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その後、アルダールに案内されるままに別邸の中を散策して、悲しかったこと、悔しかったこと、寂しかったこと……ぽつりぽつりと、零すように語る彼の言葉を私は聞き逃さないようにしました。
別邸の中は想像していた通り、少し古めかしいもののとても落ち着いた、立派なものでした。
おそらく建物の価値として考えたならば、ハイクラスといえるものです。
侍女視点で述べるのであれば、高位貴族や王族の方々をお招きしても恥ずかしくないだけの品格を持った別邸といえるでしょう。断言できます。
勿論、そういったお客さまをお迎えするとなれば絨毯やらカーテンやらは変えた方がいいかなとか、そういう端々のことはありますが……。
それはともかく。
幼少期、邪魔な庶子を押し込めるだけならばここよりももっと別の場所があったに違いありません。
これだけ立派な場所に母子共に過ごさせていたということは、バウム伯爵さまはもしかすれば二人をアリッサさまの許しを受けた後に、愛人とその間に儲けた庶子として遇するつもりだったのかもしれません。
そして、愛人を囲うその場所としてここを選んだのかもしれません。
もしそうなっていれば、おそらく……アルダールにとっては、そう不幸ではなかったかもしれません。
いえ、そもそもがクレドリタス夫人にアルダールという〝息子〟を受け入れることができていないので破綻しているんで、仮定しても無駄なんですけどね。
「大丈夫?」
「……少し、だけ。まだ、どこか、苦しいものはある。だけど、以前語ったように、彼女が何者で、私を何故疎むのか……その理由がわかっただけ、違う」
「アルダール……」
「大丈夫。今の私には、家族がいる。ユリアが隣にいてくれる。……私は、ここにいた頃の何も知らなかった私じゃない」
そっと笑うアルダールの顔は、確かにもう吹っ切れているようでした。
彼がその辺りについて折り合いを付けていることは承知しておりますが、それでもクレドリタス夫人と直接会うことになれば感情が揺さぶられるのではないかと私も案じていたのですが……。
(そんな心配、要らなかったみたい)
アルダールの育った、この別邸を私はぐるりと見て回って広いなと思いました。
この広い建物の中を、幼い子供が孤独に喘いでいたのだと思うと胸が苦しくなります。
でも、もうそれもオシマイ。
あの頃の思い出も含めて、アルダールは今日で呑み込むことにしたのでしょう。
それを私は、見届けるのです。
「……帰ろうか、ユリア。バウム邸に寄って義母上たちに挨拶をしたらもしかして泊まっていくよう言われるかもしれないけれど……」
「私は構わないと思うの。どうせ予定では今日帰途についても体を休めるために明日は休みを入れているし……アルダールもそうでしょう?」
「でもバウム邸にもう一泊したら、明後日からすぐに仕事になるだろう? 私は慣れているけれど、ユリアは体が辛くないかい?」
「大丈夫! 私だって侍女として経験があるのだし、そのくらい問題ないわ。むしろ帰省の時の方が慌ただしいんだから!」
私がそう言って笑えば、アルダールも笑ってくれました。
いいなあ、こういう空気。
帰省と言えばそろそろ手紙がお父さまに届いたかしら。
今頃腰を抜かしていないといいんだけど……まあ、そこんところはお義母さまがなんとかしてくださっていることでしょう。
お義母さまは喜んでくださるだろうなあ、照れくさいけどそれを想像するとちょっとほっこりするあたり、我が家も親子関係がかなり修復されたことを実感します。
アルダールにとっても、今、大切な家族はアリッサさまやディーン・デインさまであって、夢に描いた母親ではなくなったのです。
それをきっと、確認できたのだと思います。
「……幼い頃にね」
「ええ」
「家族を得たなら……どんな風にしたいか、なんて考えたことがあるんだ」
一歩一歩ゆっくりと廊下を歩きながら、アルダールがそう言いました。
誰だって一度は描くようなごく当たり前の、未来を……幼い頃の彼は、どんな思いで描いていたのか私にはわかりません。
成長するにつれ、貴族の息子として……責任だけを強く知ってしまった彼が、その思いを諦め始めたこと、そしてそれを諦めないでくれたこと。
それを知っているから、私は組んでいたアルダールの腕を強く、掴みました。
「……ユリア?」
「全部とはいかないかもしれませんが、叶えましょうね」
「え?」
「私も幼い頃は考えたことがあります。女の子を産んだら、ピンクのヒラヒラを押し付けるのは止めようとか、木登りしても怒らないであげようとか!」
「……それ、自分がやられて嫌だったこと?」
「木登りはしませんでしたよ? それはメレクの話」
メレクが木登りしたがっても危ないからって近づけなかったのよね、両親は。
ぶっちゃけ、落ちたって怪我しないくらい低い木だったんだけどさ……ちゃんと傍に大人がいて常に気をつけてあげている状態で少しだけくらいならいいじゃないかと私は思ったもんですよ。
まあ、大事な跡取り息子に何かあったらいけないという両親の愛情であることも理解はしているので、口に出して言ったことはありませんけどね!
今だから言うけど、メレクは運動が得意な方ではありませんしね……やらせたらやらせたで、確かに登らせた後に落ちる可能性は否めない。
でも子供だったら少しくらいヤンチャしてもいいんです、カバーするのが大人の仕事。
いえ、無茶をするなら止めますけどね!!
「……私は、おかえりと、ただいまが言える関係がいいな。言えない日もあるだろうし、できる範囲で。お互いを想い遣り、気持ちを伝え合って、その日にあったことなんかを話したり……」
「ええ」
「休みの日には、家族と過ごしてみたり」
「いいですね」
「子供がいたら、寂しい思いを……させないような、父親に、なりたいと」
「なれますよ」
ぽつり、ぽつりと私の言葉に返事をくれるアルダールは、泣いてしまうだろうかと少し心配になりましたがそんなことはありませんでした。
まるで眩しいものを見たかのような目で私を見つめ、優しく笑ってくれたのです。
それを見て、私も愛されているんだなと思いました。
なんでかって、それはわかりませんけど、なんとなくそうストンと心に落ちるものがあったのです。
「……おかえりですか」
玄関ホールまでやってきた私たちを前に、クレドリタス夫人があの日のように立っていました。
凜とした佇まいも、厳しい眼差しも、あの日と全く同じです。
あの時と同じように、彼女の目にはアルダールしか映っていませんでした。
他の使用人たちは下がっているのか、護衛役の御者さんは外にいるのでしょうか。
周囲に人の気配はせず、緊張感が辺りを漂います。
あの時のように、険悪な空気となる前にさっさとここを出て行こう、そう思った私でしたがアルダールは違いました。
「クレドリタス夫人」
「……おかえりですか」
「ああ」
「それはようございました」
「一言だけ、良いかな」
「なんでしょうか」
変わらず、穏やかな声音。
組んでいた腕を解いて、彼は私の肩を抱いたかと思うと静かに頭を下げました。
「どのような経緯があれ、私を産んでくださり、感謝している」
「……!」
「もう二度と会うことはないと思う。壮健でいてほしいとは願えないが、それだけは伝えておこうと思って」
アルダールの言葉に、クレドリタス夫人が目を見開いたまま硬直してしまいました。
それはそうでしょう、彼女にとってアルダールの実母が自分であると知られているとは思いも寄らなかったことだと思うのです。
まあ、多くの人が知らない事実だとしても、知っている人だってアルダールにわざわざそれを明かしてバウム伯爵夫妻から睨まれたくもないでしょうしね!
そもそも良識のある人なら『貴方を嫌っているあの人が実の親ですよ』なんて告げ口もしませんし。
ともかく、彼女が何も言わなくともアルダールは言いたかったことを言えて満足したのでしょう。
私の肩を抱いたまま、彼女の横を通り過ぎました。
来た時と、同じように。
「さようなら」
それでも、最後に静かにそう告げた彼の横顔は……やっぱり、寂しそうでした。




