215 転がった石は同じではない
今回はキース・レッスさま視点です。
出て行った扉を見て私がため息を小さくつけば、びくりと肩を竦めるウィナー男爵の姿が目に入る。
ああ、まあ上位貴族である私の機嫌を損ねることに対して良くない程度には理解があるのだろう。どうしてそれを酒の席で思い出せないのか、というのが問題ではあるが……。
まあ旧友と出会って羽目を外す程度は人間だ、誰にでもあることだろう。
目の前に置かれた、かの少女が書いた文章に目をやって私はそれをどうしたものかと思うだけだったのだけれどね。
たとえ彼女が否定しようとも、そうだという事実はもうこの場にいる人間が目撃者だ。
それをあの少女はまだ理解できないらしい。
書かなかったらそれで済む? そんなはずがないだろう。上位貴族に逆らって、意向を無視して、それで誰かがなんとかしてくれるとでも? そんな甘い話があるはずもない。
(まあだからと言って、私がどうこうするということもないのだがね)
だがもう平民でなくなってしまった以上、そこに伴う責任も生じていることを知ってもらわねば、なあ。
私がちらりと視線を向けると、アルダールが呆れたように目を細めて立ち上がる。
それに隣のユリア嬢がはっとした視線をこちらに向けたが、彼女に軽く手で制するだけで察してくれたようだ。やはり侍女としての経験が生きているのだろう、ユリア嬢は少しばかり私が何を考えているのか探るように視線を向けたがすぐにそれを逸らした。そうだね、その方が良い。
「さて、ギルド職員の諸君。冒険者たちに対して私が求めたことを執り行っていただきたい。そしてこの部屋をもう少々借り受けようか、ウィナー男爵と話があるのでね。席を外してもらえるかな? ああ、大丈夫、大したことではないさ」
彼を庇おうと声を出そうとする冒険者たちを制して、私が努めて明るい声を出せばウィナー男爵が幾分かほっとした顔をしたのが見える。ふむ、冒険者も依頼主との交渉事などで腹芸が必要だと思っていたがまあ彼は得意でないのだな。
かといってあのミュリエッタという少女がそれを担っていたとは思えないから……幸い周囲に恵まれていたのか、多少商人たちにいいように扱われても楽々暮らせるだけの実力を持って依頼をこなしていたのか、だが。
ギルド職員としょっ引かれた冒険者たちは去り際にアルダールに『次期剣聖、強かったな』だとか『本人かわかんねぇけど』だとか声を掛けたがあいつは綺麗に無視したね。
まあ、それが良いだろう。
それらを見送ってから私はユリア嬢とメレクの方に笑顔を向ける。
笑顔は、大事だ。
内心を読ませないこともあるが、安心を与える。親しみを与える。それらは警戒心を解くのに最初のことだ。
勿論、うさん臭い笑顔と思われてはいけないけれどね!
「さて、メレク殿は同席しても良いかなと思ったのだが少々疲れさせてしまったな。私の護衛をつけるから、二人は先に宿屋に戻った方が良いだろう。メレク殿、姉上の方がこうした場は慣れておられるのであのように気丈な振る舞いをされているが、当主となってからはこのような裁定を当主が求められることは大前提だ。無論ない方が良いが、その時は毅然と振る舞うのだよ? さて、お任せしても良いかな」
軽く教えた心構えは当然彼も理解しているのだろう。
目の当たりにすることは珍しい話だから何とも苦い顔をしているだけの話だ。ユリア嬢も、人が良い分複雑な部分はあるのだろうがメレク殿よりは大人なのだろう、私にもその心の内は読み辛い。
だが弟が疲れているのを案じているのか、アルダールに心配そうな視線を向けつつ彼女は会釈してメレク殿と一緒に部屋を出て行った。
そう、面倒な話は今はこちらが受け持てばいいだけの話だ。
予定になかった面倒ごとだが、起こってしまったことはしょうがない。最低限、自分にとって都合よく利用するだけの話。
「……なあアルダール、もう少しその不機嫌さを隠してくれないかな? みんながいなくなった途端に私に対して酷くないかな? これでも先輩だけど?」
「先輩だから信頼して文句も言えるというものですよ。まったく……これから買い物でも、と思った矢先だったんです。どこが安全ですって?」
「ウィナー男爵が祭りに来ることを私が拒否はできんだろう。それは貴族だろうが平民だろうが、与えられた自由というものさ! ……だが、ウィナー男爵?」
「はっ、はい!」
「供は、いないのかな?」
「……わ、わたしと、むすめ、のふたりで……」
「自分たちは元冒険者で、実力があるから大丈夫、だと?」
「……はい……」
まあ、わからなくはない。
今までもそうやって父娘二人で旅を続けてきたのだ。
私だって時折面倒だからと供を振り切ったり連れずに飛び出してしまうこともしばしばある。己の身を守るだけの自信があるからだ。同様にアルダールにユリア嬢と二人で出かけさせたのも、この可愛げのない後輩の実力を信じているからこそだ。
……だがそれは、必要な場面を知っているからこそ、でもあるのだが。ウィナー男爵は、違うだろう。
「ウィナー男爵は、少々貴族としての心構えがまだ勉強不足のようだ。ご息女についても同様のことが窺える。罰することはできんよ、陛下が召し上げられた御仁だからね? だからといってこのようなことが続いて、陛下のご厚情に泥を塗られてはたまらん」
「……」
「今回、アルダールが名を名乗らないでくれたからね、陛下が召し抱えた『英雄』が愚かな振る舞いをして古参貴族の名誉を傷つけるようなことになった、などということはお耳に入れずに済むかと思うが」
まあ、それはあくまで建前で耳には入るだろうけれど。
内心舌を出してそう思うが、ウィナー男爵はわかっていないのだろう。わかりやすく安堵の表情を浮かべていた。
「で、では……!!」
「だがアルダールがここにいるという事実は変わらない。わかるかね? バウム家には私からも謝罪をひとつ入れておこう、己が領でご子息がトラブルに見舞われ、それを対処する自警団の到着が遅れたことに関してだがね。だからバウム伯が知るということは変わりないよ」
顔を青くしたり赤くしたり忙しいことだ。
そう、複雑な事情があるからこそ短慮はいけない。あのお嬢さんはそれをどう理解していくのかな?
ユリア嬢をただの子爵令嬢、ただの侍女と思うのは簡単だ。
アルダールをただの伯爵の長子と見るのも簡単だ。
だが、そこにはそれだけで済まない人間関係が、複雑に存在する。
それも、貴族社会の柵を含んだ複雑さ。
たとえ伝説の『英雄』であろうとも、そいつは簡単に切って捨てられないもので、逆にそれに呑み込まれて姿を消してしまった『英傑』だっているんじゃないだろうか。
「勿論、バウム伯だけではないよ。宰相閣下にも、このようなことが起きたことはお耳に入れないわけにはいかない。当然、ウィナー男爵はこれから寄親となる貴族家を募るところであったろうが、バウム伯とセレッセ伯は当然それを受け入れる気はない。宰相閣下もそうだろうね」
「よりおや、ですか?」
「おや、聞いていないかな? まあ簡単に言えば貴族間で後ろ盾になる指南役のようなものと思えばいい。それによっては色々な制限をかけてくるところも出てくるかもしれないがね。陛下が召し上げた英雄だ、そう悪い扱いはされないだろう」
「そ、そんな……!!」
「少々、貴族になるということを軽んじてはおられないかな? ウィナー男爵。爵位を賜ったその日から、貴君はこのクーラウムの責任、その一端を担う立場になったのだと何度となく言われてきたことだろう。それをそろそろ実感しても良い頃だ」
がっくりと、肩を落とすウィナー男爵に私は今度は優しい声でそれでも悪いようにはしないから、と告げて立たせてやった。
ギルド職員が出て行った娘の方も連れてきている頃合いだろう、二人揃って寄り道せずに城下の自宅に戻るように言って送り出せば、アルダールが冷めた目でそれを見ていたことに気付く。
「アルダール、お前だっていずれは分家を預かるのだろう。こういった場面で、お前はできるかい?」
「さて……どうでしょうね」
「お前が頼りないようではユリア嬢がやらねばならなくなるだろう? だって、お前がいつか彼女を妻に迎えるなら――」
「まだ、そのような話は。……彼女へ負担をかけるようなことはいたしません」
「おっと」
妻に迎える、そうだろうと思ったがアルダールが思いの外食い気味に言わせなかったことに思わず首を傾げるが、答える気はないらしい。相変わらず可愛くて、可愛くない。
「まあ良いさ。……こんな紙切れ、結局意味はないけれどね。お前にとっての負担が減るなら良いかと思ったんだがなあ」
「それでどうにかなるような娘でしたら、統括侍女殿が頭を痛めることもないでしょう」
「尤もだ。さあ、我々も戻るとするか。……せめて晩飯くらいはのんびりと食いたいものだな、さすがにもうトラブルもおきまいよ。明日には出立だ、そのつもりで」
「わかりました」
ざくっと切って捨てられるならば、それはそれで楽だろう。
むしろその方があの父娘としては良かっただろう。今頃貴族にならなければ良かったなどと話しているかもしれないなあ、と私はほんの少しの同情をしてギルドを後にしたのだった。




