187 歩みは遅くとも前に進めば
父上と、母上と、姉上と。
そして、僕と。
それぞれがそれぞれに違う考えを持っていることは当たり前のことで、だけどその中でより良い道を選ぼうとする中で、お互いに譲り合って手を取り合って、それができれば良いと思っていた。
違うな、そうして選んで前に進むことというのが、領主にとって必要不可欠なことで、その為になら家族の協力だけじゃなくて遠慮や妥協も必要なんだと思っていたんだ。
少なくともファンディッド家にとって、良かれと思っての行動を、それぞれが取っていたのは間違いないんだと思う。そして僕らは、それらの中で最善を選んでいたはずだった。
だけど今回に関しては、違った。そう、姉上を除いての最善への選択、だ。
姉上は何も知らされていなかった、知らせようと思ったけど母上がちゃんとやっておいてくれるという言葉をそのまま鵜呑みにして、母上がそれを望んでいないことを知っていたのに僕は、それを。
多分それは、まだ『息子』としての甘さで、『弟』としての甘えで、それじゃだめだとわかっていたはずなのに突きつけられた現実。
(僕は、今まで、なにをしてきた)
父上が日和見で、穏やかで、本当は領主なんてせずにどこかでのんびり絵でも描いて暮らしたいとずっと思っていることを知っていた。それを情けないと思うのと同時に、早く一人前になって父上の肩の荷を代わって差し上げたいとも思っていた。
母上が、愛のない結婚でも穏やかに暮らせているのは父上のお陰だと僕に言っていた。いずれはファンディッド子爵家を継いで、立派に領地を治めるのだと何度も聞かされて育った。
僕も、そうだと思った。
姉上は、僕が幼い頃に行儀見習いに出てずっとそちらにいる。寂しいとは思うけれど、きっとその方がお互いの為だったんだと思う。僕の目から見ても両親は古い考え方の持ち主で、とにかく女性はどこかの家と縁を結んで結婚してしまうのが幸せだと信じている人たちだから……その結婚が必ず幸せなものとは限らないと思うのに。
まあ、その考えを口にしたことはないけれど。
姉上はこまめに僕に手紙をくれた。あの人の考え方は、僕には理解できないこともあったけれど“こういう働くことを生き甲斐とする女性もいるのだ”という道を見せてくれたのは、姉上だ。
そして、社交界デビューして声をかけてくださる方々の中には『あの鉄壁侍女の弟』という興味から知り合いになった方も少なくない。セレッセ伯爵さまだってその一人だ。
そこから僕自身が両親の古い考え方と、姉上の働きたい女性という新しい考え方と、両方に触れていることに興味を持たれたセレッセ伯爵さまが伯母上を通じてオルタンスさまを紹介してくださって、今に至るわけだけど……。
順風満帆。
そう思っていた。
姉上を入口に僕自身に興味を持ってもらえて、父上の重荷を肩代わりして、今まで学んだことを活かして僕が立派な子爵となれば母上だってきっと生家のパーバス家にも胸を張って帰省したりもできる筈。
オルタンスさまは気丈で美しくて、僕が将来的にもっと女性が働けて、子爵家を盛り立てたいという気持ちを理解してくれた。姉上の働きぶりを耳にして、尊敬しているとも言っていた。
この女性とならば、きっと、二人で支え合っていけると思った。
そう思っていたんだ。
なのに実際はどうだろうか。
母上がパーバス家に良い顔をしたがったり、父上がそれを諫めきれないことを遣る瀬無い気持ちで見た。
だけど僕もまた、そこでどうこうできることもなく。
母上、と声を掛けて見るものの嬉しそうなその姿に幾度口を閉ざしてしまっただろう。
ようやく出た言葉も、まだ父上の補佐という形で実績としてなんにもなっていない僕を、母上は子供としてあしらうばかり。
(ああ、ああ、これが現実なのか!)
結局僕は父上の支えにもなれていなかったんだ。
父上が直接何かを頼んでくれたことも無ければ、母上は僕を子ども扱いする。
僕だけが、成長したつもりで。
パーバス伯爵さまが、僕の祖父として今回のセレッセ家との婚儀に口を出そうとすることを止めることなんてどうしていいのか途方に暮れた。
同等の伯爵家だ、セレッセ伯爵さまに願い出ればきっとなんとかなるのだろう。
でもそれはきっと失望させることで、自分の情けなさを露呈しなければいけないことで、それを選び取ることはとても難しくて、そして危険だと思った。
失望させればそれを取り戻すことは難しい。
自分の情けなさは、自分にがっかりするだけで……済むけど。
危険なのは、その所為で……何もかもを、失うかもしれないということ。
両親や、セレッセ伯爵さまや、オルタンスさまや、領民の。
それらの期待を、期待をかけてもらっていた自分を、失うということ。
そんなの、とっくの昔に覚悟して、領主の道を目指していたんじゃないのか。そんなことにはならないように努力をしてきた、そうだったはずなのに。
自分が失敗した時には、失ってその先をまたやり直す責任を持たなければいけないって思っていたはずなのに、気がつけば足が竦んだ。
本当なら、僕が自分でそれを選んで、きちんとしなければならなかったのに。
(結局、なにもできなかった)
姉上が帰ってきて、母上の暴走を知ってびっくりして。
そしてパーバス伯爵さまが来られることを知って、また驚いて。
ああ、なんだか身の置き場がない。姉上と顔を合わせることが、申し訳なかった。
それなのに、姉上は少しばかり話し合いを続けたかと思うとあっさりと家族の前できびきび動き出して、使用人たちに指導まで始めて。僕の方が目を丸くすることばかりだ。
(ああ、そうか)
姉上が働いている、立派に務めている、部下もいて慕われている……それは聞いていて知っていた筈なのに。成程、聞くと見るとは大違いというやつはこれなんだなと思った。
次期領主として色々見聞きしていたつもりだけれど、王城のレベルの高さというか、姉上が凄いのだろうか? わからないけれど、使用人たちが驚き慌てながらも付け焼き刃でも自分たちの技術が向上していると実感しているのか、その表情が生き生きし始めたのを見て僕は今まで何を見ていたのだろうと自分に呆れたくらいだ。
結局、僕は自分のことで手いっぱいだったに違いない。
上手くいっていた、のではなくて。
ただ、失敗がなかった、だけで。
ああ、あの時もっとああすれば。こうすれば。ああしていれば、こうしていれば。
そんなことが頭を過ったけれど、どうしようもないことなんだと思い知らされる。
ここからまだ挽回できるんだろうか。いいや、しなくてはいけない。
パーバス一家がこの家に来てからこの方、僕のことを誰一人として見ていない。見ているようで、見ていないんだ。それは、つまり、僕はこのテーブルで次期当主としての立場にありながらあちらからしたら取るに足らない子供に過ぎないということだ。
姉上が、血の繋がらない親戚としてこの席に同席してもあまり言葉を紡げない中で牽制を入れてくれたり、相手方の失礼を何ともない顔でやり過ごしてくれている。
父上は時間が過ぎるのを待ち、母上はどちらの味方をするのか戸惑っている。
ああ、本当に。僕は何をしていたんだろう?
頑張ったつもりでした、じゃだめなんだ。
(結果を残さなければ、僕はもう子供ではないんだ)
そう、嫡男として生まれた以上責任があるというのは嬉しくない話だったけれど。それでもそれを受け入れて、次期当主として領地をより良くしようと決めたのは、自分自身。
「僕は、社交界でセレッセ伯爵さまと言葉を交わさせていただいた上であの方が、誰かに依存するような子供に大切な妹君を預けてくださるとは思えません。ですのでパーバス伯爵という立場でお話をするのであれば、申し訳ございませんが僕はファンディッド次期子爵としての立場でそれをお断りせねばなりません」
あまり会ったこともないおじいさま。母上の、面目を保ちたいと思った。楽しく過ごしていただけるなら、僕が我慢すれば……とも思った。だけど、おじいさまに“個人か否か”を問うのと同じく僕は僕、次期子爵としての立場で今選ばなければいけなかった。
気付くのが遅かった。
いいや、気付いていてそれを上手く御せなかったのは、自分自身の未熟だ。
おじいさまにはっきりと言葉を発せば、おじいさまと母上は驚きの眼差しを僕に向けたけれどどこかすっきりもした。ああ、どうしてこうやってもっと早く僕は毅然とできなかったんだろう。
視界の端で、姉上が僕を見て、笑ってくれた気がした。