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「……ユリアからキスをしてくれたら、やめる」
甘ったるい視線を私に真っ直ぐ向けながら、アルダールが笑う。
アルコールで思考が鈍り始めた私には、とんでもないことを言われたとわかっているのになぜかそれに抗えない。
でも僅かに残る理性がそんな恥ずかしいことをするなんてだめだ! と訴えていて、手を伸ばしたはずなのにそれは随分と自分が思う以上にのろのろとした動きになってしまった。
アルダールの肩に手をかけて、彼に支えられるようにして、視線を合わせる。
(恥ずかしい)
そう思うのに目が逸らせないのは、アルコールの所為なのかそれともこの空気に酔ったのか。どちらにせよ戸惑う私を見上げるアルダールは、楽しそうだった。
それがなんとなく気に入らなくて、彼の頭を抱き込めばそれは予想外だったらしく、彼の悪戯な手が止まる。楽し気な顔も見えなくなってちょうどいいと思った満足もできた。
普段彼の背が高くてなかなか触れない髪に触れてみると思っていたよりも固い髪がなんだかおかしくて、でも指どおりはすごく良くて何度も触れる。
「……酔ってるだろう」
私の腕の中からアルダールが少しだけ顔をずらせて、呆れたように言う。
ああ、そうかもしれない。
だって普段の私なら、こんなのって、こんなのって!
アルダールの言葉からじわっと羞恥が始まって、慌てて腕を広げると当たり前だけど、バランスが崩れてしまって「ひぇっ」と情けない声が出たついでにアルダールの首にまたしがみつくようになってしまって……ああもう、私は何をしているんだろう。
「おっと」
「ご、ごめんなさい」
「いや……私がちょっと調子に乗りすぎたせいかな」
しっかり支えてくれていたおかげで、バランスを崩してもすごい安定感がありましたけど自分の失態に思わず溜息が出てしまって、アルダールはそれを怖かったのだろうと勘違いしたらしく、背中を優しく擦ってくれました。
「……早く、しっかりできるようにならないとな」
「え?」
「いや、私はユリアに甘えてばかりだからね」
「……私もアルダールに、甘えてますよ?」
「ほらそうやって甘やかす。だめだろう、私みたいな男はすぐ調子に乗ってしまうんだから」
笑うアルダールの顔はどこまでも優しくて、ああやっぱり甘やかされているのは私だと思うんですけど彼は違うというし、でもやっぱり少し酔ってしまっているのか上手く考えはまとまりませんでした。
でも私を抱きしめる手は温かくて優しくて、アルダールの声は甘くて、視線なんてもっと甘くて、私が少しでも不安に思っていたことがまるで氷が溶けていくかのように消えていくのを感じました。
(でも、きっと私は何回も不安になるんだろうなあ)
きっとそれは、終わりがないんじゃないかなって思います。
プリメラさまのことだって、悪役令嬢にならなければ……って思っても結局彼女の恋がうまくいくかハラハラしたり、政務とかのデビューで嫌なことがないかなってハラハラし通しだもの。
何かを乗り越えたからその後は何もない、なんてことは人生ではありえません。
だから、私自身がいくら平凡で、それなりに出世して、周囲に恵まれてるからって結局不安に思う事柄は全部が消えることなんてないんだと思います。
わかっているつもりでわかっていなかったことがすとんと胸の中に落ちて、私はアルダールをじっと見つめました。
「どうかした?」
無言で、大人しくなった私を不思議に思ったのかアルダールは小首を傾げました。
うん、相変わらずイケメンだけど可愛いなぁ……世の中ってどうしてこう……。
「……アルダール」
「うん」
「私、酔ってます」
「うん?」
唐突な私の宣言に、アルダールが少しだけ首を傾げた。
私自身、自分でもちょっとどうなのよって思わなくもないんですが女は度胸です!
今は、私もまともに考えれていない自覚はありますし、ちょっとアルコールのせいでいつもよりも体温が高い気がします。
……だからって、これで翌朝記憶がなくなるとかそういうレベルではないけど。
でも、いつもよりも少しだけ、踏み出してもいいのかな? なんて思うくらいには理性が弱くなっている気がします。
だから、酔っているんです。
(……そんな言い訳がましいことを宣言してどうするのって話なんだけど)
でもそんな建前が私には必要なのだと自覚している。
だって私は、自分に自信がない女なのだから。
いやそんなところに自信を持つなよって話なんですけどね!?
お仕事のことについては結構自信ありますけどね!
アルダールに支えてもらっているのをいいことに、彼の顔を両手で挟んで自分からキスするだなんて。
普段の私なら、考えられないでしょう? 私も考えられません。
そりゃもういつもアルダールがしてくるキスに比べたら稚拙なものっていうか、ただ唇を押し当てただけっていうか、まあそれでもキスはキスです。
新年祭の時は、掠めるように奪ってしまった無意識の分を挽回するようにゆっくりと重ねて、離れました。
思っていたよりも恥ずかしくなくて、アルコールの力って偉大……なんてちょっと馬鹿なことを思いました。
いやもうこれ恥ずかしさが限界突破してるだけなのか? だから変なことを考えるのか。
そんなことを頭で考え始めた途端に、アルダールがぎゅっと私を強く抱きしめました。
ちょ、待って。ギブギブ!
今さっき飲んだワイン出てきちゃう!!
まあそこは女としてというか人として守りたい尊厳がここにあるってことで堪えましたけど。
「あ、あるだーる……?」
「まったく、ユリアは……いつもいつも」
「え、私が悪いんですか」
「無自覚なのもほどほどにしてほしい」
「だって、アルダールがキスしろって言ったんじゃありませんか!」
「いや言ったしそれは嬉しい」
しれっと認めてしまうアルダールに半ば呆れつつ、じゃあどうしてという気持ちを込めて彼を見つめると大きなため息が返ってきました。
「ユリア、お酒を飲むのは私と一緒の時にしてほしい。特に異性とは飲まないで欲しい」
「メッタボンやセバスチャンさんは?」
「……できるならなるべく飲まないで」
「そのくらいでしたら」
そもそもあんまり飲まないしね!
それでアルダールが安心するなら、できる範囲のことくらいは受け入れますよ。
絶対に飲むなとかそういうんじゃないですし……。
私があっさりと頷くと思っていなかったのか、アルダールは微妙な顔をしました。
ええ……自分が言ったんじゃない。
「自分で言うのもなんだけれどだいぶ束縛するような発言だったと思うんだけどな」
「そうですね、でも『できるなら』でしょう?」
「……まあ、そうだけど」
「大人の付き合いで軽く飲むくらいはアルダールだってわかっているんでしょう?」
「まあ、そりゃあね」
「なら。いいです。その辺りを理解してくれているなら」
私がそう言えばアルダールはまた先程よりも微妙な顔をしました。
だから言い出したのはそっちじゃないの? って思うわけですけれども。
「……ユリアは、私を甘やかしすぎじゃないかなあ」
「そうですか?」
言われて首を傾げる。
私の方が甘やかされてばかりなのになあと思いながら、でも確かに他の人だったならアルダールが言ってきた要望なんてきっと一顧だにしなかったと思います。あ、プリメラさまは別ですよ! もうプリメラさまのお願いならとんでもないことじゃない限り寧ろ叶えて差し上げたい!!
「それはきっとあれですよ」
「うん?」
「アルダールが好きだから、ですよ」
「……だから……、ああもう……」
アルダールが脱力したように肩を落としました。
なんだよう、素直に言ったのに。そう思わずにはいられませんでしたが、彼が私を抱き留める手は揺るがなかったところになぜかすごく満足しました。
「ユリア」
「はい?」
「クレドリタス夫人が言ったようなことなんて関係ない。私個人が、ユリアのことが好きだから恋人になってもらったんだ。……バウム家のことなんて関係なく、私がきみのことを好いているんだ」
はっきりと言ってくれるその内容が、私の働いていない頭の中にするすると入ってくる。
その言葉が嬉しくて、私がぎゅっと抱き着くとアルダールはまた溜息を吐き出したようでした。
「……酒の力、か……」
そんな呟きは私の耳にも入っていました。
ええ、まあ。多分私も素面に戻ったらきっと転がりまわると思うので、今は許していただきたい。




