第3章 光をかかえた少年(1)
星野家が会津から千葉へ引っ越したのは、ヒロが小学校四年生のときだった。
父が経営していた会津の店は、町で唯一の遊興の店だったが、他にぞくぞくと競合店ができ始めてきた。
後発の店はアイデアやサービスで努力する。
いわば「老舗」だった父の店は、その流れにすっかり置いていかれたのだ。あっというまに、さびれた。さらに、父はいずれそう遠くない日に、このあたりが再開発の対象になり、道路になるかもしれない、という情報を得てきた。ヒロの家は、駅からまっすぐの道がぶつかってT字路になる、そのど真ん中に建っていた。再開発となれば、まっさきに引っかかる。
そして、父は決心する。店を居抜きで人に譲り、一家で千葉へ移り住もう、と。
父は以前に、千葉に自らの設計による家を建ててあった。
が、住まずにそのままにしていたら、空き家として近所の子供たちの格好の遊び場になっていた。冒険の砦である。
その砦に手を入れなおして、星野家は住むことになったのだ。
星野家、といったが、正確には親子三人の新生活である。
ヒロとひとまわり以上も年齢の離れた五人の兄姉たちは、当然のことながらもうそれぞれ大きい。
上の四人はすでに独立していたし、ヒロのすぐ上の兄・浩太郎にしても高校生三年生、もうすぐ卒業という高校を移らないほうがいいという父の判断で、会津に留まることになった。浩太郎のアパートは友だちのたまり場になるだろうことはじゅうぶん想像できた。
というわけで、千葉へ移った星野家は、父と母とヒロだけ。
八人家族が、一人っ子と父母だけの家族にいっきに変わった。
ヒロは見知らぬ町へ引っ越しただけでなく、身の回りにぽっかり五つも穴が開いたような、そんな喪失感に包まれた。
毎日、胸のどこかに、ぴゅーっとすきま風が吹きこんでくるようだった。
山に囲まれた会津の地とは打って変わって、千葉は房総半島の付け根であり、海の国である。
江戸時代には佐倉・東金・房州街道の合流点、外港として要所となっていた。川沿いに発達した町には古墳や貝塚も点在している。
と、そんな町。
会津よりは東京に近いぶん、都会の匂いは強かったが、その匂いの中に潮の香がいつも混じっていた。
そういう中で、はじめて「ひとりぼっち」という感覚を強く味わっていたヒロの前にひとりの少年があらわれた。
加茂原 瞬。
はじめて会ったのは、海岸近くの道だった。
ヒロは転校して間もなかったから、親しい友だちもいない。翌日からは五年生としての新しいクラスが始まるという日、一人で海の方へ向かって歩いていた。
風の強い日だった。
ヒロのかぶっていた帽子が、ふわっと風にさらわれた。父が買ってくれた、おしゃれな帽子だ。小学生にはちょっとおとなっぽすぎるようでもあったけれど、父はそういうものをしょっちゅう末っ子のヒロに買ってくれた。
丸いつばのおしゃれな帽子は、そのつばを車輪のようにしてクルクルと坂道を転がっていった。
ヒロは追いかける。
ふっと木の陰から、だれかの気配がして、クルクル走る帽子を軽やかに手に受けた。
「はいよ」
ヒロに手渡した。少年だった。
「ありがとう」
ヒロは、ぶすっとした顔でお礼を言った。
なんとなく恥ずかしく、なんとなくシャクだった。
「あしたは、雨だ」
少年はヒロの顔を見ずにそんなことを言う。
「え?」
ヒロにはなんのことかわからない。
「この風、海へ向かって吹いてる。低気圧が海にある証拠だ。だからあしたは雨だ」
「ふうん」
へんな子だ、とヒロは思った。
その少年が加茂原 瞬。のちにヒロが「カモ」と呼ぶようになった少年だが、彼が「じゃあ」ともなにも言わず、さっさと坂を下りていってしまう後ろ姿を見ながら、
――なんだよ、あいつは。
ヒロは思った。かっこつけちゃってさ。
翌日、朝から雨だった。
ヒロは前の日に帽子をひろってくれた男の子が今日の雨を予想していたことなどは忘れていた。
が、学校へ行き、その日はじめて五年生のクラスに入ってみると、なんとあいつがいたのだ。
「よう」
カモは、ずっとまえからの知り合いのように、そういうあいさつをした。なんだ、こいつは、とヒロは思いながら、自分でもふしぎなのだけれど、胸がどきんとした。
そのときには、その少年がその後ずっと高校生になるまでいっしょのクラスという縁になるとは思ってもみなかった。クラスだけでなく、幾度くじ引きで席替えをしても、ふしぎに隣同士になるなんて……。当人同士は、席が決まると「またー?」「またかよ?」と、照れ隠しにお互い頬杖をついて背を向きあっていたが、ほかの女の子は大いにうらやましがっていた。
そういう宿命めいたことが、自分のこれからの人生に大きな影を落とすことになるなど、ヒロは想像するはずもなかった。