第16章 あららがま(5)
1ヵ月余が過ぎた。
李芝河への熱が下がってしまったわけではないのだが、脚本の進み具合は鈍っていた。シナリオ学校へは変わらず通っているし、ハングルの勉強も続けている。けれど、
――何かを表現するのは難しい。
と、ヒロは痛切に感じていた。歌手デビュー前のレッスンの時から分かってはいたが、自分には表現者としての才能が接客ほどはないらしい。書きたいことは頭の中にあふれるほど浮かんでいるけれど、それを表に出そうとすると、とたんに頭がからっぽになってしまう。コトバが出てこないのだ。表したい内容にピタッとはまる表現をひねり出すのがこんなに大変だとは思わなかった。
でもあせりは感じていない。以前のヒロだったら、がむしゃらに前に進もうとして暴走してしまうところだが、いまは違う。時にはスローペースでもいいんだと鷹揚にかまえている。宮古島での経験が、休むことの大切さをヒロに教えてくれたのだ。
――ゆっくりでもいいから、あせらずにいこう。
今度の夢は、言ってしまえば妄想みたいなものである。努力したら必ず叶うわけでもない。特別な夢実現モードに自分を追い込むのではなく、日常の自然体の中で少しずつ育んでいけばいい。
そう思ったとたんに、自然と筆が進んだりするので、やっぱりこれでいいのだ、とヒロはひとり微笑んだ。
そんなヒロのマイペースな日常に変化が起きたのは、彼がお店に現われた夜だった。
李芝河である。
二人のおじさんに挟まれるように入ってきた彼を見たとき、ヒロはしかし、それほど驚かなかった。
もちろん予想もしていなかったことだったが、
――あ、運命ってこういうこと……
という思いが強かったのだ。
だから、特にアピールもしていないのに、ヒロが李芝河たちの席につくことになっても驚かなかった。
彼の出演する韓国映画のプロモーションで来日したらしい。
ヒロは、他の客と変わらず自然に応対した。
李芝河の滞在は3日間だという。
しばらく、同行のおじさんの通訳を通して、さしさわりのない話がつづいた。ヒロはそのあいだにも、李芝河の横顔をときどき盗み見た。
実物もほんとうにカモによく似ていた。
いや、おとなになったカモが隣にすわっているとしか思えなかった。会話が途切れて、ヒロはほとんど口を開かず、静かにすわっていた。
李芝河が小さくつぶやいた。
通訳のおじさんが、
「ほう、そう」
と微笑んで、ヒロにこう通訳した。
「ギンザって、もっと嫌味で、恐いところだと思っていたと彼が言っているよ。滞在中、毎晩来てもいいかって」
「ぜひ」
とヒロは微笑んだ。社交辞令でないことは、だれにでもわかる笑顔だった。李芝河は、育ちのよさそうな顔でうなずいている。ヒロの胸に、とてもあたたかいものが急速に広がっていった。
その晩から、机に向かう時間が目に見えて増えた。
あせらずゆっくりいこうと思ってはいるが、「ここぞ」というときは一気に突き進んだ方がいいに決まっている。こうなったときに発揮するヒロの驚異的な集中力は、前と少しも変わることがなかった。
3日間、ほとんど完全徹夜に近い集中で、ついに『君とつながっていた』は完成した。