第18章 ゆめぢから(1)
あの夜、ヒロは書きあがった脚本の原稿用紙の束を紙袋に入れて『華蘭』まで持っていった。
その紙袋が紛失してしまった。
気が遠くなるほど落ち込んだヒロだったが、しかたがないから始めからぜんぶ書き直した。
いったい、その紙袋はどこにいってしまったのだろう。
ヒロはその顛末を、インタビューを受けている映画雑誌記者に話した。
ヒロ「盗まれたわけじゃなかったの。お店の係の人の単純なミス。ある人の荷物だとばかり思って、まちがえて渡してしまったのよ。それが、だれだと思います?」
記者「……?」
ヒロ「ヒント、韓国」
記者「えっ! 李芝河!」
ヒロ「ピンポーン」
記者「こりゃまた、なんとまあ……」
ヒロ「手にいっぱいのプレゼントらしきものを抱えていたから、わたしの紙袋もそのひとつとして紛れたのね」
――のちにこの記者は、直接に李芝河に取材して、そのあたりのいきさつを聞いている。
それによると。
李芝河は、ホテルに着き、荷を整理した。
翌朝のフライトだったから、早めに就寝しようとしたが、なかなか片付かない。
そのうち、荷のひとつに紙の束があることに気づく。
なんだろう、これは。だれかからのプレゼントにしては、なんだか奇妙なものだ。ずっしりと厚い紙の束に、日本の字らしきものがいっぱい書いてある。
なにが書いてあるんだろう。
日本語がわからない李芝河は、まったく見当もつかない。通訳に読んでもらおうかと思ったが、疲れていて、そんな気力もない。
それに、どうせロクでもないことが書き連ねてあるのだろう。
ホテルのゴミ箱に捨てていこう。
そう思って、バサッと投げ入れた。
入れた瞬間、ふしぎな感覚にとらえられた。まだ目も見えない仔猫を道端に捨てたような、そんな後ろめたさだった。
いや、後ろめたさだけではなかった。同時に、こんな気分があったのだ。
――なにやら、この仔猫は、ただの仔猫じゃないぞ。
それは、ふしぎな吸引力だった。仔猫の小さなからだの中に、おそるべき何かが隠されているような……。
あわてて、李芝河はその紙束を拾い上げた。
翌日の飛行機の中。
李芝河は、隣席のマネージャーにその紙束を見せた。マネージャーは、完璧ではないがある程度なら日本語が読める。
「どうやら、映画の脚本のようだ」
と彼は言う。
「へえ、脚本だったのか。だれが書いたのだろう」
そう尋ねると、
「名前は書いていない。さてだれだろう。パーティで、だれかから渡されなかったかい?」
とマネージャーが言う。
李芝河は心当たりがない。でも、脚本ということなら、その内容を知りたい。
そして、マネージャーにあらすじを聞かせてもらった。
耳を傾けているうち、李芝河の顔がこわばってきた。
「どうしたんだい、気分でも悪いか」
と聞くマネージャーに、李芝河は首を振る。
そして、言った。
「同じなんだ」
「なにが?」
「ぼくには、ぼくの人生を決定づけた一人の少女がいる。この脚本の中の、主人公にとっての一人の少年のように……」
李芝河はそういう意味のことを言った。
国もちがう、文化もちがう、男と女のちがいもある、なのに、あらすじを聞いただけで、こんなにも同じ心の動きがあることに驚いた、と李芝河はマネージャーに言った。
いったいだれが書いたのだろう。
「調べてみるが、期待しないでくれ。探すのは困難だ」
マネージャーは言った。
帰国後、いろいろ手を尽くしてみたが、やはり李芝河のところに迷い込んできたその脚本の素姓はわからないままだった。
帰国してすぐにハングル語に翻訳してもらってあったから、李芝河はそれを、もう3回は読み返していた。
だから、細部にいたるまですっかり頭に入っていた。まるで自分が書いた作品のような錯覚をおぼえるほどに。
しかし、どうにも作者捜索の手立てがない。
「あきらめるしかないぜ、李」
マネージャーがそう言うように、心残りだが、これはもう縁がなかったと思うほかないと李芝河も思った。