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ビアンカさまとのお忍びを終え、私たちは普通の生活に戻りました。
とはいっても、アルダールはまだまだ忙しいらしく、私としては少し心配だったり寂しかったりな日々ですが。
とはいえ、侍女としての仕事は問題ありません。
問題がないことこそが一番なのですからね!
事件なんかあってたまるものですか、基本的にはこういう当たり障りのない生活が普通なんだし。
(エイリップ・カリアンさまもそういえばいなくなっているし、……どうしたのかしらね、本当……)
平穏なのはありがたいですが、こうも姿が見えないとそれはそれで心配です。
別にあの男の心配なんざしておりませんが、警備隊を辞めたという話は聞いていません。
勤務先が王城じゃなくなったのかなとも思いますが、軍の人事まではわかりませんからね……わざわざ聞いて回って藪蛇になることもないでしょう。
ミュリエッタさんもどうしているかわかりませんが、そこはニコラスさんの担当です。
(それにしても)
私は書類を手に口元がにやけるのを感じました。
手の中にあるこの書類は、メイナとスカーレットの昇給に関する申請書です。
これを統括侍女さまに提出して、掛け合う予定なのです!
勿論、あの子たちにはまだ内緒。
通せるかどうかは私のプレゼンにかかっております……!
なにせ王女宮を預かる人間とはいえ、昇給などに関しては私の一存で決定できないのです。上の役職である統括侍女さまの許可を得てからなので、いかに優秀で頑張っているかを私がプレゼンしきれなければ今のまま。
(頑張るからね……!)
しっかり働いてくれるあの子たちのためにも、私も頑張らなくてはいけません!
メイナは勤めて長いですが、平民出身ということで最低賃金スタートでした。
ですが、最近ではプリメラさまのヘアメイクなどはあの子が受け持っているし、落ち着きや礼儀作法に関してはまだまだですが機転も利くところは二重丸です。
スカーレットは今でも他者への態度で気になるところはあるものの、貴族令嬢としての素地があるため礼儀作法などはバッチリです。
そこに加え、とても字が上手で真面目に取り組む性格から、難しい案件でない限り書類は彼女に任せても良いと思われます。
このことはセバスチャンさんとも話し合い決めたことです。
きっと統括侍女さまもあの子たちの成長を認めてくださることでしょう。
ちなみに内外宮のように人数が多い部署は、グループ分けがされておりそのグループ長が各メンバーの報告を作成、そのグループ長をまとめるリーダー格がグループ長たちを査定、そしてリーダー格とそれらの報告書から筆頭侍女が判断ということになっているのです。
……毎年、大変そうだなと思います……。
私も王女が複数人いたらそうなっていたのかなと思うとぞっとしますが、まあそんな状況だったら私はプリメラさまの専属侍女って立場だけでいいかな……お給料はちょっと下がりますけど、暮らしていくには十分ですから!
そんなことを考えている間に統括侍女さまの執務室について、ちゃんと脳内でシミュレーションしておいた通りにプレゼンをした結果認めていただけました!
あの二人に告げるのが楽しみですね。
きっと喜んでくれると思います……!
(ささやかだけど、お祝い膳でもメッタボンにお願いしておこうかしら?)
そこまでするのも変かなとは思うんですが、あの二人の面倒を見てきてなんだか妹みたいに思っているのも事実なので……。
あの二人がどう思っているかはわかりませんけどね。
でも彼女たちの頑張りが認められたのだと思うと、私も嬉しいのです。
ご機嫌な気分で王女宮へ戻る道を歩いていると、前方に揉めている男女の姿が見えました。
と言っても廊下のど真ん中とかではなく、廊下の端っこ、庭に出るくらいの位置ですので休憩中の人がちょっとした諍いでも起こしたのかなと思う程度です。
なんせ大声で怒鳴り合うとかそんなんじゃないですし、物陰ですし、行き交う人も『おやっ?』と気づいて怪訝な表情はするものの、スルーするレベルの。
私も反対端を通ることにしてやり過ごすことにしました。
わざわざトラブルに突っ込んでいく気も、野次馬する気もありませんからね。
メイナとスカーレットにこの朗報を早く届けなくては!
それこそが私のするべきことなのです。
(そういえば琥珀糖、この間持っていった残りがあったからそれも二人にあげましょう。あの時はできばえのいい物だけ選んだけれど、残っているのも十分綺麗だし喜んでくれるといいんだけど)
ああ、今から喜ぶあの子たちの笑顔が目に浮かぶようです。
統括侍女さまに許可をいただいたことと昇給のお話は、プリメラさまにもご報告申し上げて是非二人にねぎらいの言葉もかけていただくことにいたしましょう。
こういう時、働いていて良かったー! って思える瞬間ですからね。
メイナとスカーレットにはこれからも頑張ってほしいですし、あの子たちだったらもっと上を目指せるはずです!
「ユリアさまー!」
そんなことを考えていると、前方からメイナがこちらに駆けてくるのが見えました。
ああもう、折角褒めた傍からそんな走り回ってはいけません。
(もう少しお淑やかにしなさいといつも言っているでしょうに)
呆れつつもそんなメイナが可愛くて、私はあの子が近くに来たら注意するだけして一緒に王女宮に戻ろうと思いました。
ところが、駆けてくるメイナの様子がおかしいじゃありませんか。
なんというか、顔色が悪い?
(まさかプリメラさまになにかが!?)
そう思ってメイナの方に駆け寄ろうとする私に、メイナの後ろから同じように走ってきたスカーレットがばっと立ち止まって指さしました。
えっ、なにごと。
そう思った瞬間です。
「後ろ、後ろですユリアさまああああ!」
「えっ、後ろ?」
言われて踏み出した足を軸にぐるりと体ごと思わず振り返れば、そこには迫るエイリップ・カリアンさまの姿と、それを止めようとするミュリエッタさんの姿があるではありませんか。
思わず喉からヒュッて音がしました。
なにこれなんのホラーなの? すごい鬼気迫る顔なんですけど。なにこれ命の危機を感じる。
王城ということもあって悲鳴を上げれば誰かが助けてくれる、それを理性と日頃の訓練で知っている私は怯えるのではなく、制止と人を呼ぶ意味で大きな声を出そうと大きく息を吸いました。
「ユリアさま!」
私の名前を叫ぶ声は、メイナなのか、スカーレットなのか、はたまたミュリエッタさんだったのか。
でもこういうのは目を逸らしたら負けだ。いや、それも違う。
「王城の廊下は――」
なにを言えば止まってくれる?
堂々と、そう、堂々とですよ私!
「走るものではありません! 控えなさい!!」
思わず叫んで、注目が集まるのは理解しました。
そうじゃない。
叫ぶにしても、他になにかあったろう!? 私よ……!!
学校の先生かお前は! と自分にツッコミを入れて絶望的な気持ちになりましたよね。
なんせそんな子どもにするみたいな叱咤をぶつけられたエイリップ・カリアンさまの方の身になると……いや、走ってくる方が悪いんだけど。
彼は足を止めていました。わあ、律儀。
だけどその顔は怒りに満ちていてもう真っ赤です。血管切れるんじゃないかってくらい真っ赤です。
ですが、周囲もぽかーんとしてしまう中、いち早く復活したのはミュリエッタさんでした。
なぜか彼女は私の前に立ち、まるで私を庇うかのように両手を広げたのです。
「これ以上、あたしたちに、迷惑をかけないでください……!」
え、いや。
それ貴女が言うの?
即座にそう思った私、悪くない。
「む、なんだ。何の騒ぎだ?」
そんな私たちの所に、また別の人がやってきて私はぎょっとしてしまいました。
ああ、なんということでしょう。
「な、なぜあなたがここに……!?」
そう、私たちの前に現れたのは――シャグラン国の公爵となった、ギルデロック・ジュード・フォン・バルムンクさまだったのです!




