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思えば不思議なものだと思う。
前世は商社の総務課の、それこそしがない平社員の一人にしかすぎなかった私が。
こうして、ロマンスグレーの老紳士にエスコートされて美しい薔薇の庭を歩くなんて。
しかも剣と魔法の国、イケメンばっかりの世界、可愛いお姫様までいて、王城なんて夢見るばっかりで海外旅行なんて怖いしめんどくさいとか言っていた私が転生してまさに職場にしている、なんて。
「どうかしたかな、ユリア嬢」
「いいえ、なにも。見事な薔薇だと感動しておりました。王城の薔薇園も見事だと思っておりましたが、ナシャンダ侯爵さまのお庭は壮観でございます」
「ははは、嬉しい言葉だ」
いやいや、お世辞じゃないですよ。
王城の庭はどこをとっても美しいと思います。四季折々の花が植えられ、庭ごとにテーマがあり、季節があり、来客に見せるためのもの、生活をする人間の為のもの、日々忙しく過ごす者たちを慰めるためのもの、そして防衛的な意味合いのもの。そのように色々な形で形成されるものだと聞いています。
実際王城の中で暮らし、仕事をする私としては花が咲き乱れるさまは心を和ませてくれることもありましたし、癒されることもありました。時に木陰で涼をとったこともあります。
ですがなんというか、ナシャンダ侯爵さまのお庭は全てが薔薇。
薔薇しかないのか、と思われるかもしれませんが、薔薇のグラデーションとか見たことありません!
濃い赤から鮮やかな赤へ、そして薄らいで行き次は薄いピンクから濃いピンクへ……そのようにグラデーションが続く庭なんて初めてです。庭師の努力を感じました。
甘いのに香りが違うとわかるほど、薔薇の種類によって変わっていく香り。でもたくさん嗅ぎすぎてなんだかよくわからなくなっている気もしますが……圧倒されますね、これは。
「ああ、この花なんて薫り高さでは私が知る中で一番の品種だ。花弁も薄く、君の要望に応えられる花だと思うが……ちょうど今が咲き頃だ。町の花屋でもよく売られているから、手に入れやすいと思う。さすがに量が必要だと言われると困ってしまうかもしれないが」
「まあ……確かに甘い濃厚な香りですね……薔薇らしい、というのはおかしな表現かもしれませんが……」
「いいや、的確だと思う。このナシャンダ侯爵領は薔薇の栽培に適しているのはもうユリア嬢も知っているかもしれないが、もともとはこの土地の人間が愛し育ててきたものをナシャンダ侯爵家も感化されたというのだよ。そして侯爵家の庇護のもと、薔薇は広まっていった。そしてこの薔薇は、その当時から咲いていたという種類のひとつだ。私たちにとって愛すべき“薔薇”なんだ」
「色もとても鮮やかな……濃いピンクなのに、くどくなくて。素敵……」
「ご婦人方への愛の囁きに一役買うこと請け合いの薔薇だね。情熱的な愛情ならばお勧めはやはり赤いものだが……そうだ、ユリア嬢は王太后さまとも面識があるのだったね。あの方の離宮でも薔薇が咲いているのを知っているかな?」
「はい、王女殿下の供をした際にナシャンダ侯爵家から献上された薔薇があると見せていただいたことがございます。庭園で咲いていたのではなく、一輪挿しで飾られていたものですが……」
ナシャンダ侯爵さまのことを知ったのは確かその時だ。
正直貴族がいすぎて全部を覚えるのって難しいんだよね!
でも見せられた薔薇は、ものすごく赤くて……濃い赤で、まるでベルベット生地かのような花弁で、凛としていて優美で……ああ薔薇って美しい! って正直に思わせるような一輪だった。
たった一輪なのに、ものすごく綺麗だったのが印象に今でも鮮烈に残っている。
「あれはね、先王が王太后さまに捧げた愛なのさ。私の父親に是非にと願われてね……今でも愛してくれているならば嬉しい限りだ」
「そうなのですか……あれほどに美しい薔薇は私は見たことがありませんでした」
「父親が聞いたら泣いて喜びそうだ。私も今研究を重ねているが、あれを越えられるようなものはまだ自分の中ではないね」
侯爵さまは誇らしげに笑いながら近くにあった淡い黄色の薔薇を摘み取って私の髪に挿した。
わあ……気障ったらしいのに侯爵さまがやったら超似合う!
残念なのはそれをされたのが私だという点だね!
「君が今つけている髪飾りも悪くないが、こうして花を挿してみるというのも悪くないものだろう?」
「はい……ですが薔薇の華やかさの方が勝っていると思いますので、そこが勿体ないかなと思います」
くすくす笑った侯爵さまに、私もつられて笑う。
だってさあ、薔薇に負けないだけの美人だって自信がある人ってそういないでしょ。
前世だって見る分には良かったけど買って家に飾るとか考えられなかったもの! 絶対安アパートでゲームとかお菓子の袋とかがあるようなこたつ部屋に豪奢な薔薇の花が申し訳程度の花瓶に生けられてるとか……不釣り合いでしょ! それと同じだ。
「そうかな? 笑えば女性は皆、花のようにそれぞれ違った美しさを持つと思うがね。……あの小さな建物が私の研究室だ。あそこに食べられる薔薇の品種が植えてある」
ドーム状の、小さな建物と侯爵さまは仰ったがどう見ても温室です。
温室付きの一般家庭の一軒家サイズでしょうか。流石違いますね……とんでもないお値段しますよあれ。
この世界で温室はガラス張り。ある程度の大きさと強度、透明度が必要であることを考えるととんでもない値段です。一般家庭で使うガラスは小さなもので、ガラスを使っているというだけでもお金持ちと言えるかもしれないのです。
技術はあるのでその分野が伸びれば或いは値段も下がっていくのでしょうが、今のところはそんな感じの代物です。それが目の前に……侯爵さまは家のドアを開けて私を中へと入れてくれました。
「ここは品種改良や今までの資料をまとめている場所でね。まああまり片付いていないんだが……食用の薔薇は申し訳ないが、あまり数がないからね。ただ花弁を乾燥させてサラダに混ぜたりするようのものがここに大量にしまい込まれているんだ。それで良かったら持って行くといい」
「本当ですか! ありがとうございます」
わードライエディブルローズの花弁貰っちゃったよ!
見せてもらったけど状態はとてもいい。これは色々試してみなければ。とりあえず一口ゼリー辺りから始めましょうか。
デコレーションケーキに散らしても綺麗でしょうね。ああでもその際にはスポンジに塗るジャムを薔薇ジャムでやってみたいものです。夢が広がりますね!
「ご希望に添えなくて申し訳ないね。花の状態で欲しいなら今度栽培しておいてジェンダ商会の会頭に送っておくよ」
「お願いしてもよろしゅうございますか? ……あの、個人的なお願いですのでさほど持ち合わせが……」
「ああ、かまわないよ。ただもしできるならば、薔薇ジャムやお菓子類で成功品ができたら私にも試食をさせてもらえないかな。そして私が食べて使えると思ったなら君の了解を得てだが、この領の名産にさせて欲しいと思っているんだ」
「まあ!」
「少なくとも薔薇のジャムというのはあまり考えたことがなかった。ローズウォーターやローズオイルが今の所美容目的の顧客を得ているが、やはり季節と量が問題だしね……ドライフラワーで風呂を楽しむ人もいるが、こればかりは好みだから難しいところだ。私は一人の薔薇愛好家であるが、同時に領主である以上この領に暮らす民のことを考えたいと思う。新しい名産ができるのであれば、是非に。そして協力していただけるなら薔薇を提供するくらいなんてことはないさ」
「侯爵さま……はい、勿論喜んで!」
喜んでー!! むしろ薔薇の提供は約束された!!
私は財布を気にすることなく薔薇ジャムだの色々楽しめるし、侯爵さまは新しい名産品が作れるしお互い利益があっていい感じ。
まあ流行するかどうかはそこは……うん、侯爵さまのところの商売人の皆さまに頑張っていただきたいですね!
「うんうん、理解してもらえて私も嬉しいよ。それじゃあファンディッド子爵令嬢、これからはビジネスパートナーでもあるからね、何かあったら私を頼って欲しい。たかが侯爵の一人だけれどそれなりに人生経験もあるから君の相談相手にくらいはなれるだろう」
「まあ……ビジネスパートナーだなんてそんな大それたこと! 私も薔薇が好きなのです、それでよろしいじゃございませんか」
「ふふふ、優しい女性だねユリア嬢は。その髪飾りを贈った人もきっとそんな貴女を大切に思ったのだろうねえ」
「え? いいえ、これはその、友人が日ごろのお礼にとくれたもので……」
「おやおや、それはそれは……」
くすりとまた穏やかに笑った侯爵さまはそれ以上何も言わなかったので私も何も言えない。
日頃のお礼に、と渡されたのだからそれ以上の意味はないはずだ。だってアルダール・サウルさまだし。あの人みたいにモテる人は些細なことをきちんとできるからモテるんだから。
でも友人という括りで良いのかしら。……知人? だとちょっと距離が出来ちゃうしなあ。とはいえ友人というほど気安くもないような。
とはいえ、まあ……いいもの貰っちゃったからなあ、やっぱりアルダール・サウルさまにお返し用意しなきゃダメだよねえ……?
そろそろプリメラさまのところに戻りますよ!
侍女のお仕事もちゃんとしないとね!!