第16章 あららがま(4)
ある日、銀座みゆき通りを歩いていたヒロは、
「あっ」
と声をあげて立ち止まった。
そのようすが、あまりにもとつぜんだったのだろう、通りを歩く人々も一瞬止まり、ヒロを見る。
「すみません、忘れ物に気づいちゃって……」
とヒロは言い、止まって心配そうな顔をする人々にあいさつする。人々は、そうか、といった顔で笑みをこぼしながら去った。
けれども、ヒロは忘れ物をしたわけではなかった。
立ち止まったのは、ある映画館の前。
心配してくれた人たちがすっかり見えなくなってから、あらためてヒロは一枚のポスターに近寄った。
――カモ……
いま上映中の映画の主演男優の写真が似ているのだ、カモに。似ているというどころではない、ヒロはさっき全身に鳥肌がたったのだ。これは、カモそのものだ、と思った。
ずっと、『光を抱えた少年』の部分を書きつづけていたせいで、
――あたしの目がへんになってしまったのかなあ。
とも思った。
だから、いったん胸のドキドキがおさまるまで、映画館から離れて歩き、もういちど戻ってたしかめた。
――目の迷いじゃないわ。
はっきり確信した。
似ている!
きゅっと通った鼻筋。深いまなざし。凛と結ばれた唇。それだけでなく、ヘアースタイルまで似ていた。
ヒロは、迷わず入場券を買う。次の上映時間を知らされた。
――だめだ、観れない。
観ていたら、だいじなお客との待ち合わせ時間に間に合わなくなる。
ヒロは決断する。ホールの売店に急いで向かい、その映画のパンフレットを買うと、そのまま映画館を飛び出た。
「あ、お客さん……」
と驚いている窓口係の声に、右手をあげて軽くあいさつした。
そして、手近の喫茶店に飛び込んだヒロは、急いでパンフレットをめくる。
韓国男優だった。
李芝河というらしい。
簡単なプロフィルを読むと、こうだった。
汽船会社の重役の父と、バイオリニストの母とのあいだに生まれたということだ。学生時代は、評判の優秀な成績で、本人は天文学者を目指したという。それが、ある悲恋を経験してから、役者を志すようになった。
たったそれだけの記述だったが、ヒロの中に、むくむくとその李芝河の人間としての輪郭が浮かんできた。
その夜、店に出てヒロは客との会話を、うまく映画のほうに引き寄せて、
「そういえば、李芝河って知ってます? 韓国の俳優なんだけど」
と幾人かに尋ねてみた。
一人だけ、反応があった。
「あれは、いまは若いからトレンディな作品に使われているけれど、なかなかの性格俳優だ。いまに大化けするぞ。重みのある演技をするにちがいない」
そう言った。
ヒロは、飛びあがるほどうれしくなった。
――なんだろう、あたしは……
自分ながら、そのリアクションがおかしかった。
その映画はとうとう観る機会のないまま、上映期間を終えてしまった。が、プログラムを読んだかぎりでは、子どもだましのような恋愛ものだったので、
――ま、観るまでもなかったか。
ヒロは思った。
そのかわり、李芝河について映画誌などを調べた。まだ、数本しか出演がなく、得られる情報もほとんどなかった。
でも、ヒロの中にはいつのまにか鮮やかな李芝河像ができつつあった。
本屋で『韓国語入門』を買い、1日に最低30分、ハングル文字と格闘した。
お店で、たまに、
「結婚相手を世話してやろうか」
とヨタ話をされるときがある。
そういうとき、いままでは、
「あたし、生涯独身でいこうと思ってるの」
などと言ったりしていたが、それをやめて、
「あたし、夢中な人がいるの。俳優」
と言うことにした。ふしぎなことに、そのセリフは効果満点だった。
「そうか、そんなことだろうと思った」
と真顔で応じられて困ってしまうほどだ。
それは冗談だったけれど、李芝河に関してヒロが本心で思っていたことがあった。それは、
――あたしがいま書いている『君とつながっていた』という脚本が映画になるときは、彼にぜったい出てほしい。
もちろん、夢である。そんな虫のいい話が世の中にあると思い込むほど、ヒロも幼くはない。
けれども、その夢想はヒロを高揚させた。
さまざまなシーンがありありと浮かぶ。
ここでは李芝河にこんなしぐさを、ここではこんな表情を、と具体的な映像がくっきりと浮かんでくるのだ。