第18章 ゆめぢから(2)
「星野ヒロの入魂の処女作は、そこで命運が尽きたはずだった」
と雑誌記者は言う。
「ところがどっこい、生きていたというわけ」
ヒロはいたずらっぽく笑う。
李芝河のマネージャーに日本の映画会社から、ある作品への出演依頼の打診があったのは、かれが来日して3ヶ月後ほどたってからだった。
「本人が言うには、はじめは乗り気じゃなかったらしいの」
ヒロは言う。
「そのオファーの内容からして、これは自分に向いていない役柄だなと思ったそうです」
李芝河はマネージャーにも、そういう気分を伝えたという。
マネージャーは日ごろから李芝河の意志を尊重しており、無理に強要はしない。
「ま、李の気持ち次第であるのは当然だけど、せめて脚本だけは読んでくれないか。それから断ったって、けっして遅くない」
そう伝えた。
李芝河はそれでも気が乗らないので、しばらくその脚本をほったらかした。いよいよ、依頼の打診に回答をしなければならない時期がせまってきて、マネージャーが催促する。
李芝河はしぶしぶ、その脚本を読む。
1ページ目で、おやっと思った。
2ページ目にきて、顔つきが変わった。
3ページ目からは、次をめくるのももどかしく、むさぼり読む。
――なんていうことだ!
李芝河は、大声でマネージャーを呼んだ。
「これは、あれだよ!」
「あれって……?」
マネージャーはきょとんとする。
「日本から帰るときに、ぼくの荷の中に迷い込んでいた脚本があっただろう」
「……?」
「ほら、名前も何も書いていない脚本、きみに、いろいろ探してもらったじゃないか、作者を」
「ああ!」
「あれだ、あれと同じ内容なんだ」
そうだったのだ。
ヒロの脚本を読んだ千堂卓也が、『君とつながっていた』の映画化を積極的に推し進めた。
いま、もっとも発言力のある映画評論家で、株式会社南十字星という中堅の配給会社の専務・千堂卓也は、ヒロが「センちゃん」と呼ぶ焼鳥屋の飲み仲間だった。
千堂は、この映画の中で主役の次に最も重要な配役を韓国男優・李芝河にと決めていた。
なぜか、はじめて脚本を読んだときから、インスピレーションがあったのだ。「ある少年の化身」これは、李芝河以外にない、と。
千堂は、ヒロが李芝河に思いを寄せていることなど知りもしなかった。だから、これはまったくの偶然。あるいは、天の配剤というべきか。
李芝河は、即座に出演承諾のメッセージを伝えてくれるようにマネージャーにたのんだ。
「どんな女性だろうなあ、この女性は」
と、いよいよ新作映画『君とつながっていた』のクランクインを前にした製作発表のために来日することになってから、李芝河はマネージャーにそう言った。
「女性? だれのことだい?」
マネージャーは不審そうな顔をする。
「この脚本を書いた日本の女性さ」
「ああ、そうか、李はずいぶんその脚本の内容に気を引かれていたからな」
「誤解してもらっては困るんだけれど……、他人のような気がしないんだ」
「おやおや」
「子どものとき、父が言っていた話を思い出してしまった」
「どんな?」
「この世には、いま自分が経験しているこの世界とまったく同じ世界がどこかに同時進行しているものだ。それを並行宇宙というってね」
「ほう」
「この作品を読んだとき、そのことが頭に浮かんだ、強烈に」
「なるほど」
「ぼくの並行宇宙が、ここにあったんだってね。この作品の作者はぼくの人生と同時に進行してきたぼくの影法師……いや、それはちがうか、ぼくのほうが影法師か」
「なんだか、すごいことになってきたね、李」
「うん、身震いするようだ」
と、そういう背景があったからこそ、李芝河は日本に着いて、遅刻して駆けつけた製作発表のステージで、その彼女の横顔を見たとき、あれほどまでに仰天したのだった。
あの夜の、彼女じゃないか!
プロモーションのために初めて来日したとき、うわさの「ギンザ」に行った。何も期待していなかったし、そういう場は苦手だから気も進まない李芝河だったが、席に着いた女性は、じつに印象的だった。こころを許した。
なんと、彼女だったのか! あの脚本の作者が。
李芝河は雷に打たれたようになった。
自分と裏合わせのような人生を送ってきた女性がいる。同じような喜び、同じような悲しみを味わってきた。父が言っていた並行宇宙という言葉を、あらためて深く思い出さずにはいられなかった。
思えば、すでにこの瞬間、すなわち李芝河が雷に打たれたようになったその瞬間に、ヒロと李芝河の、すべての流れが決まっていた。雷光のように素早く、鮮やかに、まっしぐらな運命の方向が決まっていたのだ。