生していると丸わかり。
(まあ経理部でトラブルなんてないですね。私が先ほど部署前を通った際はいつも通りの空気でしたから)
なんだったら城下警備の部隊が酔っ払いを諫めるのにお店の備品を壊した弁償代について協議が行われていましたよ!
(……そういえば)
あの愛人志願者の中に、フィッシャー男爵が懇意にしている家のご令息がいたな……なんて思い出して私は思わず遠い目をしてしまいました。
もしかしなくても私のことをここで待っていたのでしょうか?
それこそどっちが暇人だって話なんですけど?
「私は業務の途中ですので失礼いたしますね」
「おや、つれないことだ。……ああ、そういえば一つご相談が」
「……なんでしょう?」
聞きたくないなと思いつつも、ここで無視を決め込んで本当に大切な情報を逃してもいけないと私は仕方なく足を止めました。
そんな私を見て、フィッシャー男爵はにやりと笑っているではありませんか。
まったく本当に暇な人ですね!?
「いや実はわたしの知り合いが貴女に恋い焦がれるあまり体調を崩してしまいましてな。ああ、ああ、勿論別に彼の想いに応えてやってほしいという意味ではなく! 王女宮筆頭さまがかの近衛騎士殿と仲睦まじいことはわたしも存じておりますとも。ですが、日に日に弱っていく姿を見るとどうにも哀れで……どうか一度直接、断ってやってはもらえませんかな」
「……」
「若い男にはありがちでお恥ずかしい話ですが、一度踏ん切りをつけねばあやつも前に進めますまい。どうか若者を救うと思って、そしてわたしの顔を立てると思って」
多分本人は悲しげな表情を浮かべているつもりなんでしょうが、ニヤニヤしているのが丸わかりで逆におかしなことになっています。
私は盛大なため息を吐きたいところでしたが、小首を傾げて見せました。
「……ということですが、どう思います? アルダール」
「そういうことなら私も同席させていただこうかな。その方がお相手も踏ん切りがつくと思うからね」
「ひっ!?」
あら、まあ。フィッシャー男爵ったら情けない声上げちゃって。
人が垂直に飛ぶところなんて滅多に見ないものを見て、私は思わず吹き出しそうになるのを堪えるのでした。




